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第7話 中編

 旅人が初めて街を訪れたとき、必要なのは地図でも言葉でもない。

 周りを見渡す目と、自分を支えてくれる布切れ一枚のぬくもりだ。


 この章で語られるのは、少女が「生きる」ための支度を整えていく物語。

 だが、その支度とは、ただの防具や槍ではない。

 心に刺さった棘を、誰かがそっと抜いてくれるような――そんな温かなやり取りの記録だ。


* * *


「……で、どんな槍を打とうっていうんだ?」


 工房の親方は鉄と煤の匂いに包まれた空間で腕を組み、厳つい顔でブラーノとライナを見下ろしていた。まるで焚き火の熱をそのまま宿したような眼差し。灰と汗の混ざった空気の中で、声だけが鋼を打つように鋭く響く。


 その圧に気圧されながらも、ブラーノは一歩前に出て、小さく頭を下げた。


「……三又の、槍を打とうと思うんです」


「三又?」


 親方の眉が跳ねた。その横で、ナージャが困ったように笑った。


「ここに来る途中、私とブラーノはライナに助けられたんです。ゴブリンに囲まれていたところを。……でもね、彼、クワで戦っていて」


「ほう……クワでゴブリン倒すとは、なかなか剛毅だな」


 親方の視線が、改めてライナをなめるように見た。煤けた作業着のような服に、煤すらついた手。それでも背筋を伸ばしている青年に、何か感じ取ったようだった。


「でも、クワはあくまで農具。助けられたお礼に武器を打つって話になったんだ。で、剣は使ったことないって言うから、それなら槍……それもフォークに近い三又槍にしようって」


 ブラーノが説明を終えると、親方の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。その目には火の粉のような好奇心が灯っていた。


「ふむ……そりゃまた、変わり種だな。面白ぇ」


 親方は脇に立てかけてあった一本の木棒を掴み、ライナに手渡す。


「持ってみな。構えは?」


 ライナは戸惑いながらも棒を受け取り、構えた。村で鍬を構えるのと同じように、右手を引いて、左手を前に――。


「……おい、ちょっと待て」


 親方が眉をひそめた。


「左手の持ち方、それ逆手じゃねぇか?」


「えっ……?」


 言われてライナは慌てて手元を見下ろした。親指が下を向いている。言われてみれば確かにおかしい。けれど、それが彼にとっては“自然な持ち方”だった。


「順手ってのはこうだ。親指が上にくる。けどお前のは逆、親指が下――それ、紛れもなくフォークの構えだな」


「剣も槍も、習ったことは……なくて」


 視線を落としたライナの声は、かすかに震えていた。だが、親方は怒るどころか、むしろ面白そうに口角を上げた。


「なるほどな。だから“三又”か。お前が戦ってたのは、最初から“槍”じゃなくて“農具”だったんだな」


 クロがその足元に座っている。どこか陽炎のように揺らぐその姿を、ナージャがじっと見ていた。


「いいの? そんな持ち方じゃ、重心の制御が効かないんじゃない?」


「効かねぇよ。だが、それでも当てられるように作りゃいい。……守破離の“離”ってやつさ」


 親方はにやりと笑い、炉に向かって指を鳴らす。その瞬間、鍛冶場の空気が熱を帯びた。


「それに、こいつの振るい方を見てからじゃないと刃の角度も決められん。――ブラーノ、素振りを見ろ。今から三回構えさせて、どの角度で刃をつけるか見極めろ。柄の太さと重心もな」


「はいっ!」


 ブラーノが走ってきて、鉛筆を手に構える。ライナは棒を持ち直し、深く息を吸った。


 一度、二度、三度。躊躇いながらも真剣に、彼は振るった。最初の動きはぎこちなく、だが三度目には不思議と芯が通っていた。


「……右手がやや後ろ寄り、重心は後方に。柄尻にオモリをつけた方がバランスが良さそうだ」


「左手の滑りも確認しとけ。持ち手部分は木のままにして、滑り止めに樹皮巻きでもいいかもな」


「柄の接続部に、あの真鍮を飾りで使っていい?」


 ナージャの声に、ブラーノもぱっと顔を上げる。


「うん、あれ、記念にもなるし」


 クロは不思議そうに首をかしげていた。


「鍬みたいに、刃の三本とも横向きでいいのよね? 縦だと突くにはいいけど、払いには向かない」


「はい。……横でお願いします」


「よし。鉄を焼く。ブラーノ、温度は任せる。鍛えたいのは鉄だけじゃない。お前の技も、心もだ」

 

