ネリーの過去
ネリーの本名はネルソン・ハイデガーという。
アドギス王国のハイデガー侯爵家に次男として生まれた。
この世界の宗教観は、「全ての神々は創造神の子供達であり、創造神の子供達は互いの意見を尊重し合っている」というものであり、国によって異なる国教を定めていようと「教義の違い」で国家間の戦争を起こすことは許されていない。
国教とは、国を興した王家が信仰する神をその国の主神として崇めるものであり、国教の教義を国法に反映させ、国内に於いて国法に背く者を処罰することは認められている。
国教によって同性婚を禁じる国はあるが、リンハー大陸のほとんどの国が同性婚も認める教義の神を信仰している。
何故なら、その昔、多くの国で長子相続を法で定めているにも関わらず、次子以降の子らまで交えた後継者争いが頻発し、滅びる王国が続出した時代があったからだ。
その時代を経て、「貴族以上の身分の家では家督を継ぐ長男以外の男子は同性婚」という風潮が広まった。
そのような国では、王位を継ぐ王子以外であっても、貴族家の当主を継ぐ男子は複数の女性の伴侶と婚姻を結ぶことが推奨され、性別による「身分の高い独身者」の偏りが起きないよう配慮されることになっている。
因みに、「貴族以上の身分の後継者以外の男子を同性婚させる」目的で「同性婚を禁じない」国教を信仰している国は、法的には女性同士での同性婚も認められる。
貴族以上の身分では、政略的観点から滅多に無いことではあるが。
また、平民の家督を何番目の子が継ごうが、平民の家で後継者争いが起きようが、国の滅亡に至るケースはほぼ無いだろうと言うことで、平民が「後継ぎ長男以外の息子は同性婚」などを強いられることは無い。
同性婚が認められる国教の国の平民は、自身が望めば男性であれ女性であれ同性とも婚姻を結ぶ権利がある、というだけだ。
侯爵家次男だったネリーは、アドギス王国第四王子の婚約者だった。
まだ成長期に入る前、少女と見紛う華奢な美少年だった頃に参加した王城の茶会で、運悪く件の第四王子に見初められてしまい、婚約者に指名されてしまった。
父であるハイデガー侯爵から命じられ、当時のネリーは貴族の義務として王子との婚約を受け入れ従った。
次男の自分の婚姻相手が異性になることは無いだろうと考えていたし、政略結婚は貴族の義務でもある。
王家との繋がりをハイデガー侯爵家が欲していて、家の利益になると言うならば否やは無かった。
だが、この第四王子は、ネリー的には「とんでもないクソ野郎」だった。
自分で見初めて指名したくせに、とにかくネリーを蔑ろにし続けたのだ。
婚約者を同伴する公の場でも、非公式の「婚約者同士の逢瀬」の場でも、王城や学園、はたまた王都の街中などで偶然会った場面でも、兎にも角にも酷い態度を取り続けた。
それはもう、「冷遇」などと一言で片付けられない蔑み方だった。
公の場では常に、ネリーが婚約者であることへの不満を態度と表情と言葉に露骨に表した。
大きな溜め息、歪んだ顔、への字に曲げた唇、汚物に触れるかのようなエスコート、エスコートの終わりは毎度「いつまで私に触れているつもりだ! 汚らわしい!」と怒鳴りつけられた。
聞こえよがしに他の令息達と盛り上がるネリーの悪口大会。
「男に媚びるしか能の無い顔が気持ち悪い」
「どれだけ嫌でも一度指名してしまったから仕方無く責任を果たしている」
「ハイデガー侯爵も、あんなのが息子で可哀想に」
「私に嫌われているのに弁えず縋る図々しさが醜い」
公の場で、これだけの悪口雑言を婚約者の王子が堂々と宣うのだから、ネリーの立場などある訳が無い。
王子殿下から嫌われ冷遇される、望まれていない婚約者。
周囲の人々の認識は、すぐに同じ一色に染まった。
そうなれば、王族に忖度した貴族達は、第四王子に倣ってネリーを虐げようとする。
それが王子の意に沿うことだと誰も疑わないし、事実、ネリーがどれだけ他の貴族たちに虐げられようと「婚約者の第四王子」がネリーを庇うことは無かった。
人々の行いが、更にエスカレートするのも早かった。
王子の意を汲んでいる、というのを免罪符に、ネリーより身分の低い貴族達までネリーを虐げる輪に加わった。
嫌がらせや口撃は、すぐに暴力や犯罪行為にステップアップした。
一応、王家と侯爵家の護衛は付いていたが、王家の護衛は王子に忖度して職務放棄していたし、侯爵家の護衛だけでは防ぎきれない攻撃も多かった。
