[俺じゃない誰かは願う――]
いらないと言われた。
生まれたその瞬間から、お前は不要だと。世界は“僕”にそう告げた。
無能だと言われた。
育ったその場所。そこに住む人々に。子供に、老人に、青年に。通りすがった全ての人に。お前は価値がないと。冷たく、侮蔑の目を向けられた。
酷い話だ。どうしようもなく理不尽で、ふざけている。でも、仕方がないとも思った。
確かに、僕は無能だったのだから。
この世界に住む者なら誰もが持っている、あって当然のものを、僕は持っていなかった。
欠陥品だ。そう言われても、何一つ言い返せやしない。その資格が、僕にはなかった。
辛い。苦しい。悲しくて、悲しくて。何度泣いたか分からない。何度逃げようと思ったか分からない。
でも、それでも、僕は生きてきた。
この世にたった数人。僕のことを認めてくれた、生きていいのだと教えてくれた人達がいたから。
周りの目を気にすることなく、いつも幼い僕と遊んでくれた。僕を“友達”と呼んでくれたあの人が。
常に傍にいて、常に僕の味方をしてくれた父が。
そしてなにより。温かい笑顔を向けて、時に優しく時に厳しく、無償の愛を注いで僕を育ててくれた母が。
彼らがいたから、僕は今日まで生きることが出来たんだ。
それなのに……彼らは、もう居ない。
独りぼっちで寂しい思いをしていた時、「俺と遊ぼう」と言って手を引いてくれたあの人も。
人から冷たい言葉を受けて落ち込んでいた時、「何を言われても気にするな。お前はお前だ」と力強い言葉をくれた父も。
なんで僕は生きてるの? と泣き喚いていた僕に、「私が生きていて欲しいと思ってるからよ」と優しく答えてくれた母も。もう……どこにも存在しない。
死んだ――いや……違う。
僕が、“殺した”んだ。
十年前の、あの日。
幼い記憶……でも、はっきりと覚えてる。
突如として出現した災厄が、故郷を襲ったあの絶望の時間。その中で、“二人”は……。
忘れもしない。
聞いた事のないような、あの人の「逃げろ!」という必死な声。突き飛ばされた感触があって……その直後、目の前で消えた親友の姿を。あの人を包んだ炎の熱さを、覚えてる。
逃げて逃げて、その先で、「助けて!」と父に縋ったことを、覚えてる。
知っていたからだ。
父は凄い人だと。強い人だと。勇敢な人だと。
信じていたからだ。
父ならきっと、なんとかしてくれると。
だけど――それは、大きな間違いだった。
覚えてる……。
思い出したくもない。あの絶望を。
冷えていく父の体の感触を。取り返しがつかないような血の匂いを。あの誰よりも強く逞しかった父の、弱々しい最期を。圧倒的理不尽を前に、なにも出来なかった自分の愚かさを。生かしてもらった罪悪感を。覚えてる。その後の地獄のなにもかもを、覚えてる。
いつか、誰かが言った。
お前のせいだと。お前が殺したのだと。お前さえ居なければと。誰も彼もが、そう言った。
その通りだと思った。
あの日、あの時、なにも出来なかったから、二人は死んだ。
僕のせいで、僕がいたから、二人は死んだ。僕が、二人を殺してしまったのだと、そう思った。
空虚だった。それからの日々は、なにを言われてもなにも感じず、なにを食べてもなんの味もしない。ただ死ねないから、機械的に生きている。そんな毎日を過ごしていた。
そうして、どれだけの月日が流れた頃か……次は、母が倒れた。
またしても、僕はなにも出来なかった。いや、“しなかった”んだ。
知っていたはずなのに。
父が居なくなり、悲嘆にくれる間もなく増えたであろうあらゆる負担。その全てが、母の小さな双肩に重く伸しかかり続けていたことを……。
それを分かっていて、それなのに僕は……なにもせず、ただ母が背負う重荷の一つとして、そこに存在しているだけだった。
愚かだった。
日を重ねる毎に憔悴していく母を見ようともせず、自分の苦悩だけを見つめていた日々。
ごめんなさい。本当にごめんなさいと。
寝たきりとなった母に、何度謝ったか分からない。
遅すぎる後悔。
それからは、母の面倒を見るのが僕の日常となった。
死ねと言われた。
誰よりも優しかった母が、ふと目覚めて言った。「あなたが死ねばよかったのよ」と。
辛かった。悲しかった。時々起きてはそんなことを言う母に、僕の胸は締め付けられるようだった。
痛い。痛い。痛い。
だけど、仕方がないとも思った。
母は、僕を恨んでもいい。僕という枷があったために逃げられず、あらゆる責任と重圧に一人で耐えて、耐えて、耐え続けて、それ故に壊れてしまった母には、僕を憎む権利がある。
そう思ったからこそ、母がどれだけ僕に辛く当たろうと、その全てを受け入れた。
償いの日々。
