一章二十五話[一杯入魂・承]
「すぅ……はぁー……」
翌日、早朝。
まだ薄暗い空の下、俺は店先で体を伸ばしながら新鮮な空気を肺に取り込んでいた。
「……あら、早いのねシノ。やる気じゃない」
背後から声が掛かる。
振り返れば、カナエがゆっくりとこちらに歩いて来ていた。
「そりゃまあ、最終日なんで……先輩こそ、早起きですね」
「アタシは……ほら、“その子”にご飯あげようと思って」
カナエが示した先には、一匹、待ってましたとばかりに佇む白猫――又多尾の姿があった。
「おはよう」
俺が声を掛けると、白猫はゆっくりと瞬きをして、しっぽを一度だけふわりと揺らした。
「ツンデレだなー」
「そこがいいのよ。ほら、お食べ」
カナエが紙包みから小さな干し魚を取り出し、足元にそっと置くと、又多尾はしなやかに歩み寄って、それを一口咥えた。ぱり、という音が静かな朝に響く。
俺はその様子を微笑ましく思いながら、空を見上げた。東の空が、少しずつ白み始めている。
「……今日も、皆食べに来てくれますかね?」
「さあ? でも昨日来た人達は、きっとまた来るわよ。一度食べれば忘れられない味だもの」
その言葉で不安が少し和らいだ気がした。
「成る程、先輩がそう言うなら、大丈夫ですね」
「なによ、それ」
カナエが肩をすくめて笑った。
「先輩」
「なによ?」
「ありがとうございます」
「は?」
突然出た感謝の言葉に怪訝な顔をするカナエ。
「宣伝。村の人が持ってたアレ、描いたの先輩ですよね? 流石です」
見た人に興味を持ってもらえるように、絵や文字が綺麗に描かれていた貼り紙。アレのお陰で、間違いなく集客率は上がった。
「ふん、まあね。アタシには、それくらいしかできないもの……」
謙遜だ。そう思ったが、俺はあえてなにも言わなかった。
「おーい!」
呼ぶ声。
見れば、店の中からイケスが顔を覗かせていた。
「二人の時間を邪魔しちゃって悪いけど、そろそろ準備始めるよ!」
「ちょっと、なに言って――」
カナエが言い終わる前に、悪戯っぽい笑みを浮かべながら店内に引っ込むイケス。
「――もう! お兄ちゃんったら!」
俺が苦笑すると、カナエもため息まじりに笑って、空になった紙包みを丸めた。
「……それじゃ、戻るわよ。今日は、アンタが厨房だったわね?」
「はい、麺担当です」
「そう……ま、頑張んなさい! 無理だったら店長に代わればいいんだから!」
激励の言葉。
俺に対してそれを言うカナエの顔には、もう以前のような嫌悪感は微塵もなかった。
「ありがとうございます! 頑張ります!」
気合は貰った。
試食会も二日目……今日で、決着だ。もう能無しなんて呼ばせない。俺の料理で全てをひっくり返してやる!
そんな意気込みと希望を胸に、俺は店の扉に手を掛けた。
***
「……どういうことだよ、こりゃあ?」
おっさんの重たい声が厨房に響く。
その場に集まった俺達の表情は、さっきまでの明るさが嘘みたいに暗澹としたものだった。
その原因は、明らかだ。
「酷いな……」
呟くイケスの視線の先にあるのは、鍋に入った豚骨スープ。
「なによ……この臭い……?」
鼻を突く、酸っぱい臭い。
鍋の中を覗き込んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「な、んで……!」
そこにあるべき筈の乳白色のスープは、今は見る影もなく、まるで泥水のように濁っていた。
「……駄目だな。全部、使いもんにならねえ」
おっさんがスプーンでスープをすくい、慎重に匂いを嗅いだ後、静かに言い放つ。
「そんな……昨日僕が戸締まりした時はなにも……まさか、誰かが?」
イケスが眉を顰める。
その可能性は、否定できなかった。いや、むしろそう考えなければ説明がつかない。
昨日、スープは完璧だった。ここまで急激に腐る筈もない。なにか異物を入れられたんだろう。
誰が? そんなもん、決まってる。
「村長……アイツらの仕業か……!」
おっさんの声が鋭くなる。
「でも、どうやって……!? 出入口には鍵が掛かってるのよ!?」
カナエの言葉に、イケスが唸った。
「ちょっと、待ってて……」
言うが早いか、イケスは厨房を出てどこかに駆けていった。
「クソが! ふざけた真似しやがって!」
おっさんが吠える。下手人が目の前にいたらぶん殴りそうな勢いだ。
いや、おっさんだけじゃない。俺もカナエも、やり場のない怒りでどうにかなりそうだった。
そして数分後――
「――皆……これ」
なにかを持って戻って来たイケス。
その手にある物を見て、全員の顔が凍りつく。
「鍵が……! めちゃくちゃじゃない!」
「勝手口の方だよ。多分、そこから……」
「チッ! 昨日の騒ぎを知ってなんもしてこない訳ねえとは思ってたが……!」
ここまですんのかよ……!
