一章三十三話[赤き災厄]
***とある老人の話***
「……そろそろ、交代かのう」
昼下がり、誰ともなしに呟きながら、大きな欠伸をひとつ。門番の老人は腰をさすりながら、のっそりと立ち上がった。
「やれやれ、老骨には堪えるわい……」
かれこれ十年ほど、この裏門の番をしているが……こちら側を通る者といえば、狩猟職の若者か、時折森から迷い出る捕食者くらいのもの。それ以外が好き好んで霧の森に行くこともない。故に、今日も今日とて、平和で退屈な一日だった。
「いや……」
ふと、老人は思い出す。
数日前に一人、ここを通った少年がいたことを。
「……シノ坊」
親譲りの銀髪に、細身の体つき。村でも目立つ存在だ。悪い意味で、だが。
「……まさか、帰ってくるとはのう」
老人の顔に、苦々しさが滲む。
能無し――そう蔑まれた少年にとって、この村はあまりに厳しかった。
誰からも蔑まれ、冷たい視線を向けられる毎日。
そんな中、数少ない支えだった父を亡くし、母も亡くし、絶望に沈んでいたあの子に……それでも、老人はなにもしなかった。
静かに門をくぐって森へと向かうその背中を、ただ見送って……見て見ぬ振りをした。
その方が、あの子にとっての「救い」かもしれぬ、と自分に言い聞かせながら。
愚かだった、と老人は思う。
だからこそ――
「ありがとうよ……」
誰ともなしに礼を言う。
あの子は、帰ってきた。一人ではなく、二人で。
「ホッホ。ちっとばかし、大人になったのう……ヴァル坊」
村一番の料理人――ヴァルド。
始めの頃は荒っぽく、落ち着きのなかった若者。
だが今や、村にとっても欠かせない、頼もしき存在となった。
あの二人が共に帰ってきたのを見た時、老人は確かに感じたのだ。
もう大丈夫だ――と。
「はてさて、これからどうなるか……」
森から帰って以来、少年は少し明るくなった。最近はあの兄妹とも仲良くやっているようだ。
それが、老人にとっては素直に嬉しかった。
そして今、彼らは、戦っている。
この村を覆う、歪んだ空気と。この世の理不尽と。
応援したい、とは思う。
だが、その“理不尽”の中心にいるのは――
「――ホアード、あの馬鹿者め……」
怒りと、悔しさと、どうしようもない情けなさ。
老人の顔が、ゆっくりと曇っていく。
「すまんのう……」
村長ホアード。自身の息子で、そして、今や村を縛り付ける権力者。
十年前、老人をこの地位に据えたのも、ホアードの提案だった。
当時は、それでもいいと思っていた。
自分自身の器が矮小なことは誰よりも分かっている。年齢的にも、そろそろだった。だからこそ、ホアードやズークの言う通り、老人はかつての地位から退いたのだ。
「……だがのう、ホアード。儂はもう、黙ってはおれんぞ」
枯れた眼差しの奥に、微かな火が灯る。
息子の気持ちは、分からないでもない。
十年前――老人の妻が、ホアードにとっての母親が死んだ。そこに原因があるであろうことは、分かっている。
誰かのせいにしたい。それは、理解できる感情だ。
だが、それでなにもかもが許される筈もない。
「この老いぼれにも、せめてできることをのう……」
憎む相手が違う。
前任の村長として、父として、それだけでも、伝えなくては。
老人は、皺だらけの顔をくしゃりと歪めて笑った。
「……っと、その前に……腹拵えじゃな」
腹の虫が鳴る。
大して動いてもいないのに結構なことだ。
交代の者は、まだだろうか?
待ち遠しい。やって来たら、またヴァルドの店に顔を出すとしよう。
風が、強く吹いた。
「……む?」
そんな声が出たのは、森の方から、こちらに向かう影が見えたからだ。
獣か? いや違う――あれは、人だ。
なんの迷いもなく歩いて、こちらへ近付いてくる。
「誰じゃ……?」
村の者ではない。
魔術師が着ているような黒衣を纏い、フードを被っているその姿は、明らかに異様だった。
老人は立て掛けてあった槍を取る。
招かれざる客が来た。本能的に、そう感じた。
「待たれよ」
声を掛けると、黒衣の者はその場で立ち止まった。
「旅のお方、道に迷われたかの? こちらは裏門じゃ。村の者以外の出入りはできんでの。村に行くなら、この塀に沿って表に周ってくれんか?」
問いながら槍の柄をしっかりと握る。
黒衣の者は応えない。無言のまま、足を一歩踏み出す。
老人は槍を構えた。
「……お主、なにが目的じゃ?」
引かずに問うが、やはり黒衣の者は応えない。また一歩、近付いてくる。
「やれやれ、仕方ないのう」
盗賊かなにかだろうか? なんにしても、まともではない。
老人は、足腰に力を込める。
「悪いが、ここは通せん。それ以上進むなら、無傷で済む保証はないぞ?」
その声に反応したのか、黒衣の者は再び立ち止まった。
そして、老人は見る。
フードの奥――闇の中から覗く、その顔。
「お、お主ッ――」
言い終えることはなかった。
――ドォン、と。
空気が震え、光が目を焼く。
赤くて、熱くて、そして――
――その後、そこにはただ、焦げた土の匂いと、折れた槍の柄だけが残されていた。
***シノ視点***
――地獄だ。
店の外、目の前に広がるこの光景を表すのに、それ以外の表現が浮かばなかった。
阿鼻叫喚、逃げ惑う村人達。なにかが焦げたような匂いが、鼻につく。
「なんだ、これは……なにが起きている!?」
ズークが叫ぶ。その表情に、先程までの余裕は全くない。
熱風が頬を撫でる。
燃える建物。黒煙が天を突くように立ち上っていた。
それだけじゃない。
「う、うわぁーーッ!」
逃げていた村人。その姿が忽然と消えた。
いや、違う。そうじゃない。
上だ――その姿を目で追いかける。
そこには――
『――ギャォォォォォォォオ!』
空を舞う飛竜。物語でしか見たことがないようなそれが、哀れな村人を宙に攫って弄んでいる。
「い、嫌だッ! 嫌だーーッ!」
叫びも虚しく、村人は悲惨な末路を辿った。
散らかし、貪る。
残酷な捕食行動に、思わず目を背けた。だが、その先でも似たような光景が広がり、あちらこちらで血の雨が降っていた。
「ワイバーンの群れ……!? こいつぁ、まさか……ッ!?」
現実感のない状況、おっさんの声で、我に返った。
「――紅竜だッ!! “司災獣”が来たッ!!」
村の誰かが叫んだ。
司災獣――その言葉を聞いた瞬間、本能的な恐怖を感じて体が震える。止まらない。
「し、司災獣だってぇ!? そんなぁ……パ、パパ!」
慌てふためいたカーバッドがホアードに助けを求めるように声を掛ける。
しかし、
「……パパ?」
答える声はない。
息子の声にすら反応せず、ホアードはただ一点を見つめ、凍ったように固まっていた。
なんだ? とその方向に俺達は目を向ける――
「――ッ!!」
見えた。
見えてしまった。
遠くに、山のようなソイツが。
全身に炎を纏い、圧倒的な存在感でそこに――“赤き災厄”が、そこにいた。
次回「生きて欲しいから」
乞うご期待!
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