一章八話[霧患い]
「ああ!? おいおい、何言ってんだてめえ!?」
そういう反応も仕方がない。
自分の家が分からないとか、物忘れの範疇を明らかに超えて、もはや病気だ。とはいえ、あのまま一人残されたとして、なにも出来なかったのは事実。
さて、なんて言って弁明したものか。
「本当に大丈夫か!? どっかで頭打ったりしてねえだろうな!?」
「おっさんの拳骨なら喰らった」
「冗談言ってる場合か、馬鹿野郎!」
割と本気で言ったんだけどな。本気で痛かったし。
うーん、駄目だ。それ以外となると……見当もつかない。
なにせ始めから瀕死だったんだ。原因は主に手首の傷だったけど、それ以外の部分も無事かどうか、はっきりと断言することは、俺にはできない。
そんなこちらの不安を察したのか、おっさんの表情が一気に真剣なものに変わる。
「こいつぁ、まさか……」
嫌な予感のする台詞。それに続けて、
「……おい、シノ! てめえ、”霧”には触ってねえだろうな?」
「え、霧……って?」
確かに、森の中は多少霧がかってたと思うけど……それがどうしたんだ?
聞かれた意味が分からず、質問に質問で返す形になってしまう。
だが、そんな俺の様子でいよいよ合点がいったというようにおっさんは頷き、そして溜め息混じりに呟いた。
「それも分かんねえってのか……」
なんてこった、と項垂れて頭を抱えるおっさん。
「そんなら、もう決まりじゃねえか……! 道理で、なんか変だと思ってたんだ……やっぱ、そういうことかよ……クソ!」
なにが決まりなのか? なにがやっぱりなのか? なにがそういうことなのか?
状況が呑み込めず、俺の中には不安ばかりが募る。
「……おっさん?」
「ん? ああ悪ぃ悪ぃ。一番辛えのはてめえだよな」
言いながら向けられる哀れみの表情。可哀想なものを見るその目になんとも言えない居心地の悪さを感じて、俺は思わず目を逸らした。
やがて、一呼吸置いておっさんは話し始める。
「……”霧患い”つってな。濃い霧に長く当たるとなっちまう。ま、大抵は軽い頭痛だとか、その程度で終わるんだが……中には気絶しちまったり、ひでえ時には自分を失っちまう奴もいる。ちょうど、今のてめえみたいにな」
「な、なるほど……」
あの霧って、そんなやばいもんだったのか。ただの風景として見てたから鑑定もしなかったけど……記憶が飛ぶとか、滅茶苦茶有毒じゃねえか。危ねえ。
「ちなみに、それって治るもんなのか?」
「人によりけり、だな。症状が軽けりゃすぐ治るんだろうが、てめえは……どうだろうな」
そう言うおっさんの表情は暗い。
重症者は望み薄、ってことか。
いやまあ、俺の場合は霧がどうこうじゃなく、最初からなにも知らないだけなんだけど。
「なあ、シノ」
おっさんの呼びかけに目で返事をする。
「てめえ、どこまで覚えてる?」
「あー、っと……」
言葉に詰まる。
どこまでと言われたら、どこまでも知らないことだらけだ。
分かることといえばせいぜい、
「名前、くらいなら……」
正直、その程度だ。
鑑定の技能で得られる情報以外、俺にはなにも分からない。俺にあるのは、俺の記憶だけだ。
そんな事情を察したのかどうか、
「そうか……分かった」
「ごめん」
更に曇ったおっさんの顔を見て、思わず謝ってしまう。
「おいおい、なんでてめえが謝んだ?」
「いや、だって……」
「忘れちまったもんはしょうがねえだろ! なぁに、時間はあんだ! 焦ることはねえ、ゆっくり思い出しゃいい!」
その思い出自体が存在しないことに少しの罪悪感と寂寥感を抱きながら、俺は心からの「ありがとう」を伝えた。
「よし! ……そんじゃ、行くか!」
「え、どこに?」
「どこって、てめえん家に決まってんだろうが! 場所、分かんねえんだろ? 一緒に行ってやっから、ついて来い!」
言うやいなや、どこぞへと歩き出したおっさんの後を、俺は慌てて追いかけるのだった。
***
「そら、着いたぞ!」
歩き始めてから体感で十分程度といった所か、おっさんの指した方向へ顔を向ける。
「あれが……」
俺の家、か。
「なんつーか……」
こじんまりとしている。
見て得た第一印象はそれだ。正直な所、立派とは言い難い。木の板と丸太を組み合わせた簡素な一戸建て。吹けば飛ぶような、という表現が決して大袈裟にはならないだろうと思えるそれは、もはや家というより急拵えの山小屋と言った方がしっくりくる。
本当に、こんな所で暮らしてたのか?
