一章二十七話[一杯入魂・結]
午後、店はより一層の賑わいを見せる――筈だった。
「おいおい、どうなってんだ……?」
静かな店内で、おっさんが呟くのが聞こえた。
さっきまでフル稼働だった厨房も、今や殆ど途切れた注文に、暇を持て余すばかりだった。
「……少し、休憩しようかな。シノ君は、どうする?」
「俺は、もうちょっと様子を見てみます」
「そっか……無理はしないでね。それじゃ、部屋にいるから、なにかあったら呼んでよ」
そう言い残して厨房を去っていくイケス。
その背中を見送った俺は、客室の方に移動し、カウンターに座りながら入口の扉を睨むように眺めた。
「クソっ、なんで……なんでだよ……!」
朝からの賑わいが嘘だったかのような光景に、俺は唇を噛む。
「まさか、アイツのせい……なの?」
カナエがポツリと呟く。
確かに、アイツ――ズークが来てからだ。こうなったのは。
「そんなに影響力あんのかよ、アイツ……」
教会という組織の権威。ここへ来て、その強大さを思い知らされたような気がした。
『――この程度』
呪いのように頭に纏わりついて離れない言葉。
その評価のせいなのか、後から来た客の何人かが、出したラーメンを完食せずに帰ってしまっていたのも悔しい点だった。
「チッ、ムカつく野郎だ!」
悪態をつくおっさん。
だが、その時――
「――やっておるかの?」
店の扉がキィと開き、一人の老人が中に入ってきた。
「おう、爺さんか……らっしゃい」
「なんじゃなんじゃ、ヴァル坊。珍しく元気がないのう。昼時じゃというのに」
そう言って手近な席に座ったのは、村長の父親だという人物――門番の爺さんだ。
「まあな。いろいろあってよ……爺さん、よく来てくれた。正直、助かるぜ」
「ふむ? 儂が来ただけで助かるとは、安いもんじゃが……なにかあったかの?」
爺さんが頬を掻きながら尋ねる。
おっさんは一瞬逡巡したが、やがて意を決したように口を開いた。
「……ついさっきだ。ズークの野郎が来やがってな」
その名を口にした瞬間、爺さんの表情が少しだけ強張った。
「ほう……ズーク坊、あやつか」
「あの野郎……一口食べるなり、ウチの料理にケチつけやがって!」
爺さんはふむふむと頷きながら、軽く顎を撫でていた。
「成る程……それで、人の足が止まったと?」
「そうだ! 実際、食べ残して帰る奴らもいた。それまでは皆『美味い』って笑ってたのによ……!」
「ふぅむ……」
しばし黙り込む爺さん。そして、
「……ひとまず、儂にも一杯くれんかの? 話はそれからじゃ」
その言葉に、俺は思わず背筋を伸ばした。
「よし来た! シノ、やるぞ!」
「勿論!」
イケスは休憩中、わざわざ一杯のためだけに呼びに行く必要もない。ということで、俺とおっさんでラーメンを作る。
阿吽の呼吸で調理に没頭する俺達。
たれが注がれた器に、おっさんが熱々のスープを加える。そこへ、しっかり湯切りした麺を入れたら、後はトッピングを綺麗に乗せて――
「――よし、一丁あがり!」
「こいつがアトリエとり塩だ! 爺さん、食ってみてくれ!」
そっと置かれたラーメンを前に、爺さんは目を細め、ふむと鼻を鳴らす。
「……昨日のものとは違うが、これもええ香りじゃの。さてさて……」
匙を取り、スープを啜る爺さん。
「むぅ……?」
爺さんの眉が、ほんの僅か動いた。
「成る程のう……」
呟く。だが、それ以上の言葉が続かない。
俺とおっさんは思わず顔を見合わせた。
「ど、どうなんだ爺さん?」
おっさんが恐る恐る問いかける。
それに対し、爺さんは渋面で、
「お主ら……これの味見はしたのか?」
「……あ?」
間の抜けた声がおっさんの口から漏れる。
「な、なにか……マズかったですか?」
思わず投げた疑問。
俺の声に爺さんは一瞬だけ思案顔になり、
「そうじゃのう……口で言うより、食べてみるのが早かろ」
そう言うと爺さんは、湯気の立つ器をこちらに少し押し出した。
それに反応してカナエがすぐさま食器を取りに向かう。
「なんだってんだ一体……」
疑念と、そして緊張を持って、俺達は目の前のラーメンを見つめた。
「――ほら、持ってきたわよ」
「おう、すまねえな!」
戻ってきたカナエから食器を受け取ると、俺達は早速スープを一すくい。
見た目、香りを確かめるが、そこに異常は見られない。
訝しげにスープを口に含んだ、次の瞬間――
「……っ!?」
――すぐに、違和感が舌を走った。
「こ、こいつは……」
「嘘……でしょ?」
おっさんやカナエが呟いた言葉に、俺も顔を顰めながら頷く。
「う、薄い……」
それは、明らかな変化だった。
まるで白湯を飲んだかのような薄味。塩味も旨味も、全ての風味がぼやけていて、正直、不味い。
「どうして……」
湯切りをミスった?