許されたかった訳じゃない。ただ、そうしなければいけないと思ったから。地を舐め懺悔するように、僕は母の世話を続けた。
でもそれは、すぐに限界を迎える。
理由は単純――“お金”だ。
母の面倒を見るようになって、つくづく思った。
人は、生きているだけでお金がかかる。毎日の食料、服や体を洗う水、暖を取るための薪や火。とにかく、様々な用途でどんどん無くなっていくお金。止めようのない出費に対して、無能な僕と動けない母には、収入を得る術がなかった。
なにもしなかった訳じゃない。
なんでもするから働かせてくれと、どれだけの扉を叩いたか。食料を恵んでくれと、どれだけ頭を下げたか。自分はいいから母を助けてくれと、どれだけ訴えたか。
だけど、そんな僕に対して、周りの人間達は誰一人として手を差し伸べることはなかった。
そしてついには父の残した財産も底をつき、僕と母は、その日食べる物にすら困るようになった。
水で空腹を誤魔化す日々。その頃にはもう、母は一日の殆どを寝て過ごすようになっていた。
ごめんねと言われた。
ある日、珍しく目を覚ました母に。「生んでしまってごめんなさい」と。
まるで正気を取り戻したかのように、何度も。「辛かったね。本当にごめんなさい」と。目に涙を浮かべ、僕の頬を撫でながら。何度も、何度も。
やめて、違う、僕が悪いのだと言っても……母は謝るのをやめようとはしなかった。
ごめんねと言われた。ありがとうと言われた。愛してると言われた。
それが……母の最期の言葉だった。
そうして、僕は独りになった。
悲劇だ。
なんという、悲劇だろう。だけど、その悲劇はきっと……僕という存在がなければ、一つとして起こらなかった。
そうだ。
全部、僕だ。
僕のせいで、彼らは死んだ。皆、死んだ。
僕が、僕さえ……居なければ。
そんなことばかり考えていた。
それから、どれくらいの時間が経ったのだろう……。
僕は今、ここにいる。
薄暗くて静かな、家からさほど遠くない森の奥。誰にも迷惑のかからない、この場所に。
終わりにしようと、思ったから。
失った悲しみも、生きる苦しみも、胸を刺すようなこの痛みも全て。
消してしまいたいと、思ったから。
だから、僕は……ここでこうして、横たわっているんだ。
――痛い。痛い。痛い。
とても……とても痛い。泣きそうなほど。叫びたいほど痛い。
自ら裂いた手首から、燃えるような痛みを感じる。
だけど、それでいいと思った。
これは、償いだ。
僕が居たから、皆不幸になった。
僕が居なければ、誰も不幸にならなかった。
生まれてこなければよかったのだと思う。生きるべきじゃなかったのだと思う。
もっと早く、こうしていれば……そう思わずにはいられない。
――もう遅い。
分かってる。
だからせめて……最期は誰にも迷惑がかからないように、気付かれないように。
無くなってしまおう。
跡形もなく。
そのために、ここを選んだのだから。
――ここだ。僕は、ここにいる。
呼ぶ。
早く、早くと。
もう十分に血は流れた。
その匂いは森を漂い、きっと“彼ら”に届くはずだ。
きっと、来るだろう。
僕を、終わらせるために。僕を……喰らうために。
捧げよう、全部。彼ら――森の“捕食者”たちに。
母に似たこの黒い瞳も、父に似たこの銀色の髪も、この血も、この肉も。一片残らずくれてやろう。
それが、僕の選んだ終わり方だ。
それが、僕にできる、最後の貢献だ。
生まれてから今まで何の役にも立たなかった僕だけど。もはや骨と皮ばかりの身体だけど。それでも、飢えた彼らの腹の足しくらいにはなるだろう。
そうやって、居なくなろう。
いらないと言うのなら。無能だと言うのなら。死ねというのなら。
その通りに、消えてしまおう。
生まれたことが罪だと言うのなら、その報いを受けよう。
悔いはない。
未来への希望も、生への執着も、なに一つ。
母の死を看取り、その骸を土に還した瞬間から、僕にはもうなにも……残っていなかったのだから。
だから、さよならだ。
裂いた傷から止めどなく血は流れ、しかし痛みは、もはや感じない。引き換えに、強烈な眠気が襲ってくる。
――終わる。
もうすぐだ。
父さん、母さん……もうすぐ僕も、そっちに行くよ。
ああ……眠い。もう……目も見えなくなった。
暗い。昏い。暗い。
意識が闇に溶けていく。
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。沈んで、そこで――
『――――――――』
――誰かに、呼ばれたような気がした……。
――“僕”の役目は終わり……“俺”の物語が始まる。
次回、第1章開幕です!
乞うご期待!
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