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第1話

 春とも夏とも言えない、揺らぎの季節だった。

 大地を撫でる風は、冷たさをわずかに残しながらも芽吹いた草花の香りを運び、春の名残を洗い流すように吹き抜けていく。

 陽光をたっぷりと浴びた草原が風に揺れ、丘陵の向こうへと連なる木々の波を震わせた。その風はやがて、人を拒む荘厳な森林の奥へと、音もなく吸い込まれていった。


 ここはヘルツェリア王国の北西の果て、山々と森に囲まれた辺境の村――リューン村。王都からは曲がりくねった山道と深い森を馬車で一か月以上もかけて抜けるため、年に一度の徴税官でさえ訪れを躊躇する場所――それがリューン村だった。蒸気車も魔導器も未だ届かず、文明の光よりも太陽と季節の気まぐれに寄り添う暮らしが静かに続いている。


「ねえ兄さん、もうちょっと奥に行ってみようよ。さっきより薬草の匂いが強くなってきた気がするんだ」


 十三歳の少女ユリアがそう言って指差した先には、木漏れ日に満ちた雑木林が広がっていた。初夏の若葉は風に揺れ、枝の隙間からこぼれる光が地面に揺らめきを描いている。森はまだ穏やかだった。鳥たちの声がこだまし、足元では小動物たちの気配が愛らしく行き交っていた。


 兄のライナはその声に振り返り、やわらかく微笑んで頷く。十四歳。リューン村で代々畑を耕してきた家の長男であり、妹を守ることが日常の一部になっている、そんな少年だった。


「無理はしないよ、ユリア。あんまり奥に行くと……獣の気配が強くなるから」


 その言葉に、ユリアは唇を尖らせる。


「ここはもう、村の狩人が見回ってるって言ってたもん」


「でも“あれ”がまた出たら?」


 横から声を挟んだのは、カイだった。ライナと同い年の幼馴染であり、自警団団長を父に持つ少年。背中には木剣、腰には短剣。彼なりに“守る”覚悟を示しているつもりだった。


 “あれ”――先月、森の外れで狩人が姿を消した事件。裂かれた肉、抜かれた血、影の中へ引きずり込まれたような失踪。村には不穏な噂が流れ、子どもたちの遊び話にさえ、その闇が染み込んでいた。


 リューン村の周辺には古くから古代獣や姿なき獣と呼ばれる魔獣が棲むと言い伝えられている。だが近年、それを見た者は誰もおらず、村人たちはいつしかそれを「ただの迷信」と笑うようになっていた。


