一章二十九話[友を想う]
店内は、まるで嵐が通り過ぎた後のように静まり返っていた。
足元には倒れた器具、砕けた陶器の欠片。そして、ぽたりと落ちた血の跡。
俺は、まだ手が震えていた。力が入らない。
「…………」
誰も言葉を発さない。
おっさんは黙ったまま、自分の拳を見つめていた。さっきまでの怒りの熱が消え、代わりになにか、重たく冷たいものがそこに沈んでいる。
「……すまねえ、シノ」
不意に、おっさんが口を開いた。
「え?」
「こんな筈じゃなかった。本当に、すまねえ……!」
ぎゅっと拳を握りしめ、唇を噛むおっさん。その目には、悔しさと後悔が滲んでいた。
「おっさんのせいじゃ、ねぇよ……」
こうなったのは、やっぱり、俺だ。俺のせいなんだ。
イケスの言った言葉が、ずっと頭の中で渦巻いていた。
『お前なんか、生まれてこなければ――』
受け入れてくれた。でも、許されてはいなかった。
どうすればよかったんだろう?
イケスの心に、どれだけの澱が溜まっていたのか。俺は……俺達は、なにも知らなかった。
「……お兄ちゃん、戻ってくるよね?」
カナエの小さく呟く。
不安に満ちた声。その問いに、誰も答えることができなかった。
なんとなく、皆思っているに違いない。
イケスはもしかしたら、このまま――
「…………クソっ!」
――駄目だ。
このままじゃ、駄目だ!
このまま黙っていたら、きっと、なにもかもが壊れてしまう。
そんなのは、嫌だ。絶対に!
この店も、そこにいる皆も、この数日間で、好きになった。
おっさんも、カナエも、そして――イケスだって。一緒に働いていたあの時間は、本当に楽しかったんだ。
――まだだ、まだ終わりじゃない。
もう、元には戻らないかもしれないけど、それでも……まだできることはある。
だったら、俺は――
「――行ってくる」
自然と、そんな言葉が口から出た。
「シノ……?」
「イケスさんの所へ……ちゃんと、話がしたいんだ。会って、謝って、そんで、店に戻って来てもらう」
終わらせてたまるか! 例え、俺自身がこの店に居られなくなったとしても。
決意を原動力に変えて。俺は立ち上がり、戸口へと向かう。足取りは重たかったけれど、迷いはなかった。
「待て、シノ」
背中から、おっさんの声がした。
「一人で行くつもりか? 謝るなら、俺も……」
「悪いなおっさん。これは多分、俺が……俺一人で向き合わなきゃいけないんだ」
そうじゃないと、意味がない。自分の言葉で伝えなきゃ――きっと届かない。
「保護者同伴なんて格好つかないだろ? 俺が行くよ。引きずってでも連れて来るから」
冗談めかして言う俺に、おっさんは鼻を鳴らして「そうか……」と一言。
「分かった! イケスのことは、てめえに任せる!」
「おう、任せろ!」
扉に向き直ったその足取りは、少しだけ軽くなった気がした。
「待て!」
背後からまたもやおっさんの声。
「なんだよおっさん! まだなんかあんのか?」
「ちげえよ! てめえ、どこに行くつもりだ? 場所は? イケスのやつがどこに行ったか、分かってんのか?」
「あー、それは……」
正直、見当もつかない。
心ばかりが先走ってしまったが、俺は、この村のことをなにも知らないんだ。その事実を改めて痛感する。
おっさんはやれやれと言わんばかりに息を吐いた。
「…………多分、“アイツ”の所だ」
「え?」
「村のはずれ。丘の上に、小さな墓がある。地面に刺さった包丁が目印になってっから、見りゃすぐ分かる筈だ」
「それって……」
おっさんは少しだけ目を細めて、そして頷いた。
「行ってみろ。ぶん殴られねえ程度に、な」
「うん、ありがとう、おっさん」
再び扉に向き直る俺。
その途中、
「シノ……」
不安げなカナエと目が合った。
「行ってきます!」
その不安を掻き消すように声を張り上げ、俺は夕暮れの外へと飛び出した。
***
夕暮れの風が冷たく頬を掠める。
まっすぐに歩き出した足に迷いはなく、まるでその場所を、始めから知っていたみたいだった。
田畑を抜け、見える景色から民家が消えていく。
やがて、小高い丘に辿り着いた。
草むらを踏み分けながら丘を登っていく。空には赤く染まった雲が浮かび、鳥の声さえも遠ざかって、あたりはただ静かだった。
――見えた。
ぽつんと存在する、小さな墓標。土が盛られて石が積まれただけのその前に、一本の包丁が突き立てられていた。
その墓前に、誰かが腰を下ろしている。
――イケスだ。
ただただ墓を見つめ、微動だにしないで、そこにいる。
傷は、治療したんだろうか? 顔が見えないから、それは分からない。
俺は、その背中にゆっくりと歩み寄った。
「……イケスさん?」
イケスは、反応しなかった。
緊張で喉が締まる。でも、逃げる訳にはいかない。
「お、俺……っ」
どうしよう?
