ノワの過去
ノワの本名は、フェルディ・ノワールという。
黒豹獣人の彼の出身国は、ライオン獣人の王族が統治するリオニーズ王国。
祖国を出奔するまでは、ノワール公爵家の次男で王配候補──次期リオニーズ王国女王である第一王女の婚約者の一人だった。
リオニーズ王国は女性にも王位継承権が認められた国だ。
女王は王配を最低三名持たなければならない。
よって、女王となる王女には王位を継ぐまでに三名の「王配候補」という立場の婚約者が選ばれ、王位を継いだ後から必要に応じて王配の数が増減することもある。
ノワが王配候補に選ばれたのは、公爵家の次男という血統、優れた体格に容姿、高い能力、そして、番同士の両親から生まれた恩恵で発現した貴重な『金眼』が理由だった。
王命による王配候補指名である。
人族の国のように、後継者争いを防ぐために同性婚が当然だったり、国教の教義に縛られた結婚の決まりなどは無いが、獣人族には他種族には無い「番」という特殊な概念がある。
獣人であれば誰でも必ず存在すると言われている「番」は、必ず異性であり、巡り会える確率は非常に低い。
だが、一度出会ってしまえば本能的に惹かれ、伴侶にと望まずにはいられないと言う。
そのため、巡り合った番同士が双方獣人族であれば、身分差が大きかったり既婚であっても、法的には最優先の結婚相手として「番」を選ぶことが可能だ。
ただし、片方が他種族であった場合や既婚者である場合、すんなりと「巡り合ったから番と結婚」とはならない。
他種族には「番」を感知する本能は備わっていないし、既婚者はそれまでに「番」ではない伴侶に向けていた情や築いてきた絆がある。
多くの獣人は、例え「番」と巡り合ったとしても、それまで築いた絆を切り捨てるほど盲目的に「番」だけを欲するようになる訳では無い。
出会った直後は本能が作用して「番」を伴侶として望む気持ちが強く出るが、出会いの衝撃が去れば、「どのような選択をすることが双方の幸せにつながるか」を考える頭は戻ってくるのが普通だ。
ここで問題になるのが、「普通」ではない場合。
獣人族の間では、それは「番狂い」と呼ばれ、軽蔑と嫌悪の対象となっている。
「番狂い」とは、「番」と出会ったことで理性を失い、それまで表れていた人格が崩壊するほど「番」のみに盲目的になってしまう状態を言う。
主に、「番の言動を(法や倫理に背く内容でも)全肯定する」、「番の要求は何でも(危険なことや犯罪の教唆でも)受け入れる」などが、よく見られる「番狂い」になった獣人の行動パターンだ。
「番狂い」の獣人は、自分の「番」に出会い、本能に刺激を受けたことで悪い方へ本性が全開になっている状態だ。
だから「番狂い」になった獣人は、その状態を見た周囲の者達から「本性がどのようなものであったのか」を推測されてしまう。
その為、もし時間を置いて、「番狂い」から正気に戻る日が来たとしても、推測された本性によっては、周囲と元の関係を取り戻せないことが多い。
過去の例を見れば、「番狂い」になる獣人は、元々恋人への依存度が病的であったり、自己中心的、身勝手、横暴、遵法意識が低いという本性を根底に抱えている傾向があった。
そんな本性が露見した人物と、一度崩れた関係を修復してまで付き合いたい者は、あまり居ない。
獣人の中には「番狂い」を嫌悪するあまり、「番」自体に否定的で、「一生『番』に出会いたくない」と考える者もいる。
それくらい、獣人族にとって「番狂い」とは忌避されるものだ。
『我らは理性を有し、社会を築いて暮らす獣人であり、本能で暴れ狂う獣ではない』
昔、獣人の王族が治める何処かの国で、「番狂い」になった王族を断罪した一人の勇気ある獣人が遺した言葉は、『獣人族の誇り』として今も語り継がれている。
ノワの両親は番同士だが、双方が獣人族の貴族であり、年頃も近く婚約者も居なかったことで、奇跡的なほどにスムーズに問題無く結婚に至った夫婦だ。
それはもう、息子の目から見ても砂糖を吐いて山を築けるくらいに溺愛し合う仲の良い夫婦ではあるが、二人が「番」を理由に理性や常識を失ったことは見たことがない。
意見が食い違えば議論を戦わせるし、相手の言動が間違っていると感じれば指摘もすれば反対もする。
ノワは両親を見ていて、「番」というのは「次世代に血を繋ぐに当たり、最高に相性の良い存在」なのではないかと考えていた。