 ――だがその日は、迷信が牙を剥く日だった。


 三人はまだ何も知らず、風に揺れる草の音を背に、ゆるやかに森へと足を踏み入れていった。


* * *


 森の入口では、まだ陽射しが差し込み、鳥たちが枝から枝へと軽やかに飛び交っていた。小さな虫たちは草の上を這い、リスが人影に驚いて駆け去る。

 季節の中に生き物の気配が濃く漂い、どこまでも平和な空気が流れていた。


「ユリア、もう少しでクサイチゴの茂みがあるはずだ。焦らなくていいよ」


「うんっ」


 ユリアが笑って頷く。額に滲んだ汗が陽の光を受けてきらめいていた。

 森に入ってからおよそ一時間。兄妹とその幼馴染は、薬草や食用の木の実を順調に集めていた。


 ライナはいつものように妹の一歩先を行き、道を切り開いていた。

 ユリアにとって兄は、“後ろを気にせず歩ける存在”だった。そしてカイにとっては、“決して追いつけない背中”だった。


「……ったく、農家のくせに、仕切りやがって」


 カイは、誰にも聞こえない声で呟いた。

 言葉にトゲはない。けれど胸の奥では、押し込めてきた苛立ちと焦りがじわじわと膨らんでいた。


 彼は自警団長の息子。村では「期待の星」と見られていた。

 剣も扱えるし、獣避けの知識もある。それなのに、ユリアのそばに自然に立っているのは、いつもライナだった。


 彼は剣を握ってなどいない。ただ手を伸ばし、当たり前のように妹を導いている。それが、腹立たしいほどに板についていた。


 カイは二人の背を見つめた。

 ユリアが兄の袖をつかみ、微笑む。その何気ない仕草に、胸の内に冷たい隙間が広がる。


 自分は、そこにいないのだと痛感する。

 いつだって傍にいるのは兄で、自分ではない。その距離の確かさが、剣の稽古よりも深く胸を刺した。


 ――そんな思考を断ち切るように、森の空気が、ふと、変わった。


 風が止まった。葉擦れの音がしなくなる。

 耳を澄ませば、聞こえていたはずの虫の羽音や鳥のさえずりが、どこかへ消えていることに気づく。


「……兄さん、今の、聞こえた?」


 ユリアがぽつりと呟く。


「いや……何も」


 だが、それこそが異常だった。

 “何もない”ことが、自然の中でどれほど不自然かを、三人は肌で知っていた。


 空気の密度が変わっていく。風が動かない。音が消える。

 まるで森そのものが息を潜め、何かを待っているような――そんな感覚。


「……気配が、ない」


 カイの言葉には、明らかな警戒が滲んでいた。


「ねえ……帰ろ? もう、十分採ったよ……」


 ユリアが、兄の袖をぎゅっと握る。


 ライナは、ゆっくりと一歩、彼女の前に出た。

 守るように立つその背中が、いつもより少しだけ大きく見えた。


 その光景に、カイの心がざらりと軋んだ。


 ――また、だ。


(守るのは、俺のはずだ)


 拳を握りしめる。

 自分は訓練を積んできた。剣を学び、森を歩き、獣と対峙する術を身につけた。

 なのに――危機の場面でユリアの前に立つのは、いつだってライナだった。


 農家の息子が。剣の腕も持たず、知識もないくせに。

 けれど、それが自然で、誰も違和感を持たないということが、何より自分を苦しめた。


「兄さん、怖いの?」


 ユリアが冗談めかして言う。

 でもその声は、ほんのわずかに震えていた。


「怖いに決まってるさ。でも――お前もカイもいる。俺がちゃんと守るよ」


 その言葉が、カイの胸を焼いた。


(……俺だって、守りたいのに)


 その時、ぱきり、と枝の折れるような音がした。


「来るぞ!」


 ライナが叫ぶと同時に、茂みが大きく揺れた。


 そして――現れた。


 黒き獣だった。

 狼のようで、虎のようでもある。しかし、どちらとも決定的に異なる存在。

 その身体は陽炎のようなもやに包まれ、その陰は風のように揺れ動いている。


 そして何より――目がなかった。


 けれど、それでも“見られている”と分かった。

 存在全体で圧をかけられているような感覚。空気が硬くなる。

 その全てが、ライナ一人に向けられていた。


「ユリア、逃げろ! カイ、頼んだ!」


 ライナの叫びに、ユリアが走り出す。

 涙を浮かべた瞳は必死で前を向いていた。足元がもつれそうになりながら、ただ兄の命令に従って逃げる。


 カイもその背を追いかけ――そこで、気づいてしまった。


(……この獣、俺を見ていない)


 狙われているのは、最初からライナだけだった。

 今も、まるで自分の存在など森にとって意味がないかのように、獣の意識は完全にライナに向けられている。


(なら、俺は――逃げられる)


 その考えが頭をよぎった瞬間、何かが決壊した。


(ライナがいなくなれば、ユリアは――)


 言葉にならない思いが、胸の奥でうねる。

 兄がいなければ、ユリアは、自分だけを頼るようになる。自分を“見てくれる”。


 ――それは、願いだった。

 でも、同時に恐ろしいほどの“裏切り”だった。


(……クソが)


 背には木剣、腰には短剣があった。短剣は、自警団に入るときに“守る者”として渡されたものだった。

 けれど、手が伸びたのは足元の太い枝だった。


 誰の目にも、それはただの木の枝だ。けれど、あのときの自分には――それが最も自然に思えた。


 “任せられた責務”ではなく、“叶えたかった願い”を選ぶという行動。

 だからこそ、今この手が握るものが語るのは、誰よりもはっきりとした“裏切り”だった。


 息を吐きながら、足元に落ちていた太い枝を拾い上げる。

 重みのあるそれを手に持ち、足を忍ばせる。


 ライナは背中を向けたまま、鉈を構えていた。完全に獣に意識を集中している。

 信じて背を預けている、その友に。


 カイは一歩ずつ、ゆっくりと、そして確かに――その背へと近づいていった。


 カイの足音は、枯葉一枚すら踏み鳴らさぬほど静かだった。

 けれど、心臓の音だけは――うるさいほどに、全身に響いていた。


(こんなこと、していいはずがない……)