いや、そんなことはない。タイミングもなにもかも完璧だった筈だ。そのことは、俺が一番よく分かってる。
「まさか……ッ!」
ハッとして、俺は厨房へ走った。
大鍋に、今朝仕込んだスープがある。
俺はそれを匙で少しだけすくい取り、そのまま口に運んだ。
鳥の風味、魚介の深みをしっかりと感じる。その味わいには、なに一つ違和感などなかった。
「――違う。そっちじゃねえ」
その声に振り向くと、おっさんが険しい表情で立っていた。後ろには戸惑った表情のカナエもいる。
「こいつだ」
そう言うおっさんの手には、小ぶりな寸胴が。
それで――全てが分かった。
「たれ、か……!」
ラーメンの命とも言える調味液。
それがどういう状態にあるかは、もはや味見するまでもない。匂いだけで、理解ができた。
「弱過ぎる……」
「分かったか? こいつはもう、駄目だ」
「駄目、って……そんな! 今朝作ったばかりじゃない!」
カナエが愕然とした声で言う。
確かに、おかしい。朝から今まで、経った時間は精々数時間程度。風味が飛ぶには、あまりに早過ぎる。
「やられた……?」
信じがたい劣化。原因は、それしか考えられない。
「でも、誰ができるのよ? そんなこと……」
カナエが震える声で言う。
もっともな疑問だ。
厨房には、常に俺とイケスがいた。たれに細工をするにしても、一体いつの間にやったのか?
分からない……分からないけど、ただ一つ、はっきりしてることはある。
「あの神父だ……そうに決まってる……!」
ズーク――あのねっとりとした笑みが頭に浮かんで、俺は思わず拳を握り締めた。
しかし――
「――いや、それもちげえ」
思わぬ反論。
おっさんの言葉に、俺は目を丸くした。
「違う? ど、どういうことだよおっさん?」
「そいつは……」
おっさんは、俺の問いにすぐには答えなかった。
黙ったまま、険しい表情で寸胴の中身をじっと見つめているその様子は、まるでなにかと戦っているようで……
「……おっさん? 大丈夫か?」
もう一度呼びかけると、おっさんはハッとした様子で顔を上げた。
「あ、ああ、すまねえな……」
寸胴をそっと台に置いて、深く息を吐くおっさん。
「とりあえず、今日はこれで店仕舞いだ。悪ぃがカナエ、爺さんにそう伝えといてくれるか?」
「え? ま、まあ、いいけど……」
カナエは戸惑いながらも頷き、言われた通りに厨房を離れていった。
呆気ない幕引きだ。
そんなことを思いながらその背中を見送っていると、
「シノ。てめえはイケスのやつを呼んできてくれ」
「お、おう」
そうだな。この状況は、イケスにもちゃんと知らせなきゃ。
そう思って、厨房を出ようとした、その時――
「――その必要はないよ」
柔らかな声。
見れば、イケスが厨房の入り口に佇んでいた。
「あっ、イケスさん! ちょうどよかった! スープが……大変なんです!」
「うん、そうみたいだね」
俺の言葉にイケスはゆっくり頷く。そして厨房に足を踏み入れると、たれの入った寸胴に向かった。
「……成る程、これは酷いね。風味が飛んでる」
「そうなんですよ! こんなの、自然に起きる筈がない! 誰かが手を加えたんだ!」
「……誰か、って?」
「そ、それは……ッ!」
あの神父だ。
おっさんは違うって言ったけど、やっぱりそれしか考えられない。どうせ、なにかしらの方法を使って仕組んだに決まってる。
それを伝えようと、口を開いた瞬間だった――
「――てめえだろ?」
イケスの声、ではない。
じゃあ、
「……おっさん?」
振り向くと、そこには鋭い目をしたおっさんがいた。それまでとは違う、張り詰めた空気を纏って。
「てめえだろ――“イケス”。このたれを、駄目にしたのはよ……」
刹那、時が止まったような静寂。
――パリン!
