一章六話[冷たい視線]
森の中を歩き始めてからしばらく、休憩によって回復していた息が再び上がり、視界に自分の爪先しか映らなくなってきた頃――
「――お! やっと抜けたな!」
そう言うおっさんの声に釣られて顔を上げると、そこにはようやく鬱蒼とした木々以外の景色があった。
草原だ。
今までの薄暗い雰囲気は鳴りを潜め、明るく拓けた大地が姿を現した。
「くぁ〜っ、やっぱ遮るもんのねえ空ってのはいいもんだよな!」
「そうですね」
全くもって同意。
この爽快感。広がる青空を綺麗だなんて思うのはいつ以来だろうか?
馬鹿でかい入道雲に燦々と輝く太陽。元の世界となんら変わりないそれらを見ながら、俺は少し感慨に耽った。
「やれやれ、やっと帰って来れたな!」
そう言うおっさんの視線を辿る。すると、そこには小さく村の入口らしき門が見えた。
ようやく、この世界に来て初めて人工の建造物を見た気がする。野獣避けだろう木製の柵で中までは見えないが、村へ近付く毎に妙な安心感が全身を巡り、緊張が和らぐのを感じた。
「おーい、爺さん! 生きてるか?」
門の側、ちょこんと座り込んでいる人影におっさんが話し掛ける。
早速第一村人発見だ。
見た感じ定年は余裕で超えていそうな爺さん。簡素ながら防具を装備していて、壁には槍が立てかけてある所を見るに、多分門番なんだろう……けど、
「……グゥ……グゥ……」
返事がない。ただの屍のようだ。
という冗談はさておき、余程暇だったのか、その場に座り込んで気持ち良さそうに舟を漕いでいる爺さん。
その肩を、おっさんは「やれやれ」と溜め息混じりに掴み、激しく揺さぶった。
「……ぬ、ぬぉぉ……首が……! だ、誰じゃい……?」
その勢いで流石に目覚めた爺さんが槍を構えながら言う。
「なんでぇ、ついに俺の顔まで忘れちまったか?」
「なんじゃと! 誰が耄碌ボケ爺じゃ!」
「そこまで言ってねぇだろ! 槍を下ろせ! 危ねぇな!」
おいおい、大丈夫かこの爺さん?
二人の会話を聞きながらそんな感想を抱く。
「ふ、ふん! まあ待て。ちゃ〜んと覚えとるわい! あ〜……あれじゃ。ほれ、確か……道具屋ん所の倅の……トム?」
「ぜんっぜん違ぇし、道具屋の倅はケビンだ! やっぱボケ爺じゃねぇか!」
「ありゃ? そうじゃったかのう?」
駄目だこの爺さん……早くなんとかしないと。もしかしてまだ寝てんじゃないのか?
そんなことを思っていると、おっさんが呆れたように、
「……んで、そろそろ目ぇ覚めたか?」
その問いに対してフンと鼻を鳴らして爺さんは答える。
「なんじゃい、もう終わりか? 久々に会ったくせに釣れないのう、ヴァル坊は」
そう言ってカッカと笑う爺さん。
ヴァル坊ってのは、もしかしなくてもおっさんのことか。坊って歳でも柄でもないと思うけど……とにかく、一連の会話は二人にとって定番のものだったらしい。
よかった。どうやら呆けた爺さんはどこにもいなかったようだ。まあ、寝ぼけてはいたみたいだけど。
「ったく……相変わらずだな爺さん! ま、元気そうでなによりだぜ!」
「お主もな。長旅じゃったが、変わりないようで安心したわい」
そうやって再会を喜び合う二人。
話から察するに、おっさんもどこかへ行っていたらしい。なんの用事でかは知る由もないけど、長旅って言うくらいだ。それなりの期間留守にしていたんだろう。
「村の衆も寂しがっとったわ。あんな事もあったからのう……」
「ああ……聞いてる。知らせが届いたんでな」
そう言った瞬間、二人の視線が急にこちらに向く。
え? なに? なんだ?