「はいっ!」


 ごうっ、と火が唸った。赤く染まった鉄の棒が炉の中で生まれ変わろうとしている。


「で、銘はどうするんだ? 入れるだろ、鍛冶屋なら」


 親方の問いに、ブラーノは一瞬言葉を失う。


「……いや、まだ決めてなくて……」


「は? なんのために鉄を打つんだ。職人名がなきゃ、武器に魂が宿らねぇだろうが」


 そのやり取りに、ナージャがくすりと笑った。懐からスケッチ帳を取り出すと、さらさらと筆を走らせる。


「じゃあ、これでどう?」


 描かれていたのは、クロを模した小さなシンボルだった。くるりと巻いた尾、陽炎のように輪郭の定まらない姿。


「……これ、クロか?」


「うん。助けてもらったからってだけじゃない。たぶん、私たちがこの旅を続けていくうえで、きっと何かを残していく。そういう気がするの」

 

 ライナはその印を見て、胸の奥がぽうっと熱くなるのを感じた。

 クロはというと、少し不満そうに鼻を鳴らし、でも何も言わずにスケッチを覗き込んでいた。

 

「じゃあ、これを刻むよ」


 ブラーノは頷き、手袋をはめ直した。

 親方が火花を散らしながら言う。


「よし、打て。刃は俺が研いでやる。お前は、お前の槍を作れ。誰にも真似できねぇ、お前だけの武器をな」


 ごう、と火がまた唸る。槌の音が、熱気とともに工房の天井に跳ね返っていく。


 世界に一本しかない、名もなき三又槍。

 それは今、ここから生まれようとしていた。

 

