一章一話[終わりの味]
ここからが、“俺”の物語……
コンコン、パカリと卵の割れる音が耳に心地いい。
使うのは二個。手頃な椀に溶いておき、塩で軽く下味を付けたら準備は完了だ。
フライパンに気持ち多めの油を張って火を入れる。勿論強火だ。
「チャーハンは火力と油が命ってな」
油がサラサラになり、フライパンが充分温まった所で溶き卵を投入。
ここからはスピード勝負だ。
お玉を使い混ぜるようにして手早く卵を炒る。半熟の状態になったら、そこへ予め塩と胡椒、うま味調味料を振りかけておいたご飯を投下。
酒を目分量で大さじ一杯程度加え、米を押し解しながら炒める。温度を下げないよう、フライパンをあおるのは最低限に留め、米全体に卵と油が行き渡るように混ぜていく。そうして米が黄金色に染まり、全てが渾然一体となったら火を止めて、いよいよ仕上げだ。
香り付けに醤油とゴマ油を少しだけ垂らして余熱であおり炒めたら、
「黄金チャーハン完成、っと」
上出来だ。用意した皿に盛り付けたそれを眺めて、“俺”は些細な愉悦に浸る。
まあ、朝飯にしては重たいメニューと思わないでもないが、もはや休日の日課と化しているし、なにより好物なので問題はない。
お湯を注いでおいたインスタントの卵スープと一緒に食卓へ並べて、これで準備は整った。
「いただきます!」
手を合わせてからレンゲでチャーハンをひとすくい。瞬間食欲をそそる香りが鼻を楽しませてくれる。
「うーん、完璧」
腹の虫がもう待ちきれないとばかりに鳴く。
掻き立てられる本能。それを宥めるように、熱々のチャーハンを口の中へと運んだ。
今日も一日が始まる。
そんな思いと共に口に含み、噛み締めたそれからは――なぜか鉄のような味がした。
***
『――しっかり……しっかりしろ! おい! 目を覚ませ!』
体を揺すられる感覚。焦りに満ちた声に引き寄せられて、俺は僅かに瞼を動かした。
「いつまで寝てんだ!? 早く、早く目を開けろよ! おい!」
ぼやけた世界に響く、騒々しい声。
それは容赦なく俺の鼓膜を震わせ、眠りを妨げる。
「起きろ! 頼む! なあ!」
――なんだよ五月蝿いな……まだ眠いんだ。もう少しだけ、眠らせてくれよ。
今日は仕事も休みのはずだ。よって、起きる義務はない。だというのに、なんの恨みがあるのか。そいつは一向に俺を起こすのをやめようとはしない。
「凌平! 凌平!」
やかましい。
耳元で喚くな。体を揺するな。頬を叩くのやめろ。痛いんだよさっきから。どんだけ必死だ。
というか、誰だ? なんで、俺の名前を……
その正体を確かめるべく、俺は重い瞼をもう一段階開いた。
ぼやけた景色が少しだけ明瞭になり、両の眼にそいつの顔が映る。
そこには――
――なんだ、お前か。
とても見知った顔があった。
巧実……そうだ、巧実だ。
“羽黒巧実”。高校時代に出会ってから、社会人になった今でも付き合いが続く、俺の唯一無二の親友。
頭が良くて運動神経も抜群。手先が器用で大抵の事は人並み以上にこなす。常に冷静で、そのせいかどこか近寄り難い雰囲気もあるけど、本当は仲間思いの優しい奴。ついでに顔も良い。あらゆる点で平凡な俺とはえらい違いだ。神様というやつは何故こうも不平等なのか。そう思わされるような完璧超人。
そんな奴が今、何故か泣きそうな顔でそこにいる。
「クソッ! 救急車! 救急車はまだか!?」
焦りと不安に満ちた巧実の声。
らしくない。全くもって、らしくない。
――救急車? おいおい、なんでそうなるんだ? ちょっと寝坊したからって大袈裟すぎるだろ……ああもう、分かった。起きるよ……起きるから。
そうして体を動かそうとした時だ。
ようやく、俺は異変に気付いた。
「あ……ぇ……?」
動かない。
指先一本から、足のつま先まで、何一つ。首から下は、まるで切り離されたかのように微動だにしなかった。
――なんだ、これ?