状況が掴めず目を泳がせる俺。やりづらい雰囲気の中、爺さんは複雑そうな面持ちで言った。
「コトハ嬢のことは……残念じゃった」
そこでチクリと胸が痛くなったのは、その名前に聞き覚えがあったからだろうか。
「もうひと月になるのか。正直、まだ信じらんねぇよ。あのコトハがまさか……」
「じゃろうな。村にいた儂とて、実感を得るには時間がかかったもんじゃ……」
そう言って遠くを眺める二人からは、滲み出るような寂寥感が伝わってきた。
「結局、俺はなにも出来なかったな……」
「仕方あるまいて。お主が旅立って間もなくのことじゃったからのう……それに、なにも出来んかったのは皆同じじゃ」
「けどな……」
そこで言葉を切ったおっさんは、とても悔しそうに奥歯を噛んでいた。
その様子を見ながら、俺は思い出す。
――コトハ……か。
さっき森の中で聞いたな。確か……シノの母親、だったか? 二人の話しぶりからすると……亡くなったんだろうな多分。そりゃこんな雰囲気にもなるか。
もしかしたら、シノが自殺なんかしようとしたのも、そこに原因があるのかもしれないな。
どんよりとした重たい空気が場を支配し始めた頃、
「ええい、やめじゃやめじゃ。その子の前でする話でもあるまい」
「それも、そうだな。すまねぇシノ」
「いや、そんな……」
こんな風に謝られるのも何度目か。
母親の死。
事情を知らないだけに、どんな感情でそれを受け止めていいか分からない。
ただ一つ思うのは、
「“同じ”だな……」
ということだけ。
それが最近の出来事か、少し前の出来事かの違いはあれど、母親がいなくなったのは、なにもシノだけじゃない。俺も、一緒だった。
まさかそんな所まで一緒とは……もはや親近感を通り越して気味の悪さすら感じる。
いやまあ、俺の方は碌な母親じゃなかったが。
「――時にお主」
そう言って話題を変えたのは爺さんだ。
「なんでその子と一緒におる? 王都へはお主一人で行ったんじゃろが?」
「今更だなおい。別に……なんてことはねえ! 悪ガキ一人、“霧の森”に入った馬鹿野郎がいるって村のやつに聞いたからよ。連れ戻しに行っただけだ!」
ただそれだけのこと。だから、深く語るつもりはない。
暗にそう言うおっさんの雰囲気を感じたのだろう、爺さんは「ふむぅ」と顎を撫でると、
「そうか……」
と言ってそれ以上なにも追求してこなかった。
「いやぁ、まさか儂が眠……目を離しておる時にそんなことになっとるとは……油断も隙もないのう」
「おいおい頼むぜ爺さん! やっぱ引退した方がいいんじゃねえのか?」
「なぁ〜にを言うか。儂ぁまだまだ現役よ! 不審者一人、捕食者一匹通しゃせんわ!」
俺のことは通しちゃったみたいだけどな。とは言わないお約束だ。
「とにかく、二人とも無事でなによりじゃ! 帰ったらゆっくり休むがよかろ」
言いながらおもむろに門を開ける爺さん。
「そうさせてもらうぜ。んじゃ、またな!」
「うむ! おおそうじゃ、また店にも顔を出すからの」
「おう! 明日から再開すっから、よろしく頼むぜ!」
そう言って手を振りながら門を通り抜けるおっさんの後を、俺はついて歩く。
木の軋む音。背後で門が閉まっていくのを感じる。
その時――
「――“ノーマン”……生きて……か……」
微かに、そんな声が聞こえたような気がした。
思わず振り向いたが、そこにはもう閉まり切った門扉しか見えなかった。
「気のせい……か?」
分からない。
でも、引き返して聞く気にもなれないし……気にしても仕方ないか。
そうして、俺はなんとも言えないもやもやを抱えながら、その場を後にするのだった。
***
「おお……!」
思ったより広い。
門を抜け、目の前を過ぎていく景色に抱いた感想はそれだ。
村の中をぶった切るように流れる川。その近くで耕された田畑は広大で、中には果樹園もあるみたいだ。
何を作ってるんだろう?