そう思わざるを得ない。
「静かな場所だな……」
辺りに人気はない。民家も疎らだ。閑静と言えば聞こえはいいが、村の中心地から少し外れた場所にぽつんと建っているその家の様相は、まるで人目を避けているようにも、避けられているようにも見えた。
「どうだ? なんか思い出さねえか?」
「んー……」
そう言われても返答に困る。
帰って来た、という感慨もない。当然だけど、どんだけ見たってそこは、他人の家としてしか、俺の目には映らなかった。
でも、なんだろう……なんとなく、
「……ちょっと、安心する……かな」
それだけのこと。
たったそれだけの言葉だったけど、それを聞いておっさんは「そうか」と満足そうに頷いた。
「おっし! んじゃ、とっとと支度済ませちまうとすっか!」
「いてっ!」
背中をバシンと叩かれ、その勢いで玄関前に立つ。
もうちょっと力の加減を覚えて欲しい。不意の衝撃に眉を寄せながら、俺は扉の取っ手に手を掛けた。
ギィ、と木の軋む音と共にすんなり扉が開く。一応鍵穴はあるみたいだけど、鍵は掛かっていなかったようだ。
不用心、と思ったのも一瞬。失礼な話だけど、取られて困るような物がこの家にあるようには見えなかった。
「ただいま〜……」
中に足を踏み入れた瞬間、微かに黴臭い空気が俺を迎える。
後から「邪魔すんぜ」とおっさんが続き、後ろ手に扉を閉めながら一言。
「なんでえ、相変わらず殺風景な部屋だな」
他人の家に対していきなり酷い言い草だ。と言いたい所だが、実際おっさんの言う通りだった。
ザッと見回してみたが、なんというか、物が少ない。
机や椅子、箪笥にベッド。生活に必要最低限な物はある。でも、それだけ。料理に例えるなら、なに一つ調味料も彩りも加えていないような…そんな感じだ。無味乾燥。なんの味気も飾り気もないその部屋からは、あまり生活感がないような印象を受けた。
「ミニマリスト……んな訳ねえよな」
質素倹約にも程がある。
シノの体型や服装を見た時から薄々感じてはいたが、これで確信に変わった。
やっぱり相当苦しい暮らしを強いられていたみたいだ。
その理由は多分、
「能無しだから……か」
職がなければ金がない。金がなければ食がない。食がないから腹が減る。腹が減るから職を探す。能無しだから職がない。
悪循環だ。
その上、母親まで亡くしたとなったら……
「……つれぇよな」
絶望的な生活風景が頭に浮かんで気が滅入りそうになる。
「おいこら、なにボーッとしてんだ? 早く支度しねえと日が暮れちまうぞ!」
そう言われてハッと我に返る。
「いや、まあ、どこになにがあるか分かんなくてさ」
咄嗟に出た言い訳。だが嘘は無い。事実その通りだ。必要な物がどこにあるのか、俺にはさっぱり見当もつかない。
それがおっさんにも伝わったんだろう、
「そうか……そうだよな。すまねえ。そんなら、手当り次第探すしかねえか」
「悪ぃなおっさん」
「気にすんな! どうせ大して広くも見るとこもねえんだ! 二人でやりゃすぐ終わる!」
「お、おう」
なんだか失礼なことを言われたような気がするけど、実際その通りなのでなにも言えない。
とりあえず色々見て回ろう。
案外役に立つ物が見つかるかもしれないし、シノのことも、もっと知れるチャンスかもしれない。
そんな訳で、俺は探索ゲームをやるような感覚で部屋を物色し始めた。
「あ、待てよ……」
これってもしかして……鑑定使ったら早いんじゃね?
