母娘
母が死んだ。「亡くなってからしばらくは泣いてる暇なんてない」と誰かに言われた時はそんなことはないと思っていたけれど、実際とても忙しかったし、まだ実感が湧かない。最期も看取ったので息を引き取る瞬間も立ち会った。病気が見つかったのはもう2年も前のことだし、覚悟はしていた。でも本当に、まるで実感が湧かないのだ。なんというか、病院に行けばまだあの病室に母がいるような気がしてならない。
仲が悪かったなんてことはない。それどころか他の家庭に比べてかなり親密な方だったと思う。環境がそうさせたと言えばそうかもしれない。母は女手一つで私を育て上げてくれた。大学まで行かせてもらった。自分だったらどこかで挫折しているだろう。それにまるっきり仕事人間だったというわけでもなく、週末にはいつもどこかへ私を連れて行ってくれた。幼い頃は寂しく思う日もあった。家に帰れば母親が迎えてくれる周囲の子達を羨ましく思って、どうして私だけと思っていた時期もあったが、それでも有り余るほどの愛情を注いでくれた。だから母を恨むようなことは全くなかったし、尊敬していた。今でもそうだ。母を心から尊敬している。
入院してからも母の部屋には手をつけていなかった。もしかしたら心のどこかで願っていたのかもしれない。母が回復して、また一緒に暮らせることを。だから未だ生活感の残るこの部屋を片付けなければならないのは少し心苦しい。しかしいつまでも残していても仕方がない。故人は故人であって、帰ることはもうない。
遺品整理の業者を利用すべきだという薦めは断ることにした。どうしても自分だけでやりたかったからだ。時間はまだある程度あるので、ゆっくりやっていこう。そういえば、母のタンスを開けるのなんて初めてだ。一番上の棚はシャツ、その次はズボンやスカート。最下段は下着。生前嫌になるほど体験した母の几帳面さに死後また触れる機会があるとは。なんだか面白い。よく「使ったものはすぐに片付けなさい」なんて怒られたなあ。せっかくだから私でも着れそうなものは拝借することにしよう。もう死んでいるんだから、これくらいは許してもらってもいいだろう。
一つ一つ、服を段ボールに詰めてゆく。きっといつか捨てるのだろうけれど、まだゴミ袋に入れるような気分にはなれない。まあ気が向いたらその時に捨てればいいし、もし使える人がいればあげてしまおう。燃やしてしまうよりはそちらの方が随分良いだろう。ふと、指先に何か金属のような硬いものが当たった。なんだろう。靴下を持ち上げると、そこには小さな鍵があった。ああ、これはきっと書類棚の鍵だ。すっかり忘れていた。母は入院前に、何かあったら鍵はここに入れてあると教えてくれていた。実はあの棚が開かないので、通帳やら土地の書類やらが取り出せずにほとほと困っていたのだ。これでやっと向こうにも取り掛かることができる。
タンスは単純に触れる機会がなかったというだけだが、書類棚については母から絶対に触るなときつく言われていた。大事な書類を勝手に触られては困るということだろう。小さな頃、どんな宝物が入っているのだろうと思っていたのをかすかに覚えている。だが私の想像は少し違っていたようだ。書類棚を開けて始めに目に飛び込んできたのは日記帳だった。確かに、母の性格を考えると人一倍これは見られたくなかったのだろう。
母には結構恥ずかしがり屋な一面があったように思う。読まないでおくべきか、それとも読んでしまおうか。他の書類を整理しながら小一時間悩んだ。私だったらどう思うだろう。たった一人の愛娘がいたとして。読まれたくない気持ちもある。でも別にいいやという気もする。もし母が読まれたくないと思っていたとしたら、それを無理やりこじ開けるようなことはしたくない。そう思って私は日記帳を捨ててしまおうとした。だが何気なく裏表紙を見た時、そこに私の名前が書いてあることに気がついた。
「優へ。」
私へ?どういうことだろう。きっと私に伝えたいことがあるのだろう。だけど一体何を。でもとにかく、読んでみなくてはならない。そうして私は日記を開くことにした。
「優へ。
本当は私の口からあなたへ話しておきたかったのだけれど、喋るのはあまり得意じゃないし、ちゃんと全部伝えたかったから文字にして伝えることにしました。
2ページ目以降はただの日記帳です。もし気になったら読んでもいいけれど、恥ずかしいからあんまり見ないでおいてくれると嬉しいな。優へのお手紙は後ろの方のメモ帳に書く事にしました。付箋が貼ってあると思うから、そこを開いてね。
・・・・・・・・・
改めて、優へ。
多分、こうやってちゃんと何かを伝えたことはなかったわよね。仕事ばかりしていて、小さな頃はとても寂しい思いをさせてしまったと少し後悔しています。ごめんね。もっと優との時間を作ればよかったかもしれない。でも優が大人になってからはいろんなところに一緒に行けて、私本当に嬉しかったわ。よく喫茶店にお茶しに行ったわね。優は私の知らないことをいっぱい知ってるから、優のお話を聞くのがとても楽しかったです。
優が生まれる前、私はあんまりいいお母さんにはなれないだろうなって思っていたわ。ガサツでいい加減な人間だったから。おじいちゃんにもよく怒られたのよ。おじいちゃんね、すごく細かいのよ。門限を何分過ぎたとか、女は酒なんて飲むなとか。優が生まれてからは孫煩悩で、いつもデレデレしてたから知らないわよね。おばあちゃんが死んじゃってからはいつも寂しそうにしてたから、お母さんがあちらに行ってからも時々顔を見せてあげてください。あの人、それだけが楽しみなのよ。
あなたのお父さんのことはずっと話さずにいましたね。きっとすごく気になっていたと思うし、父親がいないことで苦労したこともたくさんあると思います。一度、どうしてうちにはお父さんがいないのって私に尋ねたこと、覚えてるかしら。あの時はどうやって答えたらいいかとても困りました。というのも、実はあなたのお父さんはどこにいるのか今でもわからないんです。本当に恥ずかしいことだと思うのだけれど、若い頃の私は疑いようのないほどