一章三十話[別れの言葉はいらない]
今回、シノ君の出番はありません!
***イケス視点***
「遅くなっちゃったな……」
村の灯りはとうに落ち、辺りはすっかり夜中。そんな時間になって、僕はようやくこの場所に戻ってきた。
この場所――アトリエ。
生まれてからずっと過ごしてきた我が家の前に立って、僕は少しだけ思い出に耽る。
「色々あったな、本当に……」
料理人だった父さん。
よくアップルパイを焼いてくれたっけ。あの甘い香りと、焼きたての温かさは、今でも忘れられない。
母さんは、ことあるごとに僕らの絵を描いてくれたな。
出来上がった絵の数々。その中の一枚は、今も僕の懐で大切にしまってある。
カナエが生まれた日は、嬉しかったな。
ちっちゃくて触れるのが怖いくらいだったけど、元気な泣き声を聞いた瞬間、胸がじんわりと温かくなった。僕が守るって、勝手に決めたっけ。あの時の気持ちは、今も変わらない。
店長――おじさんには、世話になりっぱなしだったな。両親がいなくなってからカナエと二人……ここまでずっと面倒を見てくれて、感謝しかない。
ロズ……君がいた頃は、本当に楽しかった。一緒に料理をして、遊んで、馬鹿なことばっかりやってたけど、大切な時間だった。
そして――シノ君。自分でどう思ってるか知らないけど、君は……これからのアトリエに必要な人間だ。他の誰が認めなくても、僕は認めるよ。
だから――
「……ただいま」
そっと扉を開きながら呟く。
暗い部屋。誰の返事もある訳がない。
と、思っていた。
「――なんだ、ずいぶん遅かったじゃねえか」
聞き慣れた声がした。
反射的にカウンターの方へ目を向ける。
「おじさん……!? 起きてたんですか……」
僕が驚きの声を上げると、おじさんは目を細めて小さく笑った。
「おじさん、か……久しぶりだな。そう呼ばれんのは」
そう言うと、おじさんは静かにグラスを傾ける。
「……まあ、一杯付き合えよ」
僕はおじさんの隣に腰を下ろし、差し出されたグラスを受け取った。中身は、薄く色づいた果実酒。懐かしい香りが鼻をくすぐる。
「これ……」
「ああ、そのリンゴ酒。てめえの親父が好きだったよな」
「甘党でしたからね」
「ははっ、そりゃてめえもだろ」
懐かしそうに笑うおじさんの横顔は、少しだけ寂しげだった。
「シノとは……話せたか?」
「ええ……色々と」
「そうか……」
それだけの会話。だけど、僕達には、それで十分だった。
「そうだ、腹減ってんだろ? ほらよっ、余りもんだが」
そう言って差し出された皿には――数切れのアップルパイが乗っていた。
「リンゴ尽くしですね」
「まあな。好きだろ?」
「ふふっ……ありがとう、ございます」
フォークで一切れ、パイをすくって口に運ぶ。
サクサクの生地に、仄かなスパイスの香り。甘酸っぱいリンゴの風味が口いっぱいに広がる。
父さんの味だ。
懐かしくて、温かくて――涙が出そうになる。
「……美味しい」
絞り出すように言うと、おじさんは「当たり前だ」とだけ返して、またグラスを傾けた。
しばらくの間、二人して黙ったまま酒とパイを味わう。
言葉がなくても、不思議と心は満たされていった。
「なあ、イケス」
ぽつり、とおじさんが言う。
「てめえは、これから…………いや、なんでもねえ」
言いかけて、飲み込まれた言葉。
でも、僕には分かった。おじさんが言おうとしたことも、その意味も。
「……おじさん」
「あん?」
「――ありがとう、今まで。本当に」
そう言って頭を下げると、おじさんはくすぐったそうに笑った。
「へっ、なんだよ今更」
「うん。でも、言っておきたくて」
ざっと十年分。積もりに積もった感謝。伝えられたとは、思わないけど。
「……ふっ」
鼻を鳴らして、おじさんは立ち上がった。
そして、手にしていたグラスをカウンターに置くと、真っ直ぐに僕の目を見て――言った。
「イケス・リーレイト」
「はい」
分かってる。その先は――
「――てめえを、破門にする。後は……好きにしやがれ」
静かに告げられたその言葉は、重たく、僕の耳を通って、胸に響いた。
「分かりました……」
料理人として、やっちゃいけないことをした。人として、言っちゃいけないことを言った。
その責任は取らなきゃいけない。
覚悟は、していた。
でも、それでも……やっぱり、寂しいな。
こみ上げる感情に耐えながら俯いた、その時――
「――待ってよ!」
響いたのは、よく知っている声。
「カナエ……!? いつから……」
「いつでもいいでしょそんなの! それよりなによ、破門って!」
やれやれと、おじさんが頭を掻く。
駆け寄ってきたカナエは、パジャマ姿のまま、目元には涙の跡が浮かんでる。多分、ずっと起きてたんだろう。
「まあまあ、落ち着いて……」
そう言いかけた僕の声に被せるように、
「落ち着ける訳ないじゃない! お兄ちゃん、これまでずっと頑張ってきたのよ!? 今回のことも、いけないことだったけど……それも、お店のために……っ! 店長だって、分かってる筈でしょ!?」