* * *


 打撃音が、鍛冶場に鳴り響いた。

 炉の熱が、汗となって二人の額を濡らす。

 ブラーノの槌がリズムを刻むたび、鉄はわずかずつだが確かに、その形を変えていく。


 最初はぎこちなかった打ち込みも、何度も火に入れては打ち、冷やしては形を整えるうち、次第に芯が通っていく。


「三又……真ん中はやや長く、両側は短め。すこし外に開かせて“払う”ことも考える。いいか?」


「はい……!」


 親方は横で刃の角度と厚みを確かめ、手直しの指示を飛ばす。

 ナージャはその横でクロの刻印を金属片に写し取り、真鍮のリングを整えていた。


「このリングは穂先の接合部と、柄尻のオモリ部分に使うわ。……さっきの真鍮インゴット、ちょうどいい硬さだった」


「ありがとう、ナージャ。……これ、ぜったいカッコよくする!」


「うん、任せたわよ」


 ライナは、炉の少し離れた場所で二人を見守っていた。

 鍛冶の音はどこか心を落ち着かせる。火の匂いと汗と鉄。

 それが、今は“安心”に感じられた。


 ふとクロが傍に寄ってきた。

 ライナの肩を鼻先でつつくと、小さく喉を鳴らす。


「……大丈夫。ちゃんと、受け取るから」


 ライナは小さくうなずいた。

 クワでしか戦えなかった自分が、いま、“誰かのために作られた武器”を手に入れようとしている。


 誰かが自分のために鉄を打ち、名を刻んでくれた――

 そのことが、言葉にならないほど、胸にしみた。


 そして、夜も更けたころ。


「……よし、焼き入れは終わった。仕上げるぞ」


 ブラーノの声は、少しかすれていたが、どこか晴れやかだった。


 刃を研ぎ、磨き、真鍮のリングをはめる。

 柄は、芯に強靭なオークの棒を使い、持ち手部分は摩耗を考えて残し、バランスを整えるために柄尻にも真鍮のリングをかませた。


 三本の刃は、すべて横向きに開かれ、わずかに外反している。

 突けば貫き、払えば引き裂く。

 農具から生まれ、武器に鍛えられた形。

 誰の槍でもない――ライナだけの槍だった。


「できたぜ」


 親方が布で汗をぬぐいながら、三又槍をライナの前に差し出した。


「……」


 ライナは無言でそれを両手で受け取る。

 ずっしりとした重みが、掌から全身へと伝わってくる。


「右手を後ろ、左手を前。そうだ、それでいい」

「柄尻が少し重くなってる分、振りが安定するはず。前に比べたらずっと、扱いやすいはずだよ」


 ブラーノとナージャが、肩を並べて笑っていた。

 クロが鼻を鳴らし、尾をぴたりと止める。


 ライナは、少しだけ構えてみてから、小さく息をついた。


「ありがとう。……本当に、ありがとう」


 その言葉に、親方が鼻を鳴らした。


「礼なんざいらん。……ただ、言っとくぞ。

 その槍には、お前の“語り”が乗る。これからの戦いで、お前がどんなふうに戦うかで、この槍の物語も決まる」


 その言葉に、ライナはそっと目を伏せ、そっと呟いた。


「じゃあ――語られるように、使う。……誰かを、守れるように」


 その声は、夜の火よりも静かで、けれど強かった。


 こうして、ライナだけの槍が、静かに生まれた。


 ライナの横で、ブラーノがどこか緊張した面持ちで聞いた。


「親方……本当に、ちゃんと出来てました?」


「悪くはねぇよ。刃の精度も甘いところはなかった。――あとは鉄火場で育てろ」


「はい!」


 ブラーノの顔が一気に明るくなる。その後ろで、ナージャが腕を組んで満足げにうなずいた。


「ふふ、やっぱりブラーノはやれば出来る子なのよ」


「う、うるさいよナージャ……!」


 照れ臭そうに顔を背けるブラーノに、親方がぽんと背中を叩いた。


 「お前らも、よくライナに武器を作ろうと思ったな。変わり者だが、悪くない筋してる」


 「ありがとうございます……!」


 ライナは槍を抱え直すと、そっと刃先を見つめた。

 鋭さだけでなく、どこか“物語の輪郭”のようなやさしさがそこにはあった。

 ゴブリンを払い、仲間を守り、そして語られる……。

 この槍は、ただの武器ではない。彼の“道”そのものなのだ。


 クロが槍の先に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。

 そして、どこか満足げにうなずいた。


『……よし、こいつはいい。語るに足る一本だ』


「ふふ……ありがとう、クロ」


「しかし、三又槍……面白ぇけどな。正規の騎士連中からは、あんまり好かれねぇ武器だぞ?」


「どうして?」


「……農民の武器だからさ。元を辿れば、家にあるフォークや熊手を握って、領主に歯向かった連中の道具。いわば“反乱の象徴”だ」


 親方は焚き火のような目で、三又槍を見つめる。


「パイクやスピアはな、王が兵に持たせる“秩序の槍”だ。整然と並んだ兵の象徴さ。だが……この三又槍は、そのどちらでもねぇ」


「どちらでも……ない?」


 ライナが問いかけると、親方はにやりと笑って言った。


「農民が自分の意思で握る“槍のような何か”。農具でもなく、武具でもなく、誰かに与えられたものでもない。……そういうもんを振るって生き延びる奴がいたって、俺はいいと思うぜ」


「……なんか、かっこいいですね」  


 ブラーノがぽつりと呟いた。

 ナージャは静かに笑っていた。


 クロが、鍛冶場の隅でごろりと寝返りを打った。

 