例えば、ノワが王配候補に選ばれた理由の一つにある『金眼』は、獣人族にとって「始祖返り」と呼ばれ尊ばれるもので、潜在能力が並の獣人とは比較にならないほど高い。
金眼は、番同士の夫婦の間にしか誕生が確認されたことが無いそうだ。
また、番同士の夫婦であれば、獣種的に子供の出来にくい夫婦でも子沢山で安産な傾向が強い。
巷で言われているように、「始祖が番同士で夫婦となるのを祝福している」というのは眉唾物だと思っているが、「高い能力を持つ健康な子が出来る可能性の最も高い異性を本能で感知している」のではないだろうか、とノワは思う。
少なくとも、「出会った瞬間から、理性を飛ばして人格を崩壊させて盲目的に求める相手」のことを「番」と呼ぶのは語弊があると思うのだ。
ノワが祖国を出奔しなければならなくなったのは、王配候補だった王女が視察先で「番」と出会い、「番狂い」になってしまったからだった。
王女が「番」と出会ったことで、王配候補はノワを含めて三名全員が婚約状態を解消され、解散となった。
王女が「番」以外の夫を持つことを拒んだために、王位継承権を放棄させられたからだ。
王位は弟王子が継ぐことになり、元王配候補者達は今後の身の振り方を考える必要に迫られた。
それでも、ここまではノワも王女を責める気も無かったし、国を出奔するつもりも無かった。
王女の「番」は、視察先の地方の寒村で炭焼夫の雑用をしていた鼠獣人の孤児の少年だった。
少年と言ってもノワより三歳ばかり年下なだけの十五歳。
それは、大人の欲や汚さと子供の考え無しな残酷さが同居する、実に厄介な年齢だった。
王女の「番」は「番狂い」になった王女に、泣きながら訴えた。
「婚約が解消されたと言っても、一時でも貴女の婚約者だった存在が許せない」
「貴女の婚約者だった男が、この世に生きていると思うだけで辛くて苦しい」
「あの男達が生きているのが辛くて食事が喉を通らない」
「あの男達が生きていると思うだけで苦しくて眠れない」
日毎夜毎、顔を合わせる度に、グスグスと泣きながら王女の「番」は辛い胸の内を訴え、実際にほとんど食事に手を付けず、目の下に濃い隈を作り、日に日に衰弱していく様子を王女に見せたらしい。
王女は「番狂い」だった。
「番」の言動は全肯定で、「番」の要求は何でも受け入れ、「番」の望みはどうあっても叶えようとする、理性を飛ばした状態だ。
王女は「番」の憂いを払う為に、元王配候補の三名を殺そうと刺客を差し向けた。
勿論、犯罪だ。
王族だからと言って許される行動ではない。
それでも、王位継承権を放棄しても、「番狂い」になっても、王女には未だ、王族の権力と財力があった。
プロの暗殺者を雇う十分な資金もあれば、私有する騎士団も残されていたのだ。
ノワは、送り込まれた一流の暗殺者を返り討ちにすることが出来た。
だが、ノワ以外の元王配候補二名は、「番狂い」の王女の怪しい動きを陛下に奏上している間に、刺客によって亡き者にされた。
潜在能力も鍛えた現在の実力も高く、獣人族ならば無意識に畏怖を覚えてしまう『金眼』のノワは、獣人の国であるリオニーズ王国内で雇える暗殺者では殺せない。
ノワに返り討ちにされた暗殺者達に巨額の資金を注ぎ込んだ頃、そう気付いた王女は、とうとう有りもしない罪をでっち上げて私有の騎士団を動かし、ノワを犯罪者として捕縛して処刑しようとした。
陛下は、その計画の報告が上がっても動かなかった。
今の国王は、子供の頃から「番」への憧れが強かったと聞いていた。
ならば、臣下であるノワール公爵への感情は複雑なものだと想像がつく。
ノワール公爵は「番」と結婚し、「始祖返り」の『金眼』を息子に持っている。
獣人族の国の王ならば、『金眼』への羨望や嫉妬が無い筈が無い。それほど、獣人にとって『金眼』は尊く特別だ。
自分の娘が「番」と出会い、結婚して「番」との間に子を作る。
もしかしたら、『金眼』の孫が生まれるかもしれない。
そんな夢を見て、陛下は王女の行動を、ただ黙って成り行き任せに眺めているのだろうか。
ノワは、公爵家の息子だ。
もし、冤罪で処刑などされたら、「ノワ個人の問題」では済まされない。
しかも、偽の罪をでっち上げて捕縛に来るのは、王位継承権を失ったとは言え、王族の私有する騎士団で、命令を下したのは王族だ。
内乱を起こす気かよ、あの王女。
「番」の望むまま、あまりにも考え無しに王族の権力を振るい続ける王女と、それを阻止出来ない王室、夢見て静観する国王に、ノワは怒りを通り越して呆れ果てた。
