二章八話[波乱の航海・起]
「なんで……なんでだよ……!」
「ご主人……」
早朝の食堂――そこにあった光景を目の当たりにして、俺達は言葉を失っていた。
足元には、つい数時間前まで生きていた筈の男が、まるで時間から切り離されたように静かに横たわっている。
――沈黙。
船に打ちつける波の音だけが妙に大きく聞こえ、辺りの静けさが重たくのしかかる。
現場には争った形跡も、逃げた足跡もない。
まるで“ここに在るべきでないもの”だけがぽつりと置き去りにされたようだった。
その異様な光景に、俺もレイも、他の誰もが、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「……彼は、ニックは……本当に死んでおるのかね?」
最初に口を開いたのは、キャプテンハットを被った大柄の老人――おそらく、この船の船長だろう。
「はい、残念ですが……」
船医らしき女性がニックの脈を確認して、短く答える。
「そうか……」
船長は深くうなだれ、帽子の影でその表情を隠す。だが、拳が小刻みに震えていて、完全には動揺を隠しきれていなかった。
「大変なことになっちまったなぁおい……」
「ええ、まさかこんな……」
硬い表情で呟いたのは、ギリアンとヴィオレさんだ。
「死因は? 分かるかね、イレーネ?」
船長が静かに問い掛ける。
聞かれた船医――イレーネは冷静にニックの遺体を確認し、結論を述べた。
「後頭部に紫斑が……頚椎が折れています。直接の死因は、おそらくこちらでしょう。他にも、手の方に火傷や細かな傷がありますが、この件には関係ないかと」
「……ふむ、まあ、奴は料理人じゃからな。手に傷の一つくらいあろうて。それにしても、首の骨が……のう」
息を吐いて、なにやら思案する船長。
「背後から、かなり強い衝撃が加わったものと思われます。詳しい状況までは、分かりませんが」
淡々と告げるイレーネに、その場の誰もが悲痛な顔をしていた。
ひたすらに重たい空気が漂う。
「……ところで」
船長が、不意に俺の方へ目を向ける。
その視線に――なぜか背筋がひやりと冷えた。
「ニックを最初に見つけたのは、君だったね?」
その問いは、ごく自然だった。
だが瞬間、食堂にいた全員の視線が俺に向いたことで、胸の奥がぎゅっと締まった。
「え、ええ……まあ、はい」
「こんな早朝に? まだ食堂は開いていなかったと思うがのう」
船長の問いは、穏やかな声音で放たれたはずなのに、鋭く俺の耳に刺さった。
周囲の空気が、さらに重たく沈む。
ギリアンも、ヴィオレさんも、レイでさえも、息を呑んでこちらを見ていた。
誰も、俺を疑っているわけじゃない。
そう思いたい。だが、状況があまりにも不利すぎる。
船長の言った通り、死体の第一発見者は――俺なんだから。
「いやすまん。別にお前さんがなにかしたなんて思っとらんよ。ただ、状況を説明してほしいんじゃ。なんでここに来たのか……いいかね?」
「はい……」
空気が冷たく感じるのは気のせいだろうか。全員が固唾を飲んで見守る中、俺は言葉を絞り出した。
「……その前に一つ。昨日の料理対決のこと……船長さんは?」
「おお、それなら勿論聞いとるよ。随分な騒ぎだったとな。中でも、お前さんの作った料理は絶品だったと、ウチの船員も言っとった……なかなかやる料理人のようじゃの?」
「いやそんなことは……」
急に褒められて言葉に詰まる俺。
「フッ、謙遜せんでもよい。お前さんがニックのやつに勝ったのは事実じゃ。それにしても……カレーとやら、儂も食べてみたかったのう」
残念そうに言う船長に、「それで……」と俺は続ける。
「そのカレーなんですけど……実は勝負の後、ニックさんから作り方を教えてほしいって言われてて……」
「ほぉ、あの頑固者が……それは珍しいのう」
顎を撫でながら唸る船長。
「それなら聞こえてたぜ! 確かにそんな話してたな!」
「私も聞いたわ……でも、待って? 約束の時間は、その日の夜って言ってなかったかしら?」
時間の辻褄が合わない、と。
説明を求めるヴィオレさんの視線が俺を射抜く。
「ええ、まあ、最初はその予定だったんですけど、ニックさんから『今夜はやらないといけないことがある』って言われて……結局、料理を教えるのは今日になったんです」
事実だ。
だからこそ、俺は今、ここにいる。
「そう、だったのね……ごめんなさい。余計な口を挟んで」
神妙な表情で謝罪を述べるヴィオレさん。
よかった。納得してくれたようだ。
「いえ……とにかく、そういう訳で今日、俺は約束通りの時間に食堂に来たんです」
「レイも! レイもご主人についてったにゃ!」
静かな食堂の中、レイから「変な匂いがする」と言われて、嫌な予感がしたのを思い出す。
それから……手を引かれて歩いた、その先で――
「ニックの死体を見つけた、と。ふむ……なるほどのう」
船長は呟き、深く考え込むように目を伏せた。
「……最初は、寝てるのかと思ったんです。でも、声をかけても返事がなくて……」
言葉がそこで止まる。
喉の奥が詰まったようで、続けられなかった。
「……そうか」
船長は重々しく頷き、俺の顔をじっと見つめた。