「ああ、そうだな」
おじさんは深く頷くと、カナエの目を真っ直ぐ見て言った。
「だがな……それでも。俺達料理人にゃあ、越えちゃいけねえ一線がある。それを越えちまったなら、ちゃんとケジメはつけなきゃなんねえ。てめえにも、分かんだろ?」
優しく、諭すような声だった。
「でも……でもっ!」
なおも食い下がろうとするカナエに、僕は優しく微笑みかけ、頭を撫でた。
「ありがとう、カナエ……でも、いいんだ。もう……いいんだよ」
「よ、よくない……っ!」
「大丈夫。破門されたって、僕が僕であることは変わらない。料理人であることは変わらないし、このアトリエが、大切な場所であることも……変わらない」
「お兄ちゃん……っ」
カナエの目から、ぽろぽろと涙が落ちる。
それを見て、おじさんはふうと溜息をついた。
「ったく……ガキの頃から変わんねえな、てめえらは」
そう言って、苦笑する。
「勘違いすんなよ? イケス。てめえは、アトリエの料理人じゃなくなった。だが――」
優しい表情。
「俺の“家族”であることは、いつまでも変わんねえんだからな!」
驚いて顔を上げた僕に、おじさんはニヤリと笑って言った。
「てめえはもう、大人だ。だったら、自分で道を選べ。俺の後ろじゃなく、自分の足で歩いてみせろ。言いてえことは、そんだけだ」
胸の奥が熱くなった。
いっぱい怒られた。いっぱい褒められた。そして今――ようやく認められた。
「……はい」
深く、深く、頭を下げた。床に付きそうなくらい、溢れる感情を込めて。
「ありがとう、ございました……っ」
「ったく……湿っぽくなりやがって。酒が不味くならあ」
そう言って、おじさんは背を向けた。
「……お兄ちゃん」
隣でカナエが、ぽつりと呼んだ。
「うん」
「私も、行くからね!」
「いや、君は……」
「駄目なんて言わせないわよ! 兄妹でしょ? どこまでも、一緒に決まってるじゃない!」
有無を言わせぬ言葉。頑固な僕の妹は、こうなったら、もう動かない。
僕は、もうなにも言えなくなった。
笑おうとしたのに、目が滲んでしまって、変な顔になったかもしれない。
「……うん。ありがとう」
情けない声しか出せなかった。でも、今はそれでいい。
僕達は、新しい一歩を踏み出す。アトリエを出て、でも、心はここに置いたまま。
「ったくよ……そうなると思ったぜ」
おじさんが振り向いて言った。
その目が少し赤くなってたのは、気のせい……にしておく。
「てめえらが居なくなったら、店は誰が回すと思ってんだ?」
「なに言ってんのよ? シノがいるじゃない!」
「そうだね。あの子がいれば、きっと大丈夫」
今は、心からそう思える。
「ガッハッハ! てめえらが言うなら、間違いねえな!」
豪快に笑うおじさん。
笑って、笑って、笑い終わって。そして、
「……ほらよ」
おじさんはカウンターの端っこに置いてあったなにかを引き寄せ、それを僕に差し出した。
「これは……?」
「せめてもの餞別ってやつだ。持ってけ」
受け取ったのは、小さな布袋と、封筒が一枚。
「少ねえが、金と……もし王都に行くつもりなら、その手紙を宛名のやつに渡してみろ。なにかしら、助けになってくれる筈だ、多分な」
袋の重みと、手紙の厚さに、また胸が熱くなる。
「最後まで、面倒かけますね」
「ばーか、当たり前だろうが! 子供の面倒を見んのが、親の役目だ!」
「おじさん……」
貴方は、間違いなく、僕らにとって親同然の存在でした。
あの日から、今まで……本当に、ありがとう。
兄妹で、深々と頭を下げて感謝を伝えた。
「それじゃ……」
そろそろ行こう。
そう思って立ち上がろうとした時、
「待て待て!」
制止の声。
その主は他でもない、おじさんだ。
「まだ、なにか?」
「なにかもクソもあるか! てめえ、こんな夜中に出ていくつもりか? 夜道はなにがあるか分かんねえ! カナエもいるんだ、せめてもうちょっと明るくなってからにしとけ!」
親らしい、もっともな意見だ。
確かに夜中は捕食者の動きが活発だし、例え港に辿り着けても、船だって動いてないだろう。
「そう、ですね。出発は明日の早朝にします」
そう言うと、おじさんはホッとしたように息を吐いた。
「よし! そんじゃ、もう一杯付き合えてめえら! 朝までな!」
「ちょっと! アタシは飲めないわよ!?」
「ははっ。それなら、なにか軽いものでも作ろうか」
最後の最後まで騒がしい。
「――せいぜい大きくなって帰って来いよ! イケス! 俺が引退したら、てめえが次の店長だからな!」
「だって! よかったね、お兄ちゃん!」
「いや、何年先の話ですか、それ……」
食べて、呑んで、笑って。
そうして――夜は、温かく僕ら家族を包み込んだ。
次回「薄曇りの再出発」
乞うご期待!
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