訳が分からない。意味が分からない。
応答なし。応答なし。応答なし。
まるで他人のもののように脳からの指令をことごとく無視する身体。そんな異常事態に対する疑問の答えは、しかしすぐに、いとも容易くもたらされた。
唯一動く首を動かし己の姿を確認する。それだけの動作で、現状の全てに説明がついた。
――マジか……これ。
赤い。有り体に言えば、血塗れだ。
ありもしない方向に曲がった手足。骨らしきものが見えるほど裂けた皮膚。そんな壊れた身体のそこかしこから、衣類を通過して染み出す、漫画やアニメでしか見た事がないような量のそれは、己を中心に地面へと広がり、その場に小さな水溜まりを作っている。
人体にとって間違いなく致命的だと思える程の出血。その原因は、周囲に目を向ければ簡単に見付けることが出来た。
――ああそっか……俺、トラックに。
点々と、記憶がフラッシュバックする。
迫りくる絶望的な光景を前に立ち尽くす自分。アッと思った刹那、暴力的な衝撃と浮遊感に体は支配され、世界が回る。
グルグルグルグル。永遠にも思えるような時間が終わり、地面に落ちたのだと気付いてからようやく感じた痛みと熱、苦しみ。そして脳を乱雑にかき混ぜられているかのような、気色悪い感覚。
「――っ!」
それらを一挙に思い出し、思わず吐き気が込み上げる。しかし、口からは鉄の味のする液体が流れるばかり。咳き込もうとするが、肺がどうかなっているのか、それも叶わない。息が、苦しい。
――ひょっとして、これ、かなりヤバいんじゃないか?
唐突に、ゆっくりと、だが確実に近付く人生の終着点。
それを悟った時、今まで奇跡的に取り戻していた意識が再び漆黒の中に旅立とうとするのを、止める術はない。
――俺、死ぬのかな?
どうしてこんなことに。そんなことを考える余裕は残されていない。
ただあるのは、耐え難い眠気。
魂は肉体に留まることを拒絶し、視界が徐々に黒く侵食されていく。
「……りょ……へい……? おい……り……へい!」
もはや親友の声も届かず、全ては闇の中へ。
眠い……どうしようもなく、眠い。もうこのまま、深い眠りに落ちてしまおうか?
そんな、諦めにも似た感情に支配されそうになった時――
『――りょうちゃん』
声が聞こえた。
――な、んだ?
聞こえないはずの耳に、でも確かに、聞いた。
聞き慣れた、心地の良い……“彼女”の声を。
何度も何度も、「ちゃん付けは恥ずかしいからやめろ」と言ってるのにまるで聞こうとしない、俺の大切な……ただ一人の、
――“優莉”?
愛しい人。
瞬間、その姿が目に浮かぶ。閉ざされたはずの瞳、その暗闇の中で、はっきりと。
『――りょうちゃん』
呼んでいる。
彼女が、呼んでいる。
こちらに手を伸ばしながら、「まだ行かないで」と、訴えるような顔で。
それはもしかしたら、今際の際の儚い夢かもしれない。だけど、そんなことはどうでもいい。
俺は……俺は!
――そうだ。
思い出した。
俺は、まだ死ねない。死ぬわけにはいかないんだ。
まだ、やり残したことがある。伝えなきゃいけないことがある。
――渡さなきゃ。
胸ポケットの膨らみ。俺の給料、約三ヶ月分。必死に悩んで悩んで、悩み抜いて選んだ婚約指輪。
今日、これから、彼女に渡すつもりだった。
事前に巧実の奴に相談したりなんかして……時間、場所、話の切り出し方を一緒に考えて、大体のシチュエーションを綿密に計画して。そして、最後には「頑張れ!」って背中を押してもらって……そうして、一世一代の大勝負に出るはずだったんだ。
――死にたくない。
こんな所で、終われるか。
これからなんだよ……これから、もしかしたら始まっていたかもしれない優莉との未来。
結婚して、式を挙げて、同じ家で暮らして。時々喧嘩をしながらも仲睦まじく。子供は……どうだろう? 一人は欲しいな。男の子か女の子か分からないけど、きっとどっちでも可愛いに違いない。そんな可愛い家族の為、俺は一生懸命働いて生活費を稼ぐ。幸い、調理師としての念願叶って、近々自分の店を出すことが決まってたから、収入はある程度安定するはずだ。裕福とは言えないまでも、普通に、なに不自由のない暮らしを送れるだろう。泣いて笑って、穏やかに、健やかに。幸福な日常を送って。何年も、何十年も。生きて、生きて、生き抜いて……そうやって最期には、
――笑って死んでやる。
浮かぶ。想像すれば、いくらでも湧いてくる。ささやかな幸せに満ちた未来予想図。まだ始まってすらいない妄想、だが……その終わりは、決してこんなものじゃない。
――死ねない。俺は、まだ……!
手を伸ばす。諦めない。諦めたくないと。暗闇の中、動かないはずの手を。前へ。前へ。
――死にたくない。死にたくない。死にたくない。
諦めかけた心に蘇った生への執着。生きたいと、ただそれだけを強く願いながら、ひたすらに。もはや動いているかも分からない手を伸ばして、伸ばして。
そして、
――頼む……誰か、誰でもいい。俺を……
縋るように、藻掻くように伸ばしたその手を、
――助けてくれ。
誰かが、掴んだような気がした。
始まりました!
ブクマ、評価等……何卒宜しくお願い致します。
次回「切に願う」
乞うご期待!