一章二十八話[裏切りの味]
「凄いな……本当に」
静かに、微笑みながら言うイケス。
「流石です。流石は王国随一……あの宮廷筆頭厨師――“五極”の……“炎の料理人”ですね」
「え? 宮廷……って?」
思わず反応してしまった。
おっさんが……なんだって?
「昔の話だ! んなことは、どうでもいいんだよ!」
そう、だな。今はそんな場合じゃない。
それよりも、
「お、お兄ちゃん……! なんで……どうしてよ……ッ?」
「ごめんね、カナエ」
震える声で問いを投げるカナエに、イケスはゆっくりと歩み寄って、その頭を優しく撫でた。
「……今朝の、とんこつスープ。アレもてめえか?」
おっさんが重みのある声で問いかける。
「ええ、まあ……ついでに言うなら、裏口の鍵を壊したのも、僕です」
堂々とした態度で自白するイケス。
「チッ、あっさりと認めやがって……! てめえ、自分がなにしたか分かってんのかッ!?」
おっさんが吠える。
それに対してイケスの方は冷静に、
「勿論、分かってますよ」
穏やかな表情で言った。
「なんで……なんでだッ!? ホアード……アイツらになんか言われたのか!?」
「ええ、そうですね……村長と神父様。彼らに脅され、今回の作戦が成功しないよう、命令されるがままに料理を壊した――」
ひと呼吸を置いて、
「――とでも言えたら良かったんですが」
フッと、イケスは微笑んで言う。
「僕は、僕の意志でやりました。誰に命令された訳でもなく、脅された訳でもない。ただ自分の手で、シノ君……君の料理を――“壊したい”と、そう思った」
「……ッ……!」
沈黙が、場を支配した。
誰もが息を呑み、言葉を失っている。
その中で、イケスだけが真っ直ぐに俺を見ていた。
「どうして……俺の料理を?」
やっとことで、俺は口を開いた。
イケスは、ほんの一瞬だけ目を伏せたが、またすぐに真っ直ぐ俺を見据えて、言った。
「……羨ましかったんだよ。君が」
その言葉は、予想もしなかったもので、頭の中が一瞬、真っ白になった。
「俺、が……?」
「そうだよ。だって、おかしいだろ? 能無しの君が、霧患いの君が、あんな料理を作れるだなんて……」
ぽつりぽつりと語るイケス。
「認めるよ。アトリエとんこつ……アレを食べた時、僕は――“負けた”、と思った」
「そ、そんな……」
知らなかった。俺が、俺の料理が、この人をこんなに追い詰めていたなんて。
「分かるかい? 料理人でもない人間に自分以上の料理を作られた、この気持ちが…………僕はね、それから料理人としての自分に自信が持てなくなったんだ」
イケスは苦笑しながら肩を落とす。
誰もが黙って、その言葉を飲み込んでいた。
「……悔しかったなぁ。なんで、店のピンチを救うのが君なんだ? なんで、僕じゃない? そこにあるのは、なんで、僕の料理じゃないんだ?」
静かに、でも重たい声。胸に響くそれは、紛れもない、イケスの本音だった。
「羨ましくて、悔しくて、腹が立ったよ。だから――壊した。全部ね」
「お兄、ちゃん……っ!」
声を震わせ、目に涙を浮かべるカナエ。
再び、重たい沈黙がその場を支配した。
「……そんだけか?」
おっさんが静かに言う。その声は、怒りとも悲しみともつかない、ただただ重たく沈んだものだった。
イケスは黙ったまま、おっさんに視線を送る。
「言いてえことは、本当にそんだけなのか?」
「……どういう、意味ですか?」
「それだけじゃねえだろッ!! そう言ってんだよッ!!」
「――ッ!」
おっさんの叫びにイケスは眉をピクリと動かす。
「悔しい、認めたくねえ。その気持ちは、よく分かる! 料理人でそれを知らない奴はいねえよ! だから、てめえの言ったこと全部が全部、嘘だとは言わねえ! だがな――」
ゆっくりと歩み寄るおっさん。
「――そんだけでッ! てめえが他人の料理に手ぇ出す訳ねえだろうが!!」
ビクリとイケスの肩が震える。
その瞬間、明らかに空気が変わった。
歯を食いしばり、なにかに耐えているかのような表情で俯くイケス。
だが、やがて――深く息を吐き出すと、
「……守り、たかった……」
「あ?」
「守りたかったんだよ! この店を!」
爆発する。
それは初めて聞いた、イケスの激情だった。
「……守りたい、だぁ? 馬鹿言ってんじゃねえ! その為の料理を、てめえは台無しにしたんだろうがッ!」
「甘いッ!」
おっさんの怒号を、イケスが一言で切り捨てる。
「甘いんだよ……! 美味しい料理で皆に認めてもらう? それで店が救えるなんて、本気で思ってたんですか?」
その声は静かで、そして凍りつくように冷たかった。
「思ってるに――ッ」
「――無理に決まってる! 根本的な“原因”が、ここにいる限りは」
「そ、それって……」
その瞬間、皆の視線が一箇所に集まった。
「……俺?」
イケスと視線がぶつかる。
「そう。君だよ、シノ君」