 何度もそう思った。

 けれど――それでも足は止まらなかった。

 ユリアの涙が、ライナの背が、そして自分の中に渦巻く小さな願いが――そのすべてが、この一歩を後戻りできなくしていた。


 ライナの背は、ほんの数歩先。

 鉈を構えた右手は、わずかに震えている。それでも彼は、姿なき獣に意識を集中させ、守るべき妹の方を一度も振り返ろうとはしなかった。


 ――信じている。背を預けている。

 それが痛かった。


 それが、何よりも痛かった。


 カイの右手が、拾った枝をゆっくりと振り上げる。

 握る手には、汗がにじんでいた。


 思考が止まる。息が止まる。時間が、歪んで感じた。


 ただ、その一瞬の中で、ひとつの想いだけが心の底からせり上がってきた。


(……ごめんな、ライナ)


 鈍く、乾いた音が森に響いた。


 ライナの身体が、よろけるように前へ傾き、膝をついた。


「……っ……!」


 彼は声を上げず、呻くように呼吸を漏らしただけだった。

 だがその背中は、明らかに衝撃に晒されたことを物語っていた。


 カイは、息を殺してその場に立ち尽くす。手の中の枝はいつの間にか手放していた。


「……お前さえ、いなければ……」


 呟いた言葉は、もはや自分でも聞き取れないほどだった。

 謝罪だったのか、呪いだったのか、それとも願いだったのか――自分でもわからなかった。


 その時、姿なき獣が動いた。


 吠えもせず、唸りもせず。

 ただ、静かに、滑るようにライナへと歩み寄る。

 目がないはずなのに、その歩みにはためらいがなかった。


 鼻先で、かすかに血の匂いを嗅ぐような仕草をしたかと思えば、

 そっと――実に穏やかに、ライナの身体を咥えた。


 まるで、母が幼子を抱き上げるように。


 ライナは抵抗しなかった。

 もう、動けなかったのかもしれない。

 あるいは、すべてを悟っていたのかもしれない。


 獣は振り返ることなく、音もなく、ただ森の奥へと消えていった。


 森の静寂は再び戻り、風ひとつ吹かぬ中に、カイだけが取り残されていた。


 手はもう何も持っていなかった。だが胸の中には、消えない感触が残っていた。

 ライナの背に向けた一撃――あの瞬間、自分は何を壊したのか、まだわかっていなかった。

 けれどそのあと、何を手にしても、それは埋まらない気がしていた。


 木々は何も語らない。

 枝葉は何も咎めない。

 