ふと思い立って試してみる。が――
「――いや、駄目か……」
すぐに断念する。
理由は単純だ。
鑑定というのは、なにも透視能力じゃない。例えばその辺の箪笥を鑑定しても、視界にはそのまま「箪笥」と表示されるだけで、中に何が入っているかまでは知ることができない。もしかしたら俺の実力不足もあるのかもしれないが、直接目で見た物に対してしか機能しないのがこの技能の現状だ。それが分かった。
結局の所、自分の手と足を動かして探すしかないようだ。
「どれどれ」
とりあえず近場から、目に入る所を調べる。
リビング(ダイニング?)にあるのは、なにも乗ってない机に椅子が二脚。それと小さな棚が少々。
「ちょいと失礼」
棚の引き出しを開けて中を覗いてみる。
入っていたのは、蝋燭が数本と着火器具らしき物。多分、夜の照明として使う物だろう。それ以外は特にめぼしい物はなさそうだ。
場所は変わって台所。料理に携わる者として、ここを素通りはできない。
「こりゃあ、随分使われてなかったみてえだな」
一通り見ておっさんが言う。
確かに、棚にある食器類も置いてある調理器具らしき物も、どれも薄らと埃を被っていて、日常的に使われているようには見えなかった。
「とりあえず、食器は店のもん使っとけ」
「あー、そうする」
とてもじゃないが、衛生面から見てもこれらを使う気にはなれない。ここは素直に甘えさせていただこう。
しかし酷い有り様だ。
食器なんかもそうだが、どこを探しても食料の類が見当たらない。小さな食料庫らしき物があったから中を覗いてみたが、当然の如く空っぽだった。
「そりゃ痩せる訳だ……」
これまで一体どうやって飢えを凌いでいたのか、想像するだけで辛い気持ちになった。
「クソ! 俺がもっとしっかりしてりゃ……! すまねえシノ、店着いたらすぐにこいつ食わせてやっからよ!」
肩に担いだキバニーを見せながらおっさんが言う。
それを聞いて、忘れていた空腹がまた鳴き声を上げた。
「ありがとう……って、そういやおっさん。それ、ずっと持ってるけど大丈夫か?」
血抜きはしているとはいえ生肉は生肉。そこまで時間が経った訳じゃないけど冷蔵もしてないし、腐らないまでも鮮度の方は落ちないんだろうか?
そんな俺の素朴な疑問に、おっさんが答える。
「なあに、問題ねえよ! ほれ!」
「うわ、冷てっ!?」
キンキンに冷えてやがる!