その声も、視線も、俺にはまるで刃物のように思えた。
「確かに、君はよくやった。僕の、皆の想像を越えた料理を作って、村の人達を笑顔にしたかもしれない。でもね――」
一呼吸の間。
「駄目なんだよ。そういう次元の話じゃないんだ」
「……どういう、意味だよ?」
思わず問い返す。自分でも驚く程、声が掠れていた。
「君が、その手でどれだけ美味しい料理を作っても、どれだけ頑張っても、それは無意味に近い……“変わらない”んだよ」
胸の奥に、冷たいものが刺さるようだった。
「……なにが、変わらないって言うんだ?」
「この“村”だよ。いや、“村の空気”って言った方が正しいかな? ずっとずっと昔から、変わらない偏見と、無関心と、支配と――そういう、目に見えないもの」
イケスはただ淡々と言う。そこには、どこか諦めのような色があった。
「君は、目立ち過ぎた。少なくとも、この村で能無しだと思われてる君には、なにもやらせるべきじゃなかったんだ」
「そ、そんな……!」
「酷いと思うかい? でも実際、村長や神父様に目を付けられ、今店は窮地に立たされている。全部、君の行動の結果だ。それが“現実”なんだよ」
その言葉に、俺は反論できなかった。
「ふざけんな! 黙って聞いてりゃ、くだらねえことばっか言いやがって!」
代わりに声を上げたのは、おっさんだ。
「現実がどうとか、難しいことは知らねえ! 村長やズークの野郎がコイツのことをどう思ってるかも知ったこっちゃねえ! だが――」
息を吸い込むおっさん。
「――少なくともてめえは……てめえは、受け入れてくれたんじゃねえのか!? シノのことをよッ!」
「ええ、そうですね。確かに、受け入れた……」
頷くイケス。
「じゃあ――」
「――“ここに居ることを”だッ!!」
一喝。
その声に、誰もが息を呑んだ。
「ここに居ていい。僕が認めたのは、それだけ! それだけだ! シノ・シルヴァーン! この店の害になるっていうなら、僕は心を鬼にして、君に言うよ――“出ていけ”ってさ!」
イケスが俺を見るその目に、いつもの柔らかさは微塵もなかった。
「てめえ、自分がなに言ってるか分かってんのかッ!」
「分からないのは、アナタの方ですよ! 店長!」
「なんだと!?」
「なんで、アナタは平気なんですか? ロズは、アナタの息子は、そいつのせいで死んだのに!」
「え……?」
俺は思わずおっさんを見た。
「や、やめろ……」
「皆思ってた筈だ。彼さえいなければ、ロズは死ななかった! 僕らの父も、母も! 誰も、死ななかったって!」
「やめろって言ってんだッ!」
「いいや、止めないね! 僕は、ずっとずっと許せなかったんだ! 皆を死なせたコイツを! なにもかも忘れたコイツを! そして今、店を壊そうとしているコイツを!」
片手で目を覆いながら叫ぶイケス。
知らなかった感情、知らなかった本音。それは、今まで聞いたどの言葉よりも重く、痛く、胸に突き刺さった。
どうすればいい?
分からない。分かる訳がない。
でも、ただ……謝りたい、と俺は思った。
「イケスさん……ご、ごめんなさい……俺、は……」
「黙れッ! 能無しッ!」
「――ッ!」
初めて、この人からそう呼ばれた気がした。
「君が――お前なんかッ、生まれてこなければ――」
刹那、
「――この大馬鹿野郎ォ!!」
爆発したような怒号。
次の瞬間、おっさんの拳がイケスの頬に炸裂した。
「グァッ!?」
鈍い音が響き、イケスは衝撃で壁に叩きつけられる。途中、巻き込まれた鍋や器具が床に落ち、けたたましい音が辺りに響き渡った。
「きゃあっ!」
カナエが金切り声を上げ、両手で口を押さえた。
「それ以上言ってみやがれてめえ……! 次は、本気でぶん殴るぞ……!」
おっさんの声は震え、怒りに燃える目でイケスに近づいた。荒々しい足音が床を叩き、倒れたイケスの胸ぐらを力任せに掴み上げる。その手は白くなるほど強く握られ、血管が浮き出ていた。
こんなおっさんを見たのは、初めてだ。
「やめて! ねえ、店長ッ!!」
カナエが叫ぶ。俺は咄嗟におっさんの腕を掴んだ。
「おっさん! 駄目だ! やめろって!」
俺達の必死な声に、ハッと我に返るおっさん。
目を見開き、掴んでいた手をゆっくりと離した。
そのまま、イケスは糸が切れた人形のようにダラリと崩れ落ち、床に膝を付く。意識はなんとか保ったようだが、口の端から一筋の血が流れていた。
「お、お兄ちゃんっ、手当て! 手当てしないと! とりあえず部屋に……」
カナエがそう言ってイケスに肩を貸そうとする。
だが、
「いいよ、大丈夫。自分でできるから……」
その手を振り払い、イケスはふらふらと立ち上がった。
そして、
「すみません……少し、頭を冷やしてきます」
覚束ない足取りで外に出ていくイケス。
その姿を、俺達はただ立ち尽くし、なにも言えずに見つめることしかできなかった。
次回「友を想う」
乞うご期待!