 だからこそ、そこにいたのは――自分の罪だけだった。


 背後から、ユリアの叫び声が聞こえた。


「兄さあああああんっ!!」


 泣きじゃくる声が、森の奥へと、むなしく響いていく。

 返事はない。返せる者は、もうここにはいなかった。


* * *


 夕暮れの風が、山の向こうへと陽を連れ去っていく。

 森を抜けるころ、空はすでに茜から群青へと色を変え始めていた。


 泥にまみれた裾。切れた靴紐。

 ユリアは何度も転びそうになりながら、ただ必死に前を向いて走っていた。

 瞳は腫れ、頬には乾きかけた涙の跡が残る。


 声はすでに枯れていた。

 けれど、それでも彼女は兄の名を呼び続けていた。叫ばずにはいられなかった。


 隣を走るカイは、うつむいたまま黙りこくっていた。

 肩で息をしながらも、視線を地面から上げることができなかった。


 何を言えばいいのか――分からなかった。

 いや、きっと何を言っても、許されることはないと、どこかで理解していた。


「……誰か戻ってくるぞ!」


 村の見張り台から叫ぶ声が響く。

 それを聞いて、村人たちが次々に走り出した。


 門の前に集まる人々の視線が、駆けてくるふたりに注がれる。


「ユリア!」「どうした、怪我は!?」

「カイ、ライナは!?ライナはどうした!?」


 ユリアは誰の呼びかけにも応えなかった。

 ただ、震える手でカイの袖をつかみ、しゃくり上げるように泣き出した。


「お兄……お兄ちゃんが……私たちを、かばって……!」


 その言葉に、周囲が静まり返る。


 数歩前に出たカイが、ゆっくりと顔を上げる。

 息を整えながら、声を絞り出した。


「……魔物が……出たんだ」


 その声はかすれ、途切れがちだった。

 震える指先、噛みしめた唇。すべてが“恐怖に打ち震える少年”を演出していた。


「俺たち、薬草を採ってて……森の奥で、急に黒い影が現れた。でかくて、速くて……何もできなかった」


 語りながら、言葉の端々を震わせる。

 恐怖と無力感を滲ませる。

 そう、これは――完璧な“英雄の報告”だった。


「ライナが、囮になったんだ。俺たちを逃がすために……最後まで……っ」


 目元に涙を浮かべ、俯いた。


 村人たちの間に、ざわめきが走る。


「……ライナが……」「なんてことだ……」

「カイ、お前はよく戻った。ユリアを守った、それだけで十分だ」


 声をかける者、肩に手を置く者。

 カイの肩に触れるその手のひとつひとつが、刃のように胸に突き刺さる。


(やめてくれ……俺は……そんな人間じゃない)


 でも、それは言えない。

 言えるはずがない。


 ユリアもまた、兄の最期を語った。

 言葉はつっかえながらも、泣きながら、何度も繰り返す。


「お兄ちゃんが……私を守ってくれて……『逃げろ』って……」


 声は弱く、けれど確かだった。

 それがカイの嘘を、より確かなものにしてしまう。


 ――けれど、その場にいた一人だけが、他とは違う目をしていた。


 薬師のリーネ婆。


 白髪を後ろでひとつに束ね、その中にひと房だけ茶色が混じっていた。

 刺すような細い目元は、笑みも憐れみも通さず、ただ静かにカイを見つめていた。

 煙管から立ち上る煙の奥で、その瞳はまるで“人の心の裏側”を読んでいるかのようだった。


 他の誰もが信じたその話を、彼女だけは沈黙の中で咀嚼していた。


(言葉が整いすぎている。怯えていたにしては……美しすぎる)


(目がね。……あれは“命をもらった顔”じゃない。“命を差し出した”顔だ)


 リーネは、煙を細く吐き出しながら、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「人を殺さずとも、人を差し出すことはできる――そういう目をしていたよ、あの子は」


 遠く、山の向こうで風が鳴った。


* * *


 ――そこには、何もなかった。


 光も影もない。空も地も、風さえも存在しない。

 感触という言葉が意味を持たない、深く、白い、無の空間。


 けれど、その“何もなさ”の中に、たしかに一つの意識があった。


 ライナは、ただ、そこに“浮かんでいた”。

 眠っていたわけでも、夢を見ていたわけでもない。

 けれど、目を覚ましたという感覚だけは――確かにあった。


(……ここは……どこだ?)


 身体があるような、ないような。

 手を動かそうとしても反応はない。ただ、自分という“意志”だけが、何かの中心にぽつりと残されていた。


 ――ユリア。

 ――カイ。


 名前が、脳裏をかすめるたび、なぜかひどく遠くにあるように感じた。


(森で……何かが……)