いきなり頬に押し付けられた獣の感触に対する感想がそれだ。
「なんだこりゃ!? なにしたんだ!?」
「んな驚くことねえだろ! 俺だって初級程度なら冷気魔法使えんだからよ!」
「冷気、魔法……」
炎、風と来て冷気の魔法まで使えんのか。なんでもありだな。見た目に似合わず器用、そして便利なおっさんだ。
「やれやれ、話してたら俺まで腹減ってきやがったぜ! こりゃあ、早く店行って飯食わねえとな!」
という訳で、探索を再開する俺達。
「あと見てないのは……あそこだけか」
寝室……と言っていいものかどうか。部屋の隅、ベッドと小さな机、それにクローゼットだけが置かれた質素な空間。
寂しい光景だ。そこは、他の場所となんら変わらない。
変わらない……
「筈なんだけど……」
堅そうな木の板に薄いシーツを敷いただけの簡素なベッド。それを見ていると、なんだか酷く寂しい気持ちになって……
「……っ……!?」
ズキっと胸が痛む。
そこに居るべき誰かが居ない。そんな虚無感があって、そして……
「あ……」
ふと、一つの物が目に止まる。
ベッドの脇、小さな机の上に置かれた写真立て。そこに収まった一枚の絵。それが視界に入った一瞬、俺の頭は真っ白になった。
「な、なんだよ、これ……?」
思わず手に取り呟く。
きっと出産祝いかなにかで描かれたのだろう。まん丸の赤ん坊を抱いた母親と、その隣で満面の笑みを浮かべる父親。珍しくもない。それは、どこにでも居る幸せな家族の肖像画だった。
勿論、俺の家族じゃない。きっとこれは、シノとその両親だろう。その筈だ。その筈、なんだ。
「なのに、なんで……ッ」
同じ、だった。
初めて見たシノの両親。見覚えのない筈の二人の顔は、俺にとって馴染み深い人達と――”俺の両親”と同じだった。
「訳分かんねぇ……!」
だけど、見間違える訳がない。
酒浸りの父親と、男好きの母親。忘れるものか。俺の頭にベットリとこびり付いて離れずにいる、碌でもないアイツらの顔。それと同じものが、今目の前にある。
――どういうことだ?
他人の空似というには、あまりにも似過ぎている。
まさか、アイツらもこの世界に……?
「おい……」
いや、そんな筈はない。
あのクソ親父は、俺がまだ幼い時にどっかで野垂れ死んだ。しばらく疎遠になっていた母親も、少し前に病気で死んだ。間違いない。葬式の時、遺体もこの目で確認してるんだ。
「おい……聞……て……のか!」
だから、違う。例え顔は同じでも、この人達は違う。断じて、アイツらなんかじゃない。同じであってたまるか!
「無視してんじゃねえ!」
「痛っ!?」
突然の衝撃に我に返る。
どうやらおっさんの拳骨を喰らったみたいだ。
物理的な衝撃で心理的な衝撃が上書きされて、少しだけ冷静になった。
それにしても、すぐ手が出るなこのおっさん。ここが現代なら大問題だぞマジで。
「ったく、どうしたってんだ? 急にボーッとしやがって!」
「あー、悪ぃ。ちょっとな……そうだ、おっさん。これ……」
そう言っておっさんに例の絵を渡す。
すると、
「おう、こりゃまた懐かしいもんがあったじゃねえか! 見ろよ、このちっこいの! てめえも昔はこんなだったんだぜ!」
「へぇー……じゃあ、この二人はやっぱり……」
シノの両親で間違いないみたいだ。
俺の両親と同じ顔の二人。いや、でも、それだけと言えばそれだけだ。
よく見たらまるで雰囲気が違う。
俺の親父はこんな銀髪じゃなかったし、母親の方も、こんな清楚な黒髪じゃなかった。
なにより違うのは、この表情だ。幸せそうな笑顔。こんな風に愛されたことなんか、俺にはない。我が子に対する愛情なんて、アイツらには欠片もなかった。
だから、これはやっぱり別人だ。
そう思った時、少しだけ気分が楽になった。
「そいつらのこと、分かるか?」
おっさんの問いに、少しだけ考える振りをして俺は答える。
「俺の親……だよな?」
自信なさげな俺の態度を見て、おっさんは悲しそうに「そうか」とだけ呟いた。
