一章二話[切に願う]
夢を見ていた……ような気がする。
よくは思い出せない。
悲しい夢だったような気もするし、怖い夢だったような気もする。少なくとも、楽しい夢ではなかったと思う。
ただ一つ。ここじゃない何処かで、自分という存在が失われていくような……そんな、どうしようもない喪失感だけが残っている。
憂鬱。朝からこんな気分とは……嫌な始まり方だ。どうか今日が良い一日でありますように。
さて、と。
そんなことより、もう起きなきゃな。愛猫に餌もやらないといけないことだし。
それに、俺の予想が正しければそろそろ――
『――目覚めなさい……』
ほらな。やっぱりだ
まあ、驚くことはない。いつも通り、アラームが鳴り出す頃だと思ってた。
どうにも、調理の仕事を始めてからは眠りが浅い。いつもセットした時間よりちょっと早めに起きてしまう。そのくせ夜更かしするんだから正直ちょっとしんどいんだが……まあ、これも職業病か。まだ二十六だし、加齢ではない……よな?
『目覚めるのです……』
また声。
未だ目すら開かない俺に呼びかけるそれは、女のようでもあり、少年のようでもあり、はたまた老人のようでもある。不思議な声だった。
――変わったアラームだな。
そう思うのは当然だ。こんなものをセットした覚えは、俺にはない。
『さあ、目覚めなさい。選ばれし者……』
誰が選ばれし者だ!
本当に変なアラームだな。どこの勇者の目覚めだよ。俺はしがない料理人だっての!
まったく……誰だよ、こんなのセットしたのは?
……ってまあ、一人しかいないけどな。
分かってんだよ。
どうせお前だろ?
――優莉。
そういう所があるからなー、あいつ。
この前だって、スマホのロック画面がめっちゃホラーな画像に変わってて、本気でビビった。
だから今回も、してやられたって訳だ。
悪戯っぽく笑う恋人の顔が浮かぶ。
ぱっちりした目を細めた笑顔。見過ぎて見慣れた、でも、大好きな顔。
それがなんだか酷く尊いものに思えて、なぜだか俺は泣きたくなった。
変だな。
――寂しい。
どうせすぐ会えるだろうに、なんでそんなことを思うんだ?
本当におかしい。どうかしてるな俺。
『目覚めるのです……』
またもや声が響く。
うるさいな。
人が感傷に浸ってる時に無粋な奴だ。空気を読め、空気を。これだから、アラームってやつは老若男女を問わず、あらゆる人間から嫌われるんだ。
……なんて、アラームに言っても仕方ないんだけどな。
とりあえず止めよう。いい加減やかましいし。
そう思い手探りで携帯を探す。
しかし、
「あれ?」
見つからない。
おかしいな。いつもなら簡単に見つかるのに。
昨日の俺よ、どこに置いた? リビングか?
やれやれ、面倒なことしやがって。
そうして自分自身に恨み言を吐きながら目を開いた――
「――は?」
瞬間、絶句。
当然だ。なにせ目の前にあったのは……いや、なかったと言った方が正しい。
「俺の部屋……どこ行った?」
例えるならそれは、まるで星のない夜空のような、果てなき漆黒。
上下左右、思わず立ち上がって辺りを見渡すが、なにも見えない。地面があるのかすら定かでなく、自分が今立っているのか浮かんでいるのか確信が持てない。全てが曖昧。そんな中で、自分の姿だけははっきりと認識できるのが、余計に奇妙さを引き立たせていた。
「なんだよ……これ?」
意味不明。
まるで現実感のない状況に混乱していると、
『目覚めなさい……』
うるせぇ! もう目覚めてんだろ!
相変わらずの台詞を吐き続けるアラームに脳内でツッコミを入れる。
『ようやく目覚めましたね……選ばれし者よ……』
あーはいはい。起きた、起きましたよ。別に選ばれし者じゃないけどな。
『いいえ、貴方は選ばれました……』
しつこいぞ! いつまでその設定引きずるんだよ! お前は当選系の詐欺メールか! リンク開いたら怪しげなサイトに飛ばすんだろ! 勘弁してくれ!
『お聞きなさい……』
ってか、どこから鳴ってるんだこれ? 携帯は見当たらないし……いい加減止めたいんだが。
『どうやら混乱されているようですね……』
うん、まあな。突然こんな状況に放り込まれたら誰だってそうなる。
ところで、一つ気になったんだけど……聞いていい?