『ああ、そうとも。……語られる者の武器には、語りの力が宿るのさ』


 陽炎のような影が、微かに揺れた。


 その槍は、語られる者のために作られた。語られぬ日々の、あまりにもささやかで、しかし確かな誇りとして――。


* * *


 三又槍は、夜のあいだ、工房の奥で冷やされていた。


 夜が明けて、薄い霧が街路を包む頃。

 鍛冶場の戸口で、ブラーノがそっとそれを取り出した。


「……おい、駆け出しが打った槍にこんなに緊張すんなよ」


 そう言いながらも、ブラーノの手つきは真剣だった。

 刃の部分には、簡素な羊革のカバーが丁寧にかぶせられている。


「安もんだけど、羊革でカバー作っといた。擦れたりして刃こぼれしたらもったいないしな」


 手渡された槍を、ライナは両手で受け取った。

 重さ、長さ、握ったときのしっくりくる感触。すべてが、自分の身体に馴染む気がした。


「ありがとう、ほんとに……」 


 ライナがそう言うと、ナージャがふっと微笑んで、小さな布包みを差し出した。


「それと、もうひとつ。……これ、クロの分」


 包みをほどくと、中には小さな真鍮の輪がひとつ。

 かすかに渦を巻いた意匠が彫られていて、どこか陽炎を思わせる揺らぎがあった。


「耳飾り、って言えるほどじゃないけど……形になると、なんだか記念になる気がしてね」


 クロはぱちりと瞬きしてから、それをくんくんと嗅ぎ、ぺたりとライナの足元に座った。

 ライナがそっと耳元に飾ると、まるで最初からそこにあったかのように自然になじんだ。


『……うん。悪くない』


 くるりと一回転して、尾を立てるクロ。

 真鍮の輪が朝の光を跳ね返して、きらりと小さく輝いた。


 その様子に、ブラーノとナージャもつられて笑う。

 

「……さて、槍は手に入れた。次は防具、だな。街の外で何があるかわかんねぇ。さすがに素っ裸で戦えとは言えねぇよ」


 ライナが小さく笑う。

 それはほんの少しの余裕と、旅を続ける覚悟の証だった。


「うん。じゃあ、行ってみようか」


 クロがひょいっと飛び跳ねて、ふたりの足元をすり抜ける。

 その毛並みには、朝日に照らされた真鍮のリングがかすかに反射していた。


 セベシュの朝市は、すでに喧噪に包まれていた。

 露店のテントが立ち並び、パンの香ばしい匂いと、焼けた金属の匂いが入り混じる。人々の声、馬のいななき、荷車の軋む音が溶け合って、街全体が生きているように感じられる。

 

「……すごい。こんなに、人が……」


 ライナが呆然と立ち止まる。

 いくつもの音が一度に飛び込んできて、足が止まった。クロが足元に寄り添い、小さく頭突きをして促す。


「大丈夫。最初は誰でもびっくりするよ」


 ナージャが優しく声をかけ、ライナの手を軽く引いた。

 

「こっちよ、ライナ!」


 ナージャが振り返って手を握る。軽やかな声が市場の喧噪に吸い込まれながらも、不思議と届いてくる。


 クロが首をかしげて、ライナの足元を歩く。人の群れをすり抜けるように、ぴたりとついてくる姿がなんとも頼もしい。


 通りの両脇には露店がぎっしりと並び、布地、皮革、香辛料、何に使うのかわからない機械の部品までが並んでいた。

 値札なんてほとんど無くて、代わりに商人たちの喉が張り裂けそうな声が飛び交っていた。


 ライナは目を丸くした。


 ――なんて、騒がしい世界なんだろう。

 