 記憶の端に、黒い影。獣。

 それと、誰かの姿――それがカイだったことに、すぐには気づけなかった。


 言葉にできない何かが、頭の奥で引っかかっていた。


 その時。

 音もなく、空間がわずかに揺れた。


 揺れと共に、陽炎がにじむように現れる。


 煙のようでいて、実体を持ったようでもあるその存在――

 かつて森で出会った“姿なき獣”。


 それが、目の前に静かに姿を現した。


 ――気配は、恐ろしく静かだった。

 だがその沈黙の奥に、どこか深い疲労と、長い孤独が滲んでいた。


『……目覚めたか』


 声は低く、空間全体に響くような余韻をもっていた。

 けれど、不思議と威圧感はなかった。


「……お前は……」


『あの森で、お前を連れ出した者だ』


 声ではなく、思考に直接届くような響きだった。

 それでもライナには、確かに“言葉”として伝わった。


 彼は、自分の手を見ようとした。

 だが、そこにあったのは輪郭だけ――淡く揺れる光のような指。

 触れれば消えてしまいそうな、自分の“影”。


「……俺は、死んだのか?」


『否。お前はまだ生きている。だが――この世界に“存在していない”』


『お前という“物語”が、人々の記憶から、今まさに剥がれ落ちようとしている』


 意味は、すぐには理解できなかった。

 けれどライナは、直感的に、それが“真実”だと分かった。


 ――ユリアの顔が思い出せない。

 ――名前は覚えているのに、声も仕草も、だんだんと霧に包まれていくようだ。


『あのとき、私は選んだ。』


『お前の命を繋ぐために、“記憶”と“形”の根を断ち、この領域へ引き込んだ』


『それは――私の判断であり、お前の同意なくなされた行為だ』


「勝手に……?」


『ああ。私も、それを望んだわけではない』


 獣の輪郭が、かすかに揺れる。

 まるで、その言葉に重さを感じているかのように。


『お前を襲った少年――彼の手によって、お前の肉体は深く傷つき、命は尽きかけていた』


『私は……それでも、どうにかしてお前を守りたかった』


『だが……“形”までは癒せなかった。だから私は、お前の命の炎を癒し、保存した。』


「……保存、って……」


『存在をこの空間に留めること――そうすることで、命だけは繋がった』


『だが、その代償として、お前は世界から“忘れられる”存在になった』


『人々の記憶の糸から、ひとつ、またひとつと、切り離されていく』


 恐怖が、静かに胸を締めつけた。

 痛みではなく、喪失に近い感覚。

 自分が“消えていく”という、理解しがたい現象が――それでも、確かなものとして迫ってくる。


「じゃあ……俺は、このまま……」


『いずれは完全に、世界から消える。存在ごと、誰の記憶にも残らなくなる』


 言葉がない。


 それが、どれほど怖いことか――ようやく実感として、胸に染み入った。


『だが、方法はある』


 獣の声が、ふたたび響く。


『“物語”を集めよ。語られ、囁かれ、時に書に記される言葉――それらは世界の深層に染み込み、やがて“存在”として定められていく』


『お前は今、“語られるほどに存在が強まる”状態にある』


『物語を得れば得るほど、この世界におけるお前の“姿”と“在り方”が再び縫い止められるのだ』


『姿も、心も、時に変化するだろう。それでも、生き続けることができる』


『そしてこれは、私にとっても――忘却の淵から戻る、ただ一つの灯火だ』


 ライナが目を見開く。

 獣が、言葉を選ぶようにして続けた。


『私もまた、名を忘れられ、語られることもなくなり、失われゆく存在だった』


『記録もされず、人々の記憶の隅から消え、やがてこの世界との縁を完全に絶たれる運命にあった』


『だが、お前を救ったことで、私は“語られる物語”の一端となった』


『お前の中に、かつて自分が望んだ何かを見たのかもしれない』


 もしかすると、この獣もまた、誰かに語られたかったのかもしれない。

 世界からこぼれ落ちていく淋しさ――その痛みを知っていたからこそ、ライナを見つめ、共に歩む道を選んだのだろう。


『お前と共に語られることで、私もまた、再びこの世界に“定着”することができる』


『お前が変われば、私も変わる。お前が語られれば、私も語られる』


『それは、私にとっても恩恵だ』


 ライナは息を呑んだ――いや、“そう感じた”だけかもしれない。

 けれど、心の奥に何かが灯るのを、確かに感じた。


 これは、救われた者が負う借りではない。

 誰かに依存する契約でもない。


 ――共に語られることで、共にこの世界に残る。


「……じゃあ、俺とお前は……」


『共闘者だ。互いを縫い止め合う、未だ“語られぬ者”たち』