『……どうぞ……』
あの……勘違いだったら申し訳ないんだけどさ……。俺、さっきから、“喋ってない”よな?
『ええ、そうですね……』
ほら今も!
え? ちょっと待って!
俺一言も喋ってないんだけど!? なんで会話してんだよ!?
『……心の声を聞く程度は造作もありませんので……』
「へ、へえ……」
最近のアラームはすごいなー。まさか念話ができるとは……日夜AI開発に勤しんでいる方々の努力の賜物だな。時代の進歩を感じる。
って――
「――んな訳あるかぁッ!」
アラームが返事するってなんだ! しかも心の声とか、あり得ないだろ!? 誰だよアンタ!?
『私、ですか……そうですね……』
いや待った!
知ってる。知ってるぞこのパターン。
なんかの小説で見たことがある。
これは……多分、最近流行りのあれだ。どうせ異世界とかなんとか、そんな類のやつだろ?
だとしたら、簡単だ。アンタの正体は――
「――“神様”だろ?」
『……ご名答、と申し上げておきます……』
「やっぱりか……」
自分で言っておいてなんだが、なんてベタな……最近の小学生の方がもうちょっとマシな話書くぞ。
しかし、そうか……神様か。神様、ねえ。なるほどなるほど。
『……理解していただけましたか?』
ああ、分かった!
『そうですか……それは話が早――』
――夢だな。
『否。夢ではありません……』
即否定!?
いやいや、夢だよこれは。うん、そうだ! そうに違いない! 最近異世界ものにハマってたし。そのせいだなきっと。
『私の話を……』
よし、そうと決まればもう一回寝よう! 二度寝だ二度寝!
『……お聞き下さい……』
起こすなよ? ま、起こしても起きないけどな!
『……………………』
次起きる時は見慣れた天井だったらいいなー、っと。
それじゃ、おやすみ! ばいばい!
そうして俺はその場に寝転び目を閉じる。完全な暗闇。もはや自分の姿すら見えなくなったそこで待つこと数分。性懲りもなく訪れた睡魔に抵抗することなく意識を明け渡した俺は、再び甘美なる微睡みの世界へ――
『………………チッ……』
すいませーん! なんか今舌打ちみたいな音が聞こえた気がするんですけど!
『?……なんのことでしょうか?』
なんのこと、じゃねぇよ!
お前、今舌打ちしたろ!?
『……なるほど、聴力はまだご健在のようですね……安心いたしました……』
はいはい、お陰様でね!
ってか、お前本当に神かよ? 神が舌打ちするとか、イメージが悪いぞ。
『問題ありません。ここには貴方しかおりませんので……』
そういう問題か?
ますます胡散臭いな。
『……どのように思っていただいても結構です……私が神である事実は変わりません……尤も、“そちらの世界”の、ではありませんが……』
ん? それって、どういう意味だ?
『どうやら……貴方はまだ、ご自身の状況を理解していらっしゃらないようですね……』
なんだと?
『いいえ。正しくは……“理解していないフリ”をしている……』
は? いやいや、突然何言ってんだ? 俺は、別に――
『――本当は……』
俺の思考を遮るように声が響く。
『気付いているのでしょう? なにがあって……何故ここにいるのか……貴方は、最初から全てを理解している。しかし、それでも認めない……見ようとしないのは……』
うるさい。黙れ。
『……認めてしまうのが、怖いから』
やめろ!
『恐ろしいですか? 自分が死――』
――やめろって言ってんだ!
神だかなんだか知らないがいい加減にしろ!
認めない。俺は認めないぞ!
これは夢だ。悪い夢なんだ。だって、そうじゃないと……そうじゃなかったら、俺はッ……もう――
『――ひとつ、間違いを訂正いたします……』
必死に見ないフリをしていた絶望。それが再び顔を覗かせた時、神は言った。
『“金田凌平”様。貴方は、まだ死んではおりません……』
「え……?」
今、なんて言った?
「死んで、ない?」
そうなのか?
いやでも、俺はトラックに轢かれて……酷い、本当に酷い有り様で……。
『……確かに。貴方は重傷を負いました……それこそ、肉体と魂が分離してしまう程の。しかし、まだ死んではおりません……なぜなら――』
一息の間、そして淡々と神は続ける。
『――この狭間の世界……そこで死へと向かっていた貴方の魂を、私が拾い上げたからです……』
魂……そう、だったのか。
じゃあ、今ここにいる俺は、
『魂が肉体を再現した、実体のない姿。と言った所でしょうか……』
えーっと、霊体的な?