なにを言ったらいいのか、分からない。なにを伝えればいいのか、分からない。どんな顔で、どんな声で、話をすればいいんだ?
頭が真っ白になって、俺はその場で俯いた。
静寂。
風の音。草の擦れる音が耳を通り抜ける。
「君は……」
「え?」
ふいに響いた声に、思わず顔を上げる。
「覚えているかい? ここが、誰のお墓か……」
「それは……」
知らない。知らないけど、分かる。
「ロズ……さん?」
その名前を呼んだ瞬間、イケスは少し口元を緩め、懐からなにかを取り出した。
――写真? いや、絵だ。
店の前で描かれたんだろう、今よりも随分若いおっさんと……この赤ん坊は、もしかしてカナエ先輩? じゃあ、それを抱いてるこの金髪の人は、多分、父親だろう。
その前には、まだ少年だったイケスがいて……それと――もう一人。
肩を組んで笑う、赤髪の少年。
これが、きっと――
「――そう、ロズ……“ロズレッド・シーフレア”。店長の息子で、僕の……親友だったんだ」
親友……か。
イケスの背中越しに見えるその姿は、おっさんとは、似ても似つかない。爽やかそうな雰囲気の少年だ。
イケスと二人、馴染み深いエプロンを着て得意げな顔をしている。
――この人も……料理人だったのかな?
遠い思い出の一場面を眺めながら、イケスは、ゆっくりと口を動かした。
「おかしな奴だったよ……」
ふっと、小さく笑うイケス。
「料理が、下手だった。驚く程にね。火加減は間違えるし、調味料の扱いは適当。毎日のように包丁で指を切って、火傷もしょっちゅう……信じられるかい? あの店長の息子がだよ? ある時なんて、フライパンをひっくり返して、火事になりかけたりしてさ……」
一つずつ、吐き出すように語られる思い出。
俺は、それをただ静かに聞いていた。
「ふふっ、いつも怒られてばっかりだったな……」
でも――と、イケス。
「それでも、アイツは諦めなかった。『いつか皆に認めてもらうんだ』って笑って、何度でも立ち上がって、誰よりも努力してた。馬鹿みたいに真っ直ぐで、熱い奴でさ…………ちょうど、今の君みたいだったよ」
「……イケスさん」
深く息を吐きながら、イケスは続ける。
「皆に好かれるタイプだったなぁ……誰とでもすぐ仲良くなって……そうそう、村から孤立してた君のことも、ずっと気にかけてた。見かける度に話しかけたりしてさ。周りが寄せって言っても聞かなくて……」
「そう、だったんですか……」
友達――いつか、カナエが言ってた。イケスにとってそうだったように、シノにとっても、きっと、その人は……。
夕日が、辺りを赤く染め始める。
俺はジッと、イケスの背中を見つめていた。
「よく、アイツと話してた。この先も、ずっとずっと、一緒に店を守っていこうって……だから、なんだろうな……どうしても、認められなかったんだ。彼がいなくなったことが、じゃない。まるで彼の代わりみたいに、皆が君に期待してる……そのことが、耐えられなかったんだよ」
「そ、そんなこと……」
イケスの肩が、小さく揺れた。
「いいんだ……君が悪い訳じゃないって、分かってた。頭ではね。でも、心がついてこなかった。見てると、どうしても思い出すんだ……ロズが居なくなって、父も母も居なくなって、色んなものを失くしたあの日の空気……匂い……なにもかも全部……君の中にある気がして……」
イケスは、手で顔を覆いながら言った。
その声には、怒りも憎しみもなくて……ただ、深い哀しみだけが滲んでいた。
「……なあ、ロズ。お前なら、どうしてた? 僕は……僕は、間違ってたか?」
絵の中の親友に問い掛けるイケス。その声は、風に掻き消されそうな程か細くて、寂しげだった。
思わず胸を押さえる。
込み上げてくる感情に、俺は名前を付けられなかった。
「……ずっと、考えてました」
自然と、言葉が零れる。イケスは、少しだけ顔を傾けて、俺の方を見た。
