一章三十一話[薄曇りの再出発]
***シノ視点***
薄曇りの朝。
人気のない店内に、包丁の音が静かに響いていた。
――トン、トン、トン。
おっさんが黙々とネギを刻んでいる。
俺もまた、黙々とスープを混ぜていた。
店の厨房。湯気の立つ鍋から、鶏ガラや豚骨の特徴ある香りが漂う。
客席の椅子はまだ逆さの状態でテーブルに置かれたまま、扉には「準備中」の札がぶらさがっている。
この空気の中に、イケスの柔らかな声も、カナエの機敏な足音もない。
「なんで……」
帰るって……また後でって、言ってたのに。
「なんでだよ……!」
思わず声が漏れる。
瞬間、湯気の向こうで包丁の音が止んだ。
おっさんと目が合う。
「……しょうがねえさ。アイツらが決めたことだ」
「でも、おっさん……!」
「うるせえ! てめえも料理人だってんなら、分かるだろ? ケジメは、つけなきゃなんねえ。例え身内でもな」
それは、理解はできる。でも、納得はできない。
俺が黙っていると、おっさんは包丁を置き、布巾でまな板を拭いた。
「……ああ、そうだ」
ぽつりと、おっさんが言う。
「イケスから伝えといてくれって言われてたんだ。てめえに」
「俺に……?」
なんだろう?
俺は静かにおっさんの言葉を待った。
「『妹を助けてくれてありがとう。後は任せた』……だとよ!」
それだけ言って、おっさんは再び包丁を手に取った。
――トン、トン、トン。
規則正しく響くリズム。
それはまるで、厨房の心臓が動き出したみたいに聞こえた。
「……なんだよ、それ」
任せられたって、そんなの、俺には……。
「はぁ…………」
俺は、深呼吸をして寸胴の蓋を閉める。
グツグツと静かな音が、店内にこだました。
俺は一人、客室に移動してテーブルの上から椅子を下ろす。
「待ってるからな……」
イケス、カナエ。いない二人の顔を浮かべながら呟く。
もうちょっとしたら帰る――そう言ってたよな?
だったら、信じる。それがいつかは分からないけど、信じてるから。
二人が帰ってくるその日まで、俺が……いや、俺達が、この場所を守らなきゃな。
「やるしかねぇ、か」
頬を叩いて、気合を入れた。ジンジンと、頬に残る余韻が気持ちを引き締めてくれる。
イケスがいない分、やることは多い。
カナエがいない分、店内は静かだ。
でも、それでも。
「――シノ、そろそろ開けるぞ! 準備はいいか?」
厨房から響く声に、俺は頷いた。
「おう! 任せろ!」
「へっ、頼りにしてるぜ!」
二人で笑い合う。ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。
***
「――と、気合いを入れたはいいが……」
腕を組みながら唸るのはおっさん。
「来ないな、客……」
暖簾を出してから、すでに数時間が経過していた。
店の前の通りには、時折村人が行き交う姿が見えるものの、誰も足を止める気配はない。
「……やっぱ、簡単じゃねえか」
おっさんがぽつりと呟く。
一度失った信用を取り返すのは、並大抵のことじゃない。静かで人気のない店内に、その事実を思い知らされる。
「でも、負けねぇ……だろ?」
これが、イケスの言ってた試練なら、俺達は負けない。
「ガッハッハ、よく言った! そうだな、まだまだこっからだ! やってやろうぜ! てめえと俺、二人でな!」
「おう!」
威勢のいい声に頷いて返す。
「よし! そんじゃ……まずは腹ごしらえだ! 腹減りじゃあ、いい仕事はできねえからな!」
完全に同意。という訳で、俺達は厨房へ。
おっさんがテキパキと二人分の器を用意する。
「シノ! とんこつと塩、どっちがいい?」
「俺は、とんこつかな」
「よし! それと……あと一品くれえなんか欲しいな! アイディアあるか?」
「うーん、じゃあ……」
少し考えて、俺はある場所に歩いた。
「なあ、おっさん。これ、使っていい?」
「なんだ、仕込みの時に出た切れっ端じゃねえか。構わねえが、どうすんだ?」
「まあ、お楽しみにってことで」
そう言うと、俺は早速包丁を手に取り、仕込みの余り――野菜の切れ端やチャーシューの端肉をみじん切りにしていく。
次に玉子を手頃な碗に二個ほど割り入れ、かき混ぜたら次は――米だ。
ラーメンもあるし、量は一人前でいいだろう。半分ずつ、二人で分けて食べよう。
米をボウルに入れ、各種調味料を振り掛けておく。
これで、準備完了!