『……お好きな解釈でよろしいかと』
そうか、道理で。どこにも怪我の痕が見当たらないと思ってたんだ。
とにかく、助かったんだな、俺。あんな状況でよくもまあ……やっぱ現代医学って凄いわ。救急車を呼んでくれたのは、巧実だよな……アイツにも感謝しなきゃ。
それと、
「アンタも、ありがとな」
魂とかいまいちピンと来ないけど、なんだかんだ救ってはくれたみたいだし……一応、礼は言っとく。
『いえ、礼には及びません』
そうかい。
ま、世話になったな。
さて……それじゃ、そろそろお暇させてもらうわ。さっさと起きて皆を安心させてやりたいんでね。
『帰りたい……ですか……』
ああ勿論だ。物語の主人公と違って、生憎俺は現実に満足してるんでね。もしもアンタの話が異世界転生とか召喚とかだってんなら、悪いけど他を当たってくれ。
『…………』
黙る、ってことは本当にそうだったのかよ……でも、俺は行かないぞ? そりゃちょっとはそういう話に憧れたこともあるけど……今居たい世界は、そっちじゃない。だから、丁重にお断りさせてもらう。ってな訳で、この話は終わりだ。
『…………』
どうした?
まだなんか用があんのか? 別に無いなら早く帰してくれ。
できるんだろ? アンタならさ。
『…………』
なあ、おい、聞いてんのか? こんな所に長居してる場合じゃないんだよ俺は。
『…………』
会いたい人がいるんだ。会って、伝えたいことがある。だから、頼む。お願いだ。今すぐ俺を皆の所へ……優莉の所へ帰してくれよ!
切実な願い。心からの訴え。命を拾った俺に残るたった一つの思いは、
『残念ですが、それはできません……』
その無機質な声によって、容易く断ち切られてしまうのだった。
「できない……?」
できない、って……どういうことだよ!?
『……理由は二つ。一つは、貴方の肉体の損傷が著しく、器としての機能を果たせないということ』
なんだ、それ。だって、俺……生きてるんだろ?
『ええ、生きてはいます。しかし、かろうじて、です……適切な生命維持を行い、ようやく命を繋ぎ止めているだけにすぎません……』
そんな……そんなの、生きてるって言えんのか?
『どの状態を生きていると解釈するか、という話ですね……しかし、いずれにせよ、即死していても不思議ではない状況から命を拾った貴方はとても運が良いと、私は思います……』
「運が……良い?」
運が良い、だと?
何言ってんだ! ふざけんな! 運が良い訳ないだろ!
今日は……今日はな。俺の人生にとって、本当の本当に特別な日だったんだぞ!
大切な人へ大切なことを伝える。そのために沢山色んな人に相談して、色々考えて、色々準備して、ようやく覚悟を決めて、そうやって迎えた今日だったんだ!
なのに、なんだこれ。
なんで俺がこんな目に遭ってんだ!? なんで、よりによって、今日なんだよ!?
抑えていた感情が爆発する。
なんで? なんで? なんで? こんな筈じゃなかったのに……なんで、こうなってしまったのか。
自分の不運を、世界の理不尽さを呪わずにはいられない。
そこへ、
『……失言でした。申し訳ございません……』
抑揚の薄い声音で謝罪を受け、逆に俺の頭は冷えていった。
「すぅー……はぁー」
昔から、自分を律するのは得意だ。ゆっくりと深呼吸をして、俺は落ち着きを取り戻した。
「なあ、アンタ……」
『はい』
自分の置かれた状況を頭で整理して、俺は姿なき神に声をかける。
「とにかく、話は分かった……今の状態じゃ、俺は俺の体に戻れない……そういうことだな?」
『ええ……その理解で間違いありません……』
「でも、それって……“今は”って話だよな? これからお医者様に頑張ってもらって、体が治ったら……その、大丈夫なんじゃないのか?」
投げかけた問いに神は、
『……チッ……』
また舌打ち!?