騎士科に在籍する公爵家の嫡男をリーダーとする取り巻きグループに囲まれ、殴る蹴るの暴行を受け、剣で髪をザンバラに切り落とされた時、報告を受けた婚約者の王子は憎々しげに吐き捨てた。
「私の婚約者でありながら自分の身も守れないのか。本当に無能な役立たずだな。恥を知れ」
心配の言葉一つ、態度一つ無かった。
犯人グループは、親と教師からの形ばかりの口頭注意で無罪放免。親も教師も、第四王子に忖度しての対応だ。
ハイデガー侯爵家としてネリーに怪我を負わせた家へ当主が抗議を出したが、「恥となる息子がいて大変ですね」と遠回しに言う見舞い文と、大変な家への見舞金が送られて来た。
併せて、「王家はハイデガー侯爵家を冷遇する意図は無い」と、有り難い声明(笑)が王家から出された。
身体の出来上がっていない十三歳のネリー少年が、十七歳から十八歳の騎士科の大柄な青年五人に囲まれて、真剣を突き付けられながら暴行を受けたのだ。
婚約者の命令で、学園では騎士科でも魔術科でもなく政務科に入学在籍させられたネリーは、授業で戦う術や身を守る術を習うことも無い。
それに、アドギス王国の貴族ならば誰もがネリーを「王子に嫌われ望まれていない婚約者」だと知っている。
「王子の婚約者」という事実が盾にならなければ、侯爵家次男に過ぎないネリーは公爵家の嫡男率いる集団から暴行を受けても、家のことを考え反撃など出来ない。
相手は次期公爵家当主。それを上回る身分は王族だけだ。
その王族である婚約者が、ネリーを虐げることを良しとしているのだから、うっかり抵抗から反撃して過擦り傷でも負わせたら、自分のせいでハイデガー侯爵家が公爵家の不興を買うかもしれない。
だからネリーは只管耐えた。
独学で魔法も体術も身に付けていたから生き残っただけの話で、本当に「顔だけの無能」だったら確実に殺されていた。
全力で身体強化魔法を発動し、風魔法で見えない薄さの防御膜を張ることでダメージを軽減し、急所に当たる攻撃は勘付かれないように僅差で躱した。
王家からの声明で、「ハイデガー侯爵家から抗議が来るようなやり方は不味い」という方針になったのか、それ以降の同様の暴力は闇討ちスタイルになった。
ネリーは全部、同じ様に防御に徹した。
生傷の絶えないネリーを、婚約者の王子はいつも汚い物を見る目で見ていた。
十四歳になった頃、暴力のジャンルに性暴力が加わった。
どうせ婚約者の王子には嫌われているんだから手を出しても咎めは無いだろう、そんな浅はかな考えの男が美少年ネリーの周りに溢れ返った。
全部、金的で返り討ちにした。
だが、性的暴行を受けそうになったという事実は消えない。
事実を耳に入れた婚約者の王子はネリーを罵った。
「やはり男に媚びるしか能の無い顔の通りの卑しさだな! この『顔だけ売女男』め! お前などが婚約者であるとは何たる不幸! 私の人生の汚点であり生き恥だ!」
いくら身分差があるとは言え、とんでもなく無礼な暴言である。
ここまでの暴言を吐きながら、この王子はネリーとの婚約を破棄しないのだ。
性犯罪者どもを返り討ちにし続けていたら、護衛を買収して人気の無い廃墟に連れ込まれたり、使用人を買収して薬物を盛られたりと、手段が益々犯罪らしくなっていった。
薬物については毒魔法が得意なので事無きを得た。
廃墟には不運なことに落雷があって、集団強姦の宴が開催される前に憲兵が集う大騒ぎとなった。
因みに、ネリーは雷魔法も得意だ。
こうして不本意な実戦経験を積みながらも従順に通う学園は、ネリーにとって完全アウェイの戦場で、常に誰が何処から攻撃して来るか分からない緊迫感溢れる空間だった。
だと言うのに、いつになっても婚約は無くならないまま、王子とネリーは卒業と同時に結婚することが決まっていた。
最初は「貴族の義務だから」と従い、受け入れ、何をされても何が起きても耐えていたネリーだが、いくらなんでも異常だろうという考えが脳内を占めていくのを、止められなくなっていった。
婚約者の王子にも、親であるハイデガー侯爵にも、登城した際に私的に声をかけてくれた陛下や王妃殿下にも、ネリーは何度も訴えた。
「それほどまでに気に入らないのであれば、どうか婚約を解消してはいただけませんか」
あれだけ公の場でも嫌悪を露わにしている上に、暴言も吐き散らかしているのだ。
王子やネリーの両親の耳に入っていない筈は無いが、全て日付と場所、状況入りで記録を取っていた今までの王子の言動も提出して、婚約解消を訴えた。
それでも状況は変わらない。