「随分手際がいいじゃねえか! まるで熟練の料理人みたいだぜ!」
「そ、そうか?」
みたい、じゃないんだけどな。まあいいや。
鉄鍋を焜炉に置く。
「おっ、火ぃ使うのか? 待ってろ、今点けてやる!」
「強火でよろしく!」
別に自分でも点けれるんだけどな。
まあ、やってくれるなら甘えておこう。
――ジュワァァァッ!
油を引いた鍋に卵を投入。
半熟の内にお玉でスクランブルしたら、次に用意していた米と具材を加える。
焦げないように気を使いながら、鍋を振って炒めたら、最後は――香り付け。
チャーシューのタレを少々振りかけて余熱で炒める。
「よし!」
特製チャーハン、いっちょあがりだ!
「へっ、焼き飯か! 美味そうじゃねえか!」
シンプルイズベスト。
やっぱラーメンと一緒に食うならこれだよな!
「――こっちも上がったぜ!」
白濁のとんこつスープの中で泳ぐ麺。湯気の向こうから、力強い香りが立ち上る。
「ほらよ、シノ!」
「サンキュー!」
手早くチャーハンを皿に盛り、二人分の賄いが完成した。
客室の方に持っていき、カウンターにそれぞれ器を並べる。
二人だけの店内。
でも、目の前に置かれた二人分の料理が、その空白を少しだけ埋めてくれた気がした。
「いただきます!」
手を合わせ、まずはラーメンを啜る。
麺に濃厚なスープが絡まって、
「美味えな、やっぱ」
おっさんが染み染みと言うのを聞きながら、俺は次にチャーハンへ手を伸ばす。
――パクッ。
一口目を頬張った途端、笑顔がこぼれた。
「おお、けっこうイケるな! 凄えじゃねえかシノてめえ!」
「へへっ、だろ?」
おっさんの率直な言葉に、つい口元がニヤけてしまう。
パラパラと解れる米。肉の旨味、野菜の食感、ふわふわの玉子。自分で作っておいてなんだが、絶品だ。
「アイツらにも、食わしてやりたかったぜ」
「……うん」
イケスなら、どんな事を言ってくれたんだろう?
カナエなら、どんなリアクションをしてくれたんだろう?
「どこにいんのかな? 二人とも……」
「さあな。まあ、船が着いてりゃ、乗ってる頃だろうよ」
「そっか……」
いない二人に思いを馳せる。
抜けた穴は、大きい。それでも、残された俺達は前に進んでいく。進むしかないんだ。
胸の内、溢れる感情を飲み込むように、俺は残りのチャーハンをかき込み、ラーメンを啜った。
「ごちそうさま!」
感傷に浸るのは終わり。
腹が満たされて、心も少しだけ満たされたような気がした。
「よし! 片付けたら、仕事に戻るぞ! どうやって客を戻すか考えねえとな!」
「おう!」
威勢のいいやりとり。
そうして、二人で厨房の片付けを済ませた頃だった。
――カラン。
扉の開く音がして、俺達は顔を見合わせる。
まさか……客か?
暖簾を出してから数時間、ようやく……。
俺達は急ぎ足で客室に向かい、努めて明るい表情を作った。
見れば、ちょうど扉の向こうから誰かが入ってくる瞬間だ。
「いらっしゃ――」
その姿を見て、言葉が途切れる。
しょうがない。
だって、そこに居たのは――
「――チッ……!」
後ろで、おっさんが小さく舌打ちをするのが聞こえた。
次回「招かれざる客達」
乞うご期待!
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