『なんのことでしょうか……?』
この野郎。なにを白々しい……けど、まあいい。気にしてる場合じゃない。それより、
「で、どうなんだ?」
『ええ……仰る通り。貴方の体さえ治ってしまえば、魂の定着には耐えられる。そしてそれは、治療に関わる者達の絶え間ない努力と、時間が解決してくれることでしょう……故に、こちらはさほど重大な問題ではありません。ですが――』
「――理由はそれだけじゃない……か」
正直、聞きたくはない。こうして理由が複数あると言われた場合、本命はいつだって、後に言う方に決まってる。でも、聞かずにどうにかなる訳でもない。
だから、俺は聞く。
「……で? なんだよ、もう一個の理由ってのは?」
『いいでしょう……では二つ目。それは……私自身の問題になります』
「アンタの? それって、つまりどういう……」
『……つまり、私も貴方と“同じ”だということです……』
「同じ?」
なにがだよ? とは問うまでもなく神は答える。
『私も、貴方と同じく不完全な状態である。そう言えば、理解いただけますか……?』
「いや分からん。もうちょい分かるように言ってくれ」
『そうですね……有り体に申し上げますと、私には今、“肉体が存在しない”のです……』
はい、衝撃の事実来た!
え、なに? 体がないって……それ、俺と同じっていうか、俺より酷くない? なんでそんなことになってんの?
『話せば長くなりますが……』
簡潔に。三十文字以内でお願いします!
『封じられているのです。私と対立する者共、その邪な意思によって』
ピッタリ三十文字! その上、分かり易い説明をどうも! 流石、神様を名乗るだけはあるな。
『いえ……今の私にはその名に値するだけの力はありません……故に、貴方を元の世界へ帰すことも叶わない……』
そうか……色々あるんだな、神様も。
でも待てよ? それなら、俺を異世界に送るのもできないんじゃないのか?
『至極当然な疑問かと……しかしながら、“そちらは可能”だと、お答えいたします……』
なんだそりゃ、随分と都合がいいんだな。
『そのように思われるのも当然です……言い方を変えましょう。今の私には、その程度のことしかできません……』
「その程度って……」
それも充分凄いと思うけど……神様の基準はよく分からん。
『いえ……ここから貴方を元の世界へ帰すより、遥かに容易いと言えます……』
そうなのか?
『ええ……なぜなら、貴方の言う元の世界……それは、私にとって管轄外……見ず知らずの他人の家に等しい……勝手の分からぬそこの鍵を開け、扉を開くことは容易ではありません……相応の力を必要とします……』
比べて、と神は続ける。
『こちらの世界は我が家のようなもの……自宅へ客人を招くことに、殆ど労力は必要ありません……』
成る程……そんなもんか。
『ご理解いただけたようで、なによりです……』
「まあ、な。納得はしねぇけど」
腑に落ちない気持ちを無理やり飲み込んで頷いた。
そのタイミングで――
『……では、ご決断を……』
――いよいよ神は、選択を迫る。
即ち、
『……行くか、留まるか……好きな方をお選びください……』
好きな方、ね。
よく言うぜ。選択肢なんかねぇだろ?
結局の所、アンタを万全な状態にしなきゃ俺は帰れないんだからよ。
『……では、行くと?』
ああ、行く。行くよ!
異世界だかなんだか知らないが、行くしかないんだろうが!
『……よろしい。ならば、始めましょうか……すぐに――』
「――うおっ!?」
突如、足元が輝き始める。同時に自分の存在が段々と薄れていくような、そんななんとも言えない感覚に襲われ――
――って、待て待て! いきなりだなおい! 始めるって、一体なにを……
『……これより、魂の転移を行います……』
魂の、転移?
『ええ……今ここにある貴方の魂。それを、こちらの世界の人間の肉体へと憑依させるのです……』
「え?」
ちょ、ちょっと待て。確認したいんだけど……その人間って、別に俺専用に用意した……訳じゃないんだよな?
『はい……』
つまり、そっちで普通に暮らしてた、自我のある人間ってことで……ファイナルアンサー?
『……そうなりますね』
マジかよ……それは、ちょっと……いいのか?
『いい、とは……?』
いや、だって、色々あるだろ?