突然の破裂音。
目を向ければ、ちょうど戻ってきたカナエが、床に食器を落としたらしい。
「な、なにを言ってるのよ店長? そんな訳……お兄ちゃんが、そんな訳ないじゃない! 冗談やめてよ! こんな時に――」
「――冗談で言う訳ねえだろうがッ!!」
激昂するカナエを更に上回る声量で黙らせるおっさん。
なんだ、これ? なにが起こってるんだよ?
俺は付いていけず、その場を呆然と見守るしかなかった。
「……何故、そう思うんですか?」
静かに、落ち着いた態度で問うイケス。
それに対し、おっさんは寸胴の中を指差して答えた。
「……“水”だ」
「水? なんの話ですか?」
「とぼけても無駄だぜ? なあ、イケスよぉ……」
苦痛に耐えているかのような顔で、おっさんは続けた。
「俺が、気付かねえとでも思ったのかよ? このたれに混ざってやがる水……これは、魔法で作ったもんだ。違うか?」
水の……魔法?
それを聞いて、俺はハッとなった。
確かに、イケスがそれを使うのを、俺は見たことがある。
いや、でも……
「……仮にそうだとして、断定できますか? その水が、僕の作ったものかどうか――」
「――できる!!」
はっきりと断言するおっさん。
「俺を、舐めんじゃねえぞ! 他の奴の水とてめえの水じゃ、決定的に違うもんがあんだよ!」
「違う、もの……?」
なんだ、それは?
「――“味”だ」
「……ッ」
絶句。おっさんが告げたその一言に、目を見開くイケス。
「味……って、どういうことよ……?」
まだ納得できない様子のカナエ。
おっさんはゆっくりと振り向いて、いつになく真剣な声で言った。
「いいか? 水ってのは、決して無味無臭の液体じゃねえ。森や大地、地域によっていろんなもんが混ざってんだ。だから、特徴がある。分かり難いかもしれねえが、確かにな。そん中でも、特に、魔法で作ったもんはそうだ。使い手の“味”が出る。心が、味に混じるんだよ」
「心が……?」
言葉の重みに、カナエは息を呑んだ。
「そうだろ……イケス? 俺が何年てめえと一緒にやってきたと思ってる? てめえが作った水なら、例えなにかに混ざってようが、一口で分かる」
積み重ねた年数と、料理人としての感覚から来る絶対的な自信。
そんなおっさんに対して、イケスは、微動だにしない。なんの反論もせず、ただ黙っている。
「そんな……本当に、イケスさんが……?」
「ち、違う! きっと、なにかの間違いよ! そうでしょ? ねぇ、なんとか言ってよ――お兄ちゃん!」
信じられない俺と、信じたくないカナエと。
そして、
「……なにか間違ってるってんなら、遠慮なく反論してくれて構わねえ。そん時は、土下座でもなんでもしてやる」
それはまるで、祈りのようにも聞こえた。
「…………」
そこから、重苦しい沈黙に厨房は支配された。
誰も、なにも言えないまま、時だけが悪戯に過ぎていく
――
「――ハハッ」
突如、場違いな声。
それが聞こえた方へ、全員の視線が集まる。
――ぐにゃり。
唇を歪ませたイケスの顔が、そこにはあった。
終わりだ。
それを見た時――俺の中で、なにかが終わったような、そんな気がした。
次回「裏切りの味」
乞うご期待!
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