「……そうだな。コトハと”シバ”。まあ、なんつうか……村一番のおしどり夫婦だったぜ」
「仲良かったんだ?」
「おうよ! 少なくとも、アイツらが喧嘩してるとこなんか俺は見たことがねえ」
「へぇー、凄ぇな」
どこまでも俺の両親とは正反対みたいだ。
幸せそうな家庭環境。そこだけはシノの事が羨ましいと、そう思った。
ともあれ、懐かしそうに目を細めながらおっさんは語る。
「二人にゃ俺も随分世話になった。特にシバ……てめえの親父がいなけりゃ、俺は今でも村に馴染めてなかったかもしんねえ」
「ふーん、そんな頃もあったんだ」
「まあな。なんせこの見た目だ。余所者ってのもあったろうが、村に来てすぐの頃は、好き好んで俺に声を掛ける奴なんかいなかったぜ…………一人を除いてな」
「その一人が……親父?」
「ああ、そうだ! 気さくな奴でよ! 初対面から知り合いみてえに馴れ馴れしく声掛けてきやがるから、俺の方が面食らっちまったもんだぜ!」
そう言って思い出に浸るおっさんの顔は、どことなく楽しそうだった。
「腕っ節も強くてな! 魔法の扱いは勿論だが、特に剣を持たせりゃ世界でも指折りってなもんよ!」
「そ、そんなに……」
「ああ、俺も騎士ってやつは何人も見てきたが、アイツはそん中でも別格だったぜ!」
騎士ときたか。似合わねえな。
そう思ってしまうのは、きっと俺の中に先入観があるせいだろう。
人当たりが良くて、強く逞しい父親……か。まさに理想的な感じだ。あのクズとは、やっぱり似ても似つかない。
「凄い人だったんだな。親父」
「誇れよシノ。アイツは最高の騎士で、最高の父親だった。最期までな」
「それって……」
なんとなく、分かってはいた。
シバ・シルヴァーン。最高の騎士で最高の父親だったその人に、俺は会うことが出来ないって。
証拠に、
「やっぱ、覚えてねえか……本当に重症みてえだな」
そう言うおっさんの表情は、今までで一番暗く、悲しげなものになっていた。
そして、意を決したように――
「――十年前だ。てめえの親父が死んじまったのは」
その言葉に、なんとなく胸が苦しくなる。
「病気、とか?」
「んなもんでくたばるタマじゃねえ! アイツは、シバの奴はな……!」
言いながら拳を震わせるおっさん。その様子からは悔しさが滲んで見えた。
「闘った! 必死にだ! アイツしかいなかったからな。あんなバケモンとやり合えるような奴は」
「バケモン?」
「ああそうだ! どっから来たか知らねえが、突然現れたと思ったら辺り一面火の海にしやがって……! ありゃあガキん頃に寝物語で聞いた通りの、災厄そのものだったぜ! そんな奴の前にアイツは立ち塞がって、闘って……そんで――」
声を震わせ、目頭を押さえながら言葉を続けるおっさん。
「――死んだ。あのとんでもねえバケモンから村を、てめえを、守り抜いて……死んだ」
ズッシリと、胸に鉛でもを埋め込まれたような気分になった。
当事者でもない俺がそう感じるんだ。おっさんやシノの心情は、察するに余りある。
「ごめんおっさん。辛い事、思い出させて」
「構わねえ。誰にとっても辛え思い出だ。そん中で一番辛かったのは、てめえとコトハだったろうからな」
「うん……そう、なんだよな……」
自分の事なのに自分の事として捉えられない。今は、その事がとにかくもどかしかった。
そんな俺の心情を察してか、おっさんが言う。
「まあ、思い出せねえんなら無理に思い出すこたぁねえ。今はな。ただ……」
ポン、と頭に手を置かれる感覚。
「……シバもコトハも、てめえを一番に想ってた。どこの誰がなんと言おうと、てめえら家族は、最高の家族だったぜ。それだけは覚えとけ」
「うん、ありがとうおっさん」
心からの言葉。
十年前とか、化け物とか。父親とか、母親とか。正直な所、分からないことだらけだ。いや、例え全てを知ったとしても、所詮は他人事でしかない。それでも、感じることはある。