『問題ありません……身長、体重、年齢、性別から貴方の魂との親和性に至るまで、全ての条件を満たした器ですので……』
「そういうことじゃねえよ!」
俺がこのままその体に入ったら、そいつの人格とか……そういうのは、どうなるんだ? 消えちまうんじゃないのか? そんなの、俺には……
『……できないと?』
他人の人生を奪うようなもんだろ。気は乗らねぇよ。
『……成る程、実に人らしい考え方ですね……しかし、その点については心配いらない、と申し上げます……』
「なんで?」
『言った筈です……全ての条件を満たした器だと』
「……どういう意味だよ?」
『簡潔に言うなら、現在、彼の肉体には“魂が宿っておりません”……』
「なんだって?」
魂が……ない? それってつまり、
『……お察しの通り、その者もまた“死にかけている”。ということです……だからこそ、新たな魂を迎える器たり得る……』
そういうこと、か。
誰だか知らないけど、そいつも俺と似たような状態って訳だ。
『貴方ほどの損傷はありませんが……ともあれ、ご理解いただけたようでなによりです……』
それでも、気持ちのいいもんじゃねぇけどな。他人の体とか。
『……では、やめますか?』
やめねえよ。
俺が元の世界に帰るまで、その体は貸してもらう。そんで、用が済んだらちゃんと持ち主に返す。アンタとも、これで貸し借りなしだ。
『……いいでしょう。こちらの望み通りに動いていただけるのであれば、後はご自由に……』
「ああ、自由にやらせてもらうよ」
そう言った瞬間、足元の輝きが強さを増した。
『……準備が整いましたね……どうされますか?』
どうするって……もはや愚問だろそれ。
いいよ。早く連れてけ。俺の気が変わらない内にな。
『……分かりました。では、金田凌平様』
そう呼ばれたのと同時、突然目の前に紙とペンらしき物が浮かんできた。
なんだこれ? 契約書かなんか? サインでもすんの?
『いえ、そういう類のものでは……これは……そう、これから旅立つ貴方へ、私からの餞別……だと思っていただければ……』
ああ、成る程。やっぱあるのかそういうの。流石異世界。
で? なにをくれるって? 定番でいくなら魔法とかスキル的なやつだと思うけど。
『……こちらにお好きな“職業”をお書きください……それが、こちらの世界における貴方の個性……魂に刻まれる役割になります……』
なるほど、そう来たか。
要はその職業……役割ってやつがものを言う世界って訳だ。なんだ、現実と大差ないじゃん。
でもまあ、それも異世界ファンタジーの定番か。職業によって能力が違ったり、固有スキルがあったり……そんな感じ。
「さて……」
どうするか。
これは悩み所だ。異世界の職業って言ったら、ド定番は“勇者”だろうけど……魔法使いになって色んな魔法使うのも楽しそうだし。戦士なんかもかっこいいよな。かと言って安直に決めると今後の行動全てに支障が出そうだし……。
『……どうぞお好きに……』
んー、こういうの本当に悩むんだよな俺……いっそ“魔王”とか書いてやろうか?
『……それはつまり、私の“敵"になると?』
あ、地雷踏んだ。
いやいやいや、冗談だからな? 本気にするなよ?
ってか、居るんだ魔王。じゃあ、さっき言ってた対立してるってのも?
『……ご想像にお任せします……それより、決断するならお早く……』
おいおい急かすなよ。こっちは真面目に悩んでるんだ。
『……器たる者の死が迫っています……彼が死んでしまえば、貴方の魂に行き場はありません。ここに留まり、貴方の肉体が回復するまで長い時を過ごすことになります……』
マジか……それは、勘弁して欲しいな。こんな場所に長時間一人でいたらどうにかなりそうだ。
とは言っても、なあ。
そうして、とりあえずとばかりに宙に浮かぶペンと紙に触れた瞬間だ――
「――うわっ!?」
眩しい。
手に持った紙が強い輝きを放ち、俺は思わず目を閉じた。
「んだよ……ったく」
時間にして数秒程度か、カメラのフラッシュのようなそれからすぐさま立ち直って瞼を開いたその視線の先には、
「え?」
読めない文字でなにかが書かれた紙が一枚、何事もなかったかのように宙に佇んでいた。
って、なんだこれ!? 俺、なんもしてないのに文字書かれたんだけど!? どうなってんだおい!?
『これは……想定外でした。申し訳ございません……貴方の魂には、既に刻まれた役割があったようですね……』
なん……だと?
既にって……じゃあ、俺の職業は最初から決まってたってのか?
『……結果的には、そうなります……』
変更とかは?
『残念ながら、不可能です……』
マジかよ。
あー……因みに、なんて書いてあるんだそれ? なんか全然知らない文字で読めないんだけど。
『我々の世界の文字ですので無理もないかと……そうですね、ここには……』
ここには?