「よく話してくれたのう。辛かったろうに」
そう言って俺の肩を叩く船長。
「……それで? これからどうするのかしら?」
そんなヴィオレさんの問いに、即答できる人間はいなかった。
「事故……じゃねぇんだよな?」
「さてな。昨日から今まで、海も穏やかじゃからのう……イレーネ、どうかね?」
「……断定は、できません。残念ながら」
首を振るイレーネ。
その言葉の意味するところは、あまりに重い。
――“ニックは殺された”。
その可能性があるという事実に、俺は息を呑んだ。
「仲間の死……船を預かる者として見過ごせん。全員を疑うつもりはないが、ここは海の上じゃからな。外部から侵入した形跡もない以上、この船内の誰かがやったと考えるのが自然じゃろうて」
つまり、容疑者は――この場にいる全員。
もちろん、俺も含まれる。
「そんな……一体誰が……?」
誰かが呟いたその言葉に、俺達は互いに顔を見合わせた。
目の前にいる人間が殺人犯かもしれない。
疑念と恐れ。重苦しい沈黙がその場を支配した。
「……あ、怪しいのはあの人よ!」
ふいに聞こえた声に目を向ける。
そこにはウェイトレスの女性がいて、“一人の人間”を指差していた。
「…………俺?」
瞬間、心臓が跳ねた。
周囲の視線が一斉に俺へ突き刺さる。
「な、なんで……」
思わず声が上ずる。
ウェイトレスの女性は興奮したように言った。
「だって……見たもの! 私が食堂に入った時、アナタがニックさんを床に置いて……それから、慌てて逃げようとする所……!」
成る程。確かに、彼女が食堂に来たタイミングだと、そんな風に見えたかもしれない。
でも、
「違う! それは――」
――誰かを呼びに行こうとしたんだ。
そう反論しようとしたところで、
「待った! 落ち着くんじゃ、二人とも。」
船長の低い声がそれを止めた。
「いいかね、“ハンナ”や……今の状況では、誰が怪しい、怪しくないと断言はできん。誰もが感情的になっとるからのう。こういう時こそ、冷静な判断が必要じゃ」
そう船長に諭され、ハンナと呼ばれたウェイトレスは口を噤んだ。
「少なくとも、現時点では“事故か他殺か”すら決まっていません。早急な断定は避けるべきです」
イレーネの言葉に、全員の緊張がほんの僅か揺らぐ。
「……だったら」
決意の声。気が付けば、俺は一歩前に進んでいた。
「だったら、調べさせてください! ニックさんがどうして死んだのか、何が起きたのか……俺は、真実を確かめたい! それで、証明したいんです!」
己の潔白を。
それだけじゃない。
ニック……俺と同じ料理人の、その失われた命に報いるために。
逃げ出したいほどの緊張感の中、全員の視線を受けながら俺は言い切った。
「ほぉ……自ら捜査を、か」
船長が興味深そうに片眉を上げる。
「にゃにゃっ! それなら、レイも手伝う! ご主人を悪者扱いなんかさせないにゃー!」
レイが俺の前に飛び出し、両手を広げて守るように立つ。それに思わず笑いそうになるが、表情を引き締めた。
「船長……お願いします。船内を調べること、許可してもらえませんか?」
「ふぅむ……」
思案する船長。
しばしの沈黙があり、やがて――
「――まあ、よかろう。儂らも捜査の達人ではない。真実を追う人手は多い方がいいからのう」
その言葉に、手の力が抜けそうになるほど安堵した。
「ただし、じゃ。一つだけ条件がある」
「……条件?」
船長は指を一本立て、俺の目をまっすぐ射抜く。
「ハンナ――彼女を連れて行くこと。それが条件じゃ」
「は? えっ? 船長?」
突然の指名に、ハンナは目を丸くする。俺も思わず言葉を失った。
「まあ、監視役じゃな。しかし誤解せんでくれ。お前さんを犯人扱いしとるわけではない。ただの手続きみたいなもんじゃ。船という密閉空間で死者が出た以上、独断で歩き回る者を見過ごすわけにはいかんのでな」
穏やかな声音だが、そこに揺るぎは一切ない。
たしかに……合理的だ。
「ハンナは昨日の勝負も見ておったし、ニックとも付き合いが長い。それに、よく気が付く娘じゃ。同行者としては適任よ」
「で、ですが船長! わ、私は……その、まだ彼を疑って――」
「――だからこそ、じゃ。直に見張っておった方が、お前さんも納得いくじゃろ」
ハンナはぎゅっと唇を噛み、視線を落とした。
やがて――拳を握りしめ、顔を上げる。
「……わ、分かりました。船長がそう言うなら。私……ちゃんと見届けます」
声を震わせながら言うハンナに、船長は笑顔で頷いた。
「よし、そうと決まれば、早速捜査開始じゃ! 各自、よろしく頼むぞ!」
声を張り上げ場を締める船長。
その声に従い、各々が各々の役割に沿って動き始める。
最低限の人員だけを残し、あっという間に食堂からは人がいなくなった。
「えっと……よろしく、ハンナさん?」
「よろしくにゃー!」
声をかけた俺達に対し、警戒心を露わにするハンナ。
まだ疑ってんのか……。
まあ、いいさ。
別に仲良くする必要はない。
それよりも――
「それじゃ、行こう」
――ニックの死。その真相に向かって。
俺達は一歩を踏み出した。
次回「波乱の航海・承」
乞うご期待!