 そのなかで、ひときわ派手な声が耳を引いた。


「見るだけタダだよお嬢さん! 王都仕込みの上物、旅人向けの価格で放出中!」


 声の主は、黄金色のインゴットを台に並べた男だった。

 指輪をごつごつと嵌めた手で、インゴットを一枚掲げてこちらに振ってみせる。


「いい色だろ? 見事なもんさ、王都じゃこんな値段では売ってねぇ。嘘じゃないよ! このケリム=ネズロフ、商売で嘘は言わねぇってメル神の宣誓済みさ!」


 その声に、ナージャが小さく鼻を鳴らす。


「……またやってるわね、あの手口。懲りないわね、ほんと」


「売れるのかな?」


 ライナが尋ねると、ナージャは肩をすくめた。


「金を見たことない人にはね。まぁ、騙されたってわかる頃には、あの男はもう別の通りにいるの」


 ナージャがあきれたように笑ったあと、ふと隣を見て表情を曇らせる。


 ライナは人混みの中にぽつんと立ち、じっとインゴットの並ぶ露店を見つめていた。

 目に映っていたのは金ではなく、その奥に広がる、この街の喧噪そのものだった。


 ——知らない世界。知らない人たち。

 なんだか、すごく遠くに来たような気がした。


 「……ライナ?」


 気づけばナージャが隣に立っていて、ライナの顔を覗き込んでいた。


「え、あ、ごめん。ぼーっとしてた」


「無理もないわ。都会に来たばっかりの子って、だいたいそう。街の空気に呑まれちゃうのよね」


 そう言って笑うナージャの顔は、どこか誇らしげだった。

 隣でブラーノも軽く手を挙げる。


「とりあえず、防具見に行こう。街の付近は魔物も多いし、何より槍だけじゃ頼りない」


「……うん。お願い」


 通りを歩いていくうちに、露店から鉄と皮の匂いが強くなった。

 鍛冶屋通りらしい。金属音があちこちから響いている。


 ある店の前でブラーノが立ち止まった。木製の棚に、大小さまざまな防具が並んでいる。


「新品もあるけど、こっちの中古が狙い目だな」


 そう言いながら、彼は丁寧に手袋をはめ、防具の内側を確認し始めた。


「ナージャ、これは?」


「縫い目が甘い。ほつれてるし、これはダメね」


「じゃあこっちは?」


「……うん、これなら」


 二人のやり取りが頼もしくて、ライナはただ見守っていた。

 しばらくして、ブラーノが棚の奥から一枚のジャケットを引き抜いた。


「ライナ、これどうだ? ブンダって言って、もとは下級兵士が着てたやつ。革と綿の詰め物がしてあって、動きやすい。破れてないし、なかなかの掘り出し物だ」


「これ……」


 ライナはそっと手を伸ばした。

 ざらりとした手触り。少し固いけれど、温もりがあった。


「……あたたかそう」


「でしょ? 着てみて。サイズも合いそうだし」


 ライナは袖を通してみた。肩が少し窮屈だが、悪くはない。


「……ありがとう。でも俺、お金、持ってなくて」


 その言葉に、ナージャとブラーノが顔を見合わせた。


「助けてもらったお礼。もともと新品買うつもりだったのよ。ね?」


「もちろん。ライナが居なかったら、俺たち死んでたかもしれないし」


 ライナは首を横に振った。


「……だったら、中古にして。その分のお金を、困ってる人に使ってほしい。俺はそれで、十分だから」


 ナージャが一瞬、言葉を失った。


 そしてふっと笑って、ライナの肩をぽんと叩いた。


「わかった。じゃあ、そうしましょう。……でも、ただの中古じゃ味気ないわね」


 彼女は懐から例のスケッチ帳を取り出した。ページをめくり、ある絵を指さす。


「皮の補強はもちろんするとして。これ、クロの絵。これを私たちの“印”にしようって昨日話したの。……これ、ブンダの背中につけましょ。目立つように」


「……宣伝か?」


 ライナが苦笑する。


「もちろん。きっと……ううん、絶対に、ライナは大層なことをする。商人の勘よ。でも、それだけじゃない」


 ナージャの瞳が、やさしく揺れていた。


「この印を見るたびに思い出してほしいの。“あなたが助けてくれた人たちが、いつもあなたの背中を見てる”って」


 ブラーノが照れ隠しに頭をかいた。


「俺たちのことも、忘れないでさ」


 ライナはしばらく黙っていたが、やがて、まっすぐに頷いた。


「……うん。ありがとう」


* * *


 語られるとは、不思議なものだ。

 火のそばで語られた英雄譚も、ひとつ街を越えれば名も知らぬ影となる。


 だが、物語の芯に宿るのは、名声でも栄光でもない。

 誰かの「ありがとう」、誰かの「あなたがいてくれてよかった」――

 そんな一言の積み重ねが、やがて槍を、服を、ひとつの“語り”に変えていく。


 それが陽炎のように、はかなくも確かに、誰かの目に映るなら。

 語り手として、それ以上の悦びはない。


 ――第7話 中編 『陽炎の刻印』

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