『金田凌平。職業――“料理人”……と、そう書かれています……』
なんだって?
『……料理人です』
本当に?
『……嘘偽りなく、確かに』
嘘だと言って欲しかった!
なんだよそれ! 料理人って……今となにも変わんねえじゃん! 異世界だろ? 剣と魔法の世界だろ? もっとこう、なんというか……戦える系の職業がよかった!
『戦う……?』
いやだって、どうせ魔王を倒せとか、そういう流れだろ? さっきの台詞から察するに、アンタの体を封じてるのもそうみたいだし……だったら、ある程度戦えなきゃいけないと思ったんだけど、料理人じゃあ……な。
『成る程……それでしたら、ご安心ください……』
え? どういうこと?
『貴方が戦う必要は、ありません……』
そうなの? じゃあ、なにしに行くんだよ俺?
『……探してください』
探す? なにを……?
『人です……世界の何処か、存在している筈のその者……貴方と私の望みを叶える鍵となる人物……』
誰だよ、それ?
『……“勇者”を、探してください……』
そう言われて、
――あ、俺じゃないんだ。
と思ったことはここだけの話。
ともあれ、
『……よろしいでしょうか?』
もはや後には退けない。
他の選択肢が思い浮かばなくて、俺は一言。
「分かった」
そう頷くしかなかった。
『……ありがとうございます。では……』
次の瞬間、足元から勢いよく光が吹き出す。
柱のようなそれに包まれ、同時に自分という存在に対する認識が曖昧になる。体の透明度が目に見えて増し、それと比例するように意識が薄れていく。
――いってきます。
まだ見ぬ異世界。正直、不安だ。あらゆる面で先が思いやられる。
そもそも、行きたくて行く訳じゃないんだ。寧ろ、なんで俺がという思いの方が強い。
あの時、あんな事故にさえ遭わなければ……そうしたらきっと……今頃は優莉と二人、幸せの絶頂にいたかもしれないのに。そう考えずにはいられない。
けど……それらはもはや、もしもの話に過ぎない。
分かってる。
――だから、約束だ。
頭に浮かぶ様々な光景を振り払い、俺は心に誓う。
――待ってろよ優莉。俺、帰るから。必ず、帰ってくるからな。
大切な人との、大切な日常を取り戻す。
そのために、一旦さよならだ。
『……いってらっしゃいませ、金田凌平様。我々の世界、“インバース”は貴方を心より歓迎いたします……』
それが、途切れゆく意識の中で聞いた、最期の言葉だった。
***
『うまく、いきましたか……』
彼方へと消えた凌平の姿を見届けた後、神は独り呟く。
我ながら、長くかかったものだ。
そうは思うが、仕方がない。皆が皆、異世界に行きたい訳でもないだろう。彼の場合は、特に。
ともあれ、全ては順調だ。仕込みは終わった。
ほんの少し、
『料理人……』
不安材料はあるが、問題はないだろう。
それよりも、
『……“事故”、ですか……』
神は、彼の言葉を反芻する。
『ええ、そう……ただの事故。ただの偶然。そう思っていた方が、貴方にとっては幸福なのかもしれませんね……』
少なくとも、今は。
“記憶の欠落”。彼に見られたそれの原因が外因的なものであれ内因的なものであれ、瑣末なこと。もし、いつか真実を知る時が来ようとも、こちらの要求通りに動いてくれるのであれば、なにも問題はない。
いや、例え動けなくなったとしても、導くことはできる。
迷える仔羊を救うのは、いつだって神の役目なのだから。
『……またすぐにお会いできるでしょう……金田凌平様。それまで、どうか御達者で……その旅路が幸多きものであるよう……切に、願って――』
言葉が途切れる。
『――アハッ』
笑い。
堪らず吹き出してしまったかのような、それは笑いだった。
『なーんてね! アハハハハハ! 傑作! いいよ! いいね! 面白くなりそう!』
楽しそうに、嬉しそうに、笑う――嗤う。
『精々楽しませてよ? ねぇ――“りょうちゃん”?』
愉快そうに嗤う神(?)の声は、誰の耳に届くこともなく暗い闇の中へと消えていった。
ここまで読み切ったあなたを、私は生き残りと呼ぼう。
次回「始まりの味」
ついに異世界編!
乞うご期待!