川沿いに水車が見えるけど、あれは粉挽き用かな? だったら麦みたいな穀物はある筈。後は……分からない。
妙な色と形の野菜に果物。流石は異世界、そう思うのは何回目か。見慣れないそれらに料理人として非常に興味がそそられる。後でゆっくりと鑑定してみたい。
「なぁにキョロキョロしてんだ? 」
「あ、すいません!」
「別に謝ることはねえだろうが」
いかんいかん。
思わず上京したてみたいなリアクションをしてしまったが、今の俺はこの村で育った人間だ。その記憶がないとはいえ、変に思われても居心地が悪い。
特におっさんにはこれから厄介になるんだ。行動言動にはある程度気を付けるべきかもしれない。
「まあ、心配すんな! 俺がついてっからよ!」
そう言ってドンと胸を叩くおっさんを頼もしく思っていると――
「――おお、店長! 店長じゃねえべか!」
声がかかる。
立ち止まって見れば、畑で農作業をしていた男達がこちらに手を振りながら近付いて来ていた。
「なんだぁ、おめえ帰って来たべか! 久しぶりだなぁ」
「おう! 久しぶりだな! 元気してたか?」
「見ての通りだべ! 俺っちも畑の野菜達もこんなに立派に……今季も豊作だべ!」
「そいつぁいい! また店でも使わせてもらうぜ!」
「勿論だぁ。用意しとっから、後で取りに来るべ!」
「ありがてえ! そんじゃ、“あいつら”に取りに行かせっから、よろしく頼むぜ!」
朗らかなやりとりだ。和むなー。さっきまで森の中で死にかけてたことが嘘みたいに思える。
しかし慕われてるなこのおっさん。さっきの爺さんとの絡みといい、村の中でのおっさんの立場がなんとなく分かるような気がする。こりゃ店の方は繁盛してそうだな。
「明日から店再開すっからな! また食いに来いよー!」
「んだ! 楽しみにしてるべー!」
去り際の営業トークに人の良い笑顔で答える男達。
長閑な人達だったなー。
ここに来るまでは色々と不安だったけど、この感じなら上手くやっていけそうだ。
しまったな。俺も何か喋っとけばよかったか……。
「……そうだ!」
一言、せめて挨拶くらいはちゃんとしとこう。ここが何処だろうと礼儀は大切。コミュニケーションの始まりはいつだって挨拶からだ。
そう思い、俺は男達の方を振り返って――
「――ッ!?」
瞬間、息が詰まる。
その光景の意味不明さに、全身の肌が粟立った。
――見られていた。
視線、視線、視線。ついさっきまでの朗らかな笑顔が全部演技だったんじゃないかと思える程の、冷たい視線。
その場にいた全員が、そうやって睨むように、蔑むように、俺のことを見ていた。
「え、えっと……あの……」
なんとかそれだけ声を絞り出した時には、男達は皆気まずそうに俺から目を逸らし、それぞれ作業に戻っていった。
「なんなんだよ……」
心当たりは、勿論ない。
いや、俺に記憶が無いってだけで、実はシノが町一番の不良だという可能性もある……あるかもしれないけど。
――違う。
感覚がそう告げる。
そうだ、違う。あれは……そういうのじゃない。
だって、俺は“知ってる”。
同じだ。あの日……学校中の奴らが無遠慮に向けてきた、あの目と。
「クソ……嫌なこと思い出した……」
忘れようとしていた記憶。
通りかかる生徒や先生、その全てが同じ表情で俺を見る。
不良に向けられるような恐れの混ざったものとはまた違う、自分達と異なるものを忌避して、軽蔑する冷ややかな視線。そんな不快な注目に晒された日々。
誰も彼もが敵に思えた、そんな中学時代だった。
それと同じような悪寒を、まさかこんな所でも感じるなんて。
「なにが異世界だよ、畜生……!」
多少なりともワクワクしていた気持ちを返してくれ。どいつもこいつも、俺になんの恨みがあるってんだ!