いや、王子の態度が更に悪化という悪い方向へだけ変わった。
卒業を目前に控え、ネリーはブチ切れた。
いい加減、敵しかいない環境で常在戦場の生き方を強いられる日常とは決別したくなった。
何が限界と言えば、敵陣真っ只中だと言うのに、ほとんど反撃は出来ないことが蓄積していくストレスだった。
「あの王子との婚姻が『貴族の義務』だと言うのなら、この家から私の籍を抜いてください。私は平民になります。籍を抜いてくださらないなら、全てを捨てて国を出ます」
父親には、こう言った。
微塵の余地も無く本気だった。
婚約者にも純度100%の本気で言い切った。
「貴方との婚姻を無理強いされたら自害します」
最初から、交流など無かった王子だ。
見初められたという不幸な茶会が初対面だった。
その後すぐに婚約者に指名され、冷遇なんて軽く言えるものではない虐待を、ネリーの体感としては王族主導で国ぐるみでやられたのだ。
貴族に生まれたというだけで、こんな男と結婚するのが義務と言うなら、死んだ方がマシだと思った。
ネリーの本気を感じ取り、漸く「このままではマズイ」と思った関係者達が動いた。
もう、手遅れだったけど。
陛下が密談で使う窓の無い客室に、ハイデガー侯爵夫妻とネリーが招かれ、室内には国王夫妻と第四王子が待っていた。
そこから繰り広げられる世迷い言と戯言のごった煮オンパレードは、ネリーの腸を煮え繰り返す効果だけは抜群だった。
うんうん何だって?
王子はネリーが好き過ぎて逆に素直になれなかっただけ?
恥ずかしくて照れてしまってついつい酷い態度や暴言を吐いてしまった?
本当は優しくして側でいつも守りたかった?
ネリーを虐げた者を罰したかったけど本心がバレるのが恥ずかしいから見逃したのは王子も辛かった?
つ・ま・り。
王子は「ヘタレ」を拗らせて、照れるあまり「ツンデレ」な態度を取っていただけだと言いたいって?
ふっざけんじゃねぇよ!!!!
俺の人生返しやがれ!
こんなケチのついた人生終了でいいわ生き直すわ!
なーにが、「これで誤解も解けただろう?」だ!
な・に・が、「やっと相思相愛になれるわねぇ」だ!
なるわけねぇだろ!
クソ王子の一方通行だっつーの!
荒ぶる心を脳内に吐き散らかす暴言で宥めすかし、ネリーは極上の笑みを表面に浮かべた。
「あまりの想定外のお話に混乱しております。一人で落ち着いて考える時間をいただけますか?」
一人にして自害されては堪らんと喚く王子へ、ネリーは慈愛に満ちた視線を送った。
「まさか、そのようなことはいたしません。今耳にしたお話で、生きて行く気力が湧きましたから」
嘘じゃない。
溢れる怒りは非常に優秀なエネルギーだ。
斯くしてネリーは、その日の夜に国と家と婚約者を捨てて出奔した。
四階の部屋の一室、扉の外に見張りは付けられたが、王子との婚約以後に散々理不尽な実戦経験を積んでいたネリーには意味が無かった。
適切な身体強化を自分にかけて、風を纏ったネリーは音も無くふわりと外に降り立った。
常在戦場の生活だったお陰で、気配を絶つのも隠密行動もお手の物だ。
「言動の通り、目に付いたから婚約者に指名したけどやっぱり気に入らなかった、嫌で嫌で仕方無い望まぬ婚約で、婚約者のことは誰かに殺されても構わないくらい憎くて厭わしい存在、って言うならまだ、共感も同情もしないけど、言い分としては理解出来たのよ? 頑なに婚約を維持するのも、王族のメンツとか矜持とかでさぁ」
出奔後、祖国の介入に屈しない国力を持つロシュール帝国を目指し、実力でA級冒険者まで駆け上がったネリーは、似たような経歴を持つパーティの仲間に語った。
「けど、あの恥も外聞も無い無礼千万で血も涙も無い非情な言動の理由が、アタシを好き過ぎたから〜って。アホ過ぎて理解不能よ。百万年かけても相互理解は無理だと悟ったの」
今も尚、王子の恋心へ理解を示すことを強要し、「冒険者のままでも許してやるから、拠点をアドギス王国へ移せ」と上から目線の妥協案を提示して来る親達を思えば、ネリーの視線は更に生ぬるさを増す。
この期に及んでも、出張って来るのが親達なんだから。
二度と奴らと関わるのは断固拒否!
の姿勢を貫くネリーは、そんな親達が「家の恥になるから」「国の恥になるから」辞めろと言うオネエキャラで、世に名を馳せる。
「一昨日来やがれって言葉があるけど、百億年遡ったって二度と顔見たくないわよクソ野郎」
今ではすっかり板についた喋り方は、もう本人も元に戻せる気がしなかった。