怒りで拳を握り締める。
ふざけんな!
俺は――俺達は、ただ料理を食べて欲しかっただけだ。正々堂々と、味で村の皆に認めてもらう。それだけだったのに。
「どうするのよ、これ……店長!」
「どうするもこうするも、代わりのスープを作るしかねえだろ! 幸い、他の材料は無事なんだ! スープさえできりゃ、まだなんとかなる!」
「でも、今から作って間に合いますか? 開店まで、もう時間が……」
無理だ。
スープ作りには時間がかかる。とんこつの場合、どれだけ高火力で沸かしたとして、最低でも半日は煮込まないと、あの濃厚さは出せない。
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ! 間に合わせるしかねえんだ! 最終日だぞ! 今日しくじったら、全部パーだろうが!」
「おっさん……」
怒りと焦り――それでも、おっさんに諦める気配は微塵もなかった。
「水! それから材料のストック、ありったけ持ってこい! 今すぐ火ぃ起こして煮込み始めんぞ!」
言われるまま駆け出すイケスとカナエ。
だが――
「――待ってくれ!」
俺は叫んだ。
その制止の声に、全員がこちらを見る。
「なんだてめえ? なにを待つってんだ! まさか、諦めるつもりじゃねえだろうな?」
「ああ、そうだよ!」
俺の言葉に、場の空気が一瞬で張り詰める。
「な……なに言ってやがんだてめえ……!」
おっさんが目を見開いた。イケスも、カナエも、まるで裏切りでもされたかのような顔をしている。
だけど、それでも――俺は続けた。
「勘違いすんなよ? 俺が言ってるのは、“このスープで勝負するのを諦める”ってことだ」
「……は? どういう意味だそりゃ?」
おっさんが低い声で問う。
鋭い視線に射抜かれ、俺は唾を飲んだ。
そして――
「――味を……変えるんだ」
その言葉に、全員が眉を顰めた。
「味を、変えるだと?」
おっさんが繰り返す。混乱と疑念の混ざった声。だが俺は頷いた。
「今からやったって、中途半端な出来にしかならない。おっさんだって、それは分かってんだろ? そんなの、客だって喜ばない。だったら、別の道を探す。そんだけの話だ」
「そりゃあ……そうかもしれねえけどよ……」
「いやでも、そんな道、すぐに見つかる訳が……」
怪訝な顔で言うイケス。
しかし、俺はその目を真っ直ぐに見て――
「大丈夫、出来ます! 俺を、信じてください!」
――言い切った。
「…………」
束の間、その場を沈黙が支配する。
「……ふんっ、面白え!」
吹き出すように言ったのは、おっさんだ。
「なにをするつもりか知らねえが、てめえのその顔……自信は、あんだな?」
「もちろん! 任せてくれ!」
こんなことで、負けてたまるか!
その思いを、言葉に乗せた。
「よく言った! なら、好きにしやがれ! ……だがな! やるからにゃあ、絶対に客を満足させろよ? 中途半端だったら承知しねえぞ!」
「おう!」
俺は頷き、急いで調理の準備を始めた。使える材料、道具、調味料――鍋に水を張りながら、必要な全てを頭の中で弾き出す。
「シノ君、僕にできることはあるかい?」
「なんでも言って! アタシも手伝う!」
イケスとカナエが駆け寄ってくる。
ちょうどいい。
「それじゃあ材料を! ガラ鳥と野菜と……」
それから……そうだ!
「カナエ先輩! さっきニャンコにあげてた“アレ”! まだありますか?」
「アレね! あるわよ、たくさん!」
「なら、たくさん持ってきてください!」
「分かったわ!」
そうして二人は食糧庫に走る。
ここからどうするのか? なにを作るのか?