ノワール公爵家の持つ力は、王族であっても侮れる程度のものではない。
他の獣人族の国や他種族の国との交易で築いた、莫大な富と人脈。
領地に抱える公爵家の騎士団は、他家の騎士が修行に来るほど練度の高い武力を誇っている。
加えて、現当主夫妻は「奇跡のように出会い、誰からも祝福されて結ばれた番同士」だと、「番」に憧れを持つ獣人達にとってはカリスマ的存在。
その上、その「カリスマ当主夫婦」の次男は「始祖返り」の『金眼』だ。
ただでさえ、嫌悪される「番狂い」になって王位継承権を放棄した王女が、「番」の願いだからと元王配候補達を暗殺し、ノワール公爵夫妻の息子で『金眼』のノワに冤罪をかけて処刑しようとしている。
事実が国民にバレたら国が割れる。
下手したら革命かクーデターが起きる。
ノワール公爵家では家族会議が密かに開かれ、その場でノワは、国を出奔することを宣言した。
あの陛下が、「番」と結婚して『金眼』を生む可能性のある王女を処刑や幽閉することは、今後も無いだろう。
本来なら、「王位継承権の無い王族」が「複数の高位貴族を殺害した」ならば、それだけで、この国では十分に処刑案件だ。
王女には更に余罪が幾らでもある。
それでも動かなかった陛下に、最早ノワール家が期待することは無かった。
元王配候補の「フェルディ・ノワール」が王女の権力の届く国内に居る限り、「番狂い」になった王女がノワへの殺意を収めることは無いだろう。
これ以上、「番狂い」の王女の暴挙で王家の求心力が落ちれば国が荒れる。
だから、ノワは国を出て一介の冒険者として生きて行こうと思う。
その為に、公爵家から除籍してくれ。
家族会議の場で自らの意見と希望を表明したノワは、母から生温かい視線を注がれた。
「貴方、国王になりたくないのねぇ」
サッと視線を逸らすノワ。
このままノワがリオニーズ王国に「元王配候補のフェルディ・ノワール公爵令息」として留まれば、王女が国王でも庇い切れない暴挙に出た場合、ノワール公爵家を旗頭に貴族達が決起してクーデターが起きる。
そうなれば、簡単に今の王家は潰されるだろう。力量差が歴然としている。
そして、旗頭となったノワール公爵家が新たな王家として望まれた時、新国王として祭り上げられるのは確実に『金眼』のノワだ。
そもそも、リオニーズ王国は女性の王位継承権を認める国ではあるが、強さに重きを置く獣人族は「自分たちの王」に「力強さ」を求める者が多く、心の底では男性の王を望んでいる。
第一王女が王位を継いで女王として即位することが貴族達から支持されていたのは、王配候補に『金眼』のノワが選ばれていたからこそだった。
第一王女は「番」と出会い「三名以上の王配を持つ」という決まりを守れなくなった、という理由で王位継承権を放棄したことになっているが、実際は『金眼』のノワを王配候補から外した時点で貴族の支持を望めなくなり、王位を目指せなくなったのだ。
その辺りを考えても、ノワはやっぱり貴族の身分を失って国から出た方が良いのでは、と思った。
獣人族の国では、とかく『金眼』は波乱の種になる。
権力の中枢に近い高位貴族の身分を捨て、他種族の国で腕一本で伸し上がる方が、自分も周りも平和じゃないか。
ノワは、そう思うのだ。
「まぁ、好きにしなさい。お前には今まで不自由をさせたからね。戻りたくなったらいつでも帰っておいで」
「帰ってきたら玉座が待ってるけどなー」
暖かい父の言葉と、付け足された兄の現実を突き付ける言葉に見送られ、ノワは祖国から脱出し、ロシュール帝国を目指した。
ロシュール帝国は人族の皇帝が治める強大国で、他種族への差別も無い実力主義の罷り通る国だ。
実力者が集い拠点とする、大きな冒険者ギルドも帝都にあった筈。
帝都ロシュランの冒険者ギルドを拠点として、祖国では人前で抑えていた実力を遠慮無く発揮して高ランク冒険者へ駆け上がるノワ。
目立てば当然、祖国の王女の耳にもノワの存在は入る訳で。
「呑気に刺客送って来てんじゃねぇよ。俺が帰国したら鼠の『番』共々、クーデターで断頭台の露と消えるんだぞ?」
祖国を離れても、「王女の元婚約者」への「王女の番様」からの嫉妬は衰え知らずだ。
その「番」の願いを叶えようとする「番狂い」の王女のノワへの殺意も変わらない。
彼らの命運を握っているのはノワだけど、それを握り潰したら自分の自由時間も終わる。
何とも頭の痛いことで、今日もノワは天を仰いで溜め息を吐くのだった。