「ここに来るまでの間、イケスさんに言われたことが俺の中に刺さって、離れなかった。生まれてこなければよかった、って。あんな風に言われて……正直、すっごく辛くて、苦しくて……でも」
俺は拳を握る。
「でも、その通りだと思った。だからこそ、会って、ちゃんと話がしたかったんです」
「シノ君……」
「すみません。俺、なにも分かってなかった。自分の力を見せてやろうって、そればかりで……イケスさんの気持ちを踏みにじってたことにも、気付かなかった。本当に、すみませんでした」
頭を下げる。
イケスは、ゆっくりとまぶたを閉じた。夕暮れの風がふたりの間を通り抜ける。
「……強いんだね、君は」
「強くなんか、ありませんよ……」
ただ、必死だっただけだ。逃げたくなくて、そして、
「怖かったんです。このまま、俺のせいで、全部が壊れちゃうんじゃないかって……」
滲んだ視界を、袖で拭って無理矢理直した。
「それは、嫌だ。アナタと同じです。俺達の大事な場所。守りたいって、そう思った。だから、俺は、ここに来ました」
だから、決めた――
「――俺が、出ていきます。アトリエからも、村からも……俺が離れるから」
風が、二人の間を抜けていく。
「だから……お願いします! 戻ってきてください! イケスさん。アナタの居場所は、まだここにある。皆、待ってますから……!」
もう一度、頭を下げて懇願する。
しん、と空気が静まりかえった。
「どうやら……」
と、イケス。
「僕は……なにも見えてなかったみたいだね」
夕日が、イケスの顔を明るく照らす。
「……分かったよ」
「そ、それじゃあ……!」
「うん、僕の負けだ。まったく……本当に凄いな、君は」
そう言うイケスの声は柔らかく、そよ風のようだった。
「ありがとう、ございます!」
「それは、僕の台詞だよ。ここに来たのが、君でよかった」
そう言うとイケスは、手に持った絵に向かって微笑んだ。
「いらない人間なんかいない……か。ロズ、君の言う通りだったよ……」
呟いたその横顔に、さっきまでの険しさは、もうない。
絵をそっと懐にしまうイケス。
「帰ろう」
「え……?」
その言葉があまりに自然で、俺は思わず聞き返していた。
「君は、先に行っててくれるかい? 僕も……もうちょっとしたら、帰るからさ」
「あ……は、はいっ、分かりました!」
頷くと、イケスは墓標の前でそっと手を合わせた。俺もその隣で、同じように目を閉じた。
(ありがとう……)
ロズレッド――今は亡き、友の名を心の中で呟いて。
「……そうだ、シノ君。最後に一つだけ……いいかな?」
「え?」
なんだ?
俺は目を開けて、イケスの方を見た。
「許さないよ」
その言葉に、一瞬ドキリとする。
「君が出ていく、なんて……そんなのは許さない。君には、これからも店長を――店を支えてもらわなきゃいけないんだから」
「い、いいんですか? 俺……」
イケスはフッと微笑んだ。
「もちろん。だけど、覚悟してね? きっと君にとって、ここからが本当の試練になる。辛い道のりだよ? 立ち向かっていけるかい?」
愚問、だな。
そんなの、答えは決まってる。
「はい、もちろんですッ!」
「ふふっ、頼もしいな。じゃあ、また後でね……」
笑って、イケスはまた墓標に向き直った。
話は、終わり。
俺もまた、イケスに背を向けて歩き出した。
丘を下る途中、なんとなく振り返ってみる。
夕陽に溶けるように小さくなっていくイケスの姿が見えた。
風が吹く。静かな、優しい風だった。
――もう大丈夫だ。
そう思って、俺は前を向いた。
でも――
――その後、俺が再びイケスに会うことはなかった。
次回「別れの言葉はいらない」
主人公の出番はありませんが、乞うご期待!
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