誰一人、それを聞いてこなかった。
ただ、俺のやることを信じて、付いてきてくれている。
そのことが、今はとにかく嬉しかった。
「最大火力だ! 速攻で沸かすぞ!」
威勢のいい声を上げておっさんが全ての焜炉に火を入れた。
麺茹で用とスープ用、鍋の底から勢いよく炎が噴き出し、中の水を急速で温める。
「この間に……!」
目配せ。
おっさんは頷き、トッピング用のチャーシューや煮卵、ネギを手際よく切り始めた。
「俺は……たれだ!」
味の根幹。これがないと始まらない。
とんこつにはおっさんの至高のつけだれを使ったが、今作ってるこいつには、少し味が強すぎる。
「オイルベリー、ドラゴンハート、塩と胡椒に……おっさん! ネギちょっともらうぞ!」
「おう、持ってけ!」
材料をさっと混ぜ合わせて、小匙ですくう。
「美味っ」
あっさりとしたネギ塩風味。牛タンでも食べたくなる味に、俺は人知れず唸った。
「――シノ! 持ってきたわよ!」
その声に振り向けば、イケスとカナエの二人が材料を抱えて戻ってきたところだった。
「鍋に!」
「了解!」
持ってきた食材全てを沸騰し始めた鍋に投入するイケス。
「こっちも入れるわよ!」
カナエが包みを開くと、中から出てきたのは――干し魚だ。さっきはニャンコのご飯になっていたが、これ自体はかなり上質なやつに違いない。見れば分かる。
「いい匂い……!」
「うん……これは……!」
イケスとカナエが鍋を覗き込む。
干し魚と香味野菜、鳥の出汁が混ざり合い、薄く黄金色の油膜が広がり始めていた。
それから、灰汁を取り除きながら煮込むこと――およそニ時間。
「……よし!」
ぐつぐつ音を立てる鍋。その中に、黄金の輝きが生まれつつあった。
「上出来じゃねえか!」
おっさんが笑う。
あともう少しだ。
目指すのは、透き通るような黄金。とんこつとは真逆にあるような、あっさりでいて深みのあるスープ――“清湯”だ。
そして、数分後――
「――味見する! おっさん、麺頼んだ!」
「おうよ! 任せろ!」
昨日仕込んだ麺を取り出して鍋に投入するおっさん。それを見て、俺はスープの準備をする。
器にたれを適量入れる。そこへ、出来上がった黄金色のスープを濾しながら注ぎ、いったん味見。
「よし……完璧!」
呟いたところでちょうど麺が上がる。
湯切りされた麺がスープに入ったら、後は盛り付けだ。
綺麗に切り揃えられたチャーシュー、半熟の煮卵、メンマにねぎ。
そして、
「隠し味だ……!」
干し魚を砕いて作った魚粉を一摘み、香り付けにパラリと振りかける。
「――完成!」
黄金のスープの中で麺が優雅に泳ぎ、彩り豊かな具材がその上に美しく配置された、これこそ――
「名付けて、“アトリエとり塩”! 皆、食べてみてくれ!」
促されるまま、それぞれが食器を手に取り、麺を、スープを口に入れる。
その瞬間、
「こ、こいつは……!」
おっさんが、目を見開いたままの表情で固まる。
「……美味え。美味えぞシノ!」
「あっさりしてて食べやすいわね! アタシ、こっちのほうが好きかも……!」
「シノ君……凄いな、君は」
口々に褒められて、照れくさい気持ちになる。
よかった。間に合った!
だが、まだ安心はできない。
「……っと、来たな」
扉の向こう。足音が次第に近づいてくる。
村の人達が、もう店の前に集まり始めたようだ。
「あとちょっとで開店時間だ! 気合を入れろよてめえら!」
「おうっ!」
全員が威勢よく返事をする。
それぞれがポジションに就き、準備を始めた。
「負けねえぞ……!」
誰がどんなことをしてこようが関係ない!
料理で、全員黙らせてやる!
沸騰したように滾る心で、俺はその時を待った。
『――作者スキル。料理紹介、発動』
アイテム名:アトリエとり塩
種別:料理
可食適性:◯
毒性:無
調味ランク:A+
概要:鳥肉と干し魚、香味野菜を高火力で煮込んで作られたあっさり風味なスープに麺が具材として入っている。ある料理人によって生み出された革新的な料理。塩味の調整が精密で、各素材の風味を損なわずに最大限に引き出す設計となっている。提供直後が最も美味。熱々の内に食べるのが◯。
次回「一杯入魂・転」
お楽しみに!