少なくとも、シノにもちゃんと味方と呼べる人達がいた。不幸と不幸が重なり周りの全てが敵に見えるような境遇の中で、少しでも手を差し伸べてくれる人達がいたのなら、それだけは本当に良かったと、嬉しく思った。
「……さてと。話が長くなっちまったな。そろそろ出るか!」
「ちょい、まだなんも準備してねぇけど?」
「大丈夫だ! そこの棚に服やらなんやら入ってやがったからな! とりあえずこんだけ持って行くぜ!」
そういうおっさんの手には、いつの間にやら膨らんだ布袋が握られていた。
「っと、その前に……今更かもしんねえが、その格好はなんとかした方がいいな。ほれ! こいつに着替えとけ!」
「あー……うん」
返事をしながら渡された服を受け取る。
確かに、洗ったとはいえ血が付いたり土が付いたりしていた服のままで食品を扱う店に入るのは、衛生上宜しくない。破れてて見栄えも悪いし、ここはおっさんの言う通り、着替えておこう。
「そんじゃ、俺は外で一服してるぜ。早く来いよ!」
そう言って出て行ったおっさんの背中を見送る。
途端に部屋は静けさを取り戻し、寂寥感が増したように感じた。手元には見知った顔の……でも知らない人達が描かれた絵が一枚。
残された俺は、
「……なんなんだよ、この世界……なあ、神様?」
一人、答える者もないそんな問いを呟きながら、着ていた服を脱ぎ捨てるのだった。
***ヴァルド視点***
「霧患い……か」
指先に灯した火でつけた煙草を吸って、溜め息と共に煙を吐き出す。
「参っちまうよな……」
なんとなく、予感はあった。
密度の濃い魔素の霧が立ち込め、その上、凶暴な捕食者が多いってことで村の連中も立ち入りが制限されてる禁足地――通称『霧の森』。
そこでシノのやつと再会して目を合わせた時、アイツは……まるで初対面の人間に会ったような顔をしやがった。
その後の道中もそうだ。正直な所、アイツの言動や態度に、なんとなく違和感を覚える瞬間は何度もあった。
そん時は見ねえように、気にしねえようにしてたが……ここに来て、いよいよそれも無視できなくなった。
「そんで、蓋を開けてみりゃ……だ」
霧患い、それも重症ときた。
考えりゃ当然の結果だ。能無しのアイツが……魔素耐性のないアイツが、森に入って無事で済む訳がねえ。
「馬鹿野郎が……!」
自分に向けた言葉だ。
分かってた筈だ。あの日から……いや、生まれたその日から、アイツががどれだけ追い詰められていたか、苦しんでいたかってことは。そしていつか、それに耐え切れなくなる日が来るってことは、分かってたんだ。
「今日だとは、思わなかったけどな……」
だからこそ、間に合って良かった。
なんとかギリギリだったが、取り返しのつかないことになる前にシノのやつと再会できて、本当に良かったと心から思う。
例え、アイツがアイツでなくなっていたとしても。
「シノ……」
覚悟は、決めた。
今までなにもしてやれなかった。そのせいで、こうなっちまった。俺は、本当に馬鹿野郎だ。もっと早くこうしていれば……今更後悔しても遅いだろうが、これ以上はしたくねえ。
それになにより、
「約束、だったからな……」
シバの……友の最後の言葉。息子を頼むと言ったその手を、俺は掴んだ。
今までは見守るばかりだったが、コトハもいない今、それだけじゃ足りねえ。
だから……ここから先は、友に代わって俺がシノの面倒を見る。誰がなんと言おうが知ったこっちゃねえ。父親を失い、母親を失い、終いにゃ自分まで失っちまったアイツを、俺が全力で守ってやる。そうしなきゃ、ならねえんだ。
「――お待たせ!」
声のした方へと目を向ける。
戸を開けて出てくるその姿を見ながら、俺は煙草の火を消した。
「おっし! そんじゃ行くぞ、シノ!」
「おう! 案内頼むぜおっさん!」
見知った顔から慣れない呼ばれ方をすることに多少のやりづらさを感じながらも、俺は自分の店に向けて歩みを進める。
「……頑張んねえとな……」
「なんか言ったおっさん?」
「いや、なんもねえ」
これから先への覚悟と、決意を固めながら。
次回「ただいま、おかえり、はじめまして」
乞うご期待!