「……なぁに一人でブツブツ喋ってんだてめえは?」
声を掛けられてハッと現実に戻る。
どうやら心の声が少し漏れていたようだ。怪訝な顔でおっさんがこっちに目を向けている。
「別に……なんでも、ないです」
それだけ言って後は黙った。
なんでだろう。なんとなく、おっさんに今の光景を伝えようとは思わなかった。
「まあ、なんだ……色々不安なのは分かっけどな。ぼーっとして転ぶんじゃねえぞ!」
俺の気持ちを知ってか知らずか、そう言って心配してくれるおっさん。
辺りを見渡してみると、いつの間にやら田園風景は終わり、ポツポツと住居が現れ始めた所だった。
「おっ! 店長!」
「あらヴァルドさん!」
通りかかる人も増えてきた。
その全員が漏れなく挨拶をしてくるんだから、村でのおっさんの慕われようが分かる。
そして、
「おい、あれって……」
まただ。
殆どの村人が去り際に冷たく俺を見てくるんだから、その嫌われようが分かる。
「……本当に、なんなんだ……?」
気分が悪いことこの上ない。
おっさんの方はこの状況に気付いてるのかいないのか、ズンズン歩みを進める。
そうしていると――
「――おーい、店長さん!」
またもや声がかかる。
見れば、一人の青年がこちらに手を振っていた。
「おう、表門の! さっきぶりだな! 休憩か?」
「はい! 交代の時間なので、家に帰る所です!」
はきはき答える青年。
ふむ……さっき会った爺さんと似たような格好をしている。どうやらこの人も門番らしい。正門担当って所か。声や態度から真面目そうな印象を受ける。
「それより、先程は驚きましたよ! 帰ってきたと思ったら、突然森の方へ走って行ってしまうんですから……」
「あー、そいつはすまなかった。ちょうどお前らの話が聞こえたもんでな」
「話? ああ……」
その瞬間、青年の視線が俺の方に向いた。
まただ。この突き刺さるような視線。一体なんだってんだよ。
「彼……一人で霧の森に行ったという話でしたけど……無事、だったんですね……ひょっとして、店長さんが?」
「だったら、なんだ?」
含みのある青年の問いにおっさんは表情を険しくする。
「す、すみません……でも、店長さんも分かってるでしょう? 悪いことは言いません。彼に……“ノーマン”に関わるのは、お止めになった方が……そうでないと……」
引っかかる。
――ノーマン。
どういう意味かは分からない。ただ、その言葉を聞いた瞬間、胸に氷が刺さったような思いがした。
「教会の奴らが黙ってねえってか? はっ! 関係ねえよ! 俺は、俺が正しいと思ったことをやるだけだ!」
「店長さん……」
「悪ぃな! 心配してくれんのはありがてえが、俺の腹ぁもう決まってんだ!」
きっぱりと言い切るおっさんの姿に目頭が熱くなる。
やばい……また泣きそう。
「でも…………いえ、分かりました」
諦めたように溜め息を吐く青年。そんな彼に、それ以上話すことはないと言わんばかりにおっさんは背を向けて、
「そんじゃ、またな!」
「はい。くれぐれも、お気を付けて……」
そんな言葉を背中に受けながら、俺達は再び歩き出した。
「悪ぃなシノ……アイツも、悪意がある訳じゃねぇと思うんだが」
おっさんはそう言うけど、この村の人達からはどう見ても悪意しか感じられない。
現に今、こうして村を歩いている間にもチラチラと嫌な視線を向けられている所だ。
「ママー! 見て、ノーマンがいるよー!」
「こらっ! あんまり見ないの! ……すみませんヴァルドさん」
そうやっておっさんに頭を下げる親子がいた。
「チッ、ノーマンが……」
そうやって通りすがりに舌打ちする男がいた。
「忌み子じゃ……ほれ」
「ノーマンじゃ……」
そうやってコソコソ話す年寄りがいた。
皆が皆、俺にだけ届くような声量で悪態をついてくる。
「……うるせぇな」
寄ってたかってノーマンノーマンって。本当に、なんだってんだよ!?
意味が分からないもどかしさがイライラへと変わっていく。
そんな俺の雰囲気を感じたのか、
「……気にするこたぁねえぞシノ! てめえが悪いことなんざなんにもねえんだ! 堂々としてりゃいい!」
きっぱりとそう言うおっさん。
味方がいる。その事実が暗澹とした俺の心を少しだけ晴らしてくれた。
最初に出会ったのがこの人で本当に良かった。今の所、この世界で唯一信頼できる存在だ。心からそう思う。そう思ったから、
「あの……」
一つ、尋ねる。
「さっきから皆が言ってるその……ノーマンって、なんでしたっけ?」
変なことを聞いている。それは百も承知。シノの立場なら知らない筈はないだろう。でも、どうしても俺は知りたかった。
こんなに皆から嫌われるなんて、ノーマンって、一体なんだ?
「あん? おいおい、なに言ってんだてめえ。大丈夫か?」
予想通り、怪訝な顔をするおっさん。
当然の反応だ。この世界の人間からすればきっと非常識な質問だったろう。それでも、知らないままでいる訳にはいかない。
これだけは、
「すみません、ちょっとド忘れしちゃって。あの……教えてくれますか?」
かなり苦しい言い訳だと我ながら思う。だけど、俺の真剣な気持ちが伝わったのか、おっさんは怪訝な顔をしながらも質問に答えてくれた。
「……ま、いいけどよ。いいか? ノーマンってのは――」
と、その時だ。
「――おやおやおやおや」
ねっとりとして、耳に張り付くような声だった。
それに釣られて視線を向けた時――
「――チッ……」
おっさんが小さく舌打ちするのを、俺は聞き逃さなかった。
次回「持たざる者」
乞うご期待!
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