『この世界に生きるための、相互の物語だ』


 ライナは、そっと目を閉じた。


 その奥に、ユリアの顔が――ぼんやりと、輪郭だけが浮かんだ気がした。


 泣きじゃくる声。

 あの日、森で――自分の背に向けられた、あの叫び。


 思い出せないのが怖かった。

 だから、忘れたくなかった。


「……俺は、生きたい」

「ユリアに、“俺は生きてる”って伝えたい」

「だから……物語を集める。忘れられないように」


『ならば、お前は“語られる者”となる』


『語られよ、ライナ。その名が、物語の中で失われぬように――』


* * *


 数日が過ぎた。


 リューン村は、まるで何事もなかったかのように日々を進めていた。

 夜明けと共に鶏が鳴き、陽が昇れば農具を担ぐ音が響く。

 大人たちは畑を耕し、子どもたちは村のはずれで遊び回る。


 季節は、確実に夏へと向かっていた。


 ――けれど、ユリアの中だけは、季節が止まっていた。


 兄がいないという現実は、頭では理解していた。

 あの日、森でライナが魔物に連れ去られたことも、何度も何度も繰り返し聞かされ、語った。


 それなのに――兄の“顔”が、思い出せなかった。


(……おかしい)


 朝起きて、誰かと顔を洗っていたような記憶がある。

 畑で一緒に並んで土を掘っていたような気もする。

 怒られて泣いた自分を、黙って撫でてくれた大きな手のぬくもりも――確かに、あったはずなのに。


 いざ、それを言葉にしようとすると、何かが抜け落ちている。


 輪郭だけが、霧の向こうにあるようで、名前を呼ぶたびに、その存在が遠ざかっていく気がした。


「……兄さんって、何が好きだったっけ?」


 食事の途中、ぽつりとこぼれたその言葉は、自分の耳にさえぞっとするほど馴染まない。


 何も、答えられなかった。


 あまりにも自然に、あまりにも静かに――

 ライナという存在は、村の中から“にじむように”消えつつあった。

 


 カイもまた、村の隅で一人悩み続けていた。


「あの時、踏みとどまることができなかった」


 自分が選んでしまった“選択”の代償――

 ライナのいない日々が、胸に刺さり続ける。

 何かを言い訳しようとして、できなかった。

 ただ、「踏みとどまれなかった自分」の弱さを抱えたまま、眠れぬ夜を過ごした。


「疲れてるんだよ、ユリア。あんなことがあったんだ。無理もないさ」


 ユリアが一人うつむいていると、カイは優しくそう言って笑った。

 その笑顔は、確かに気遣いを込めたものだった。

 けれどどこか、何かを拒むような“壁”のようなものも感じられた。


 ――それでも、ユリアはその言葉に頷くしかなかった。


 夜になっても、眠れなかった。


 頭の中に浮かんでは消える兄の影。

 たしかに傍にいたはずなのに、もう輪郭すら思い出せない。


 泣きそうになったそのとき、ふと思い出した。


 リーネ婆の言葉。


 ――「思い出せるうちに、言葉にしな。忘れたくなきゃ、な」


 ユリアは、寝間着のまま机に向かった。

 手探りで、古びたノートを開く。

 その紙の端は柔らかく、何度も開かれたように折れ曲がっていた。


 インク壺にペンを浸し、震える手でペン先を紙にあてる。


「……兄さん……」


 呟くようにして名前を口に出しながら、ユリアは書き始めた。


 兄の好きだったパンの焼き方。

 昼食前にこっそり摘まんで母に怒られた日のこと。

 怒られても、へらっと笑っていた顔。

 土にまみれながら、ふと空を仰いでいた横顔。

 夕暮れの畑で、無言のまま鍬を振るう背中。ユリアを守る、背中。


 紙の上に言葉が落ちるたび、心の中にあったぼんやりとした影が、少しずつ“輪郭”を取り戻していく。


 涙が、紙に落ちて滲んだ。

 でも、ユリアはペンを止めなかった。


「思い出せないことが増えてきて、怖い」

「記録しておけば、きっと兄のことを忘れない」


 兄の“記憶”が遠ざかっていくのなら、自分が“記録”で繋ぎ止めなければ。


 この紙に綴る一文字一文字が、兄という存在の命綱になるような気がしていた。

 窓の外では、夜風が草を揺らしていた。

 その風の中に、誰かの気配を感じる――そんな気がした。


 ユリアはそっと目を閉じ、静かに胸の中で呟いた。


「……兄さん」


 記した本人すら気づかぬうちに、少年と獣の物語はそっと“語られ始めて”いた



* * *


 ……これは、まだ語られ始めたばかりの物語。

 存在が失われかけた少年が、再び世界に縫いとめられるまでの、最初の章。


 ――第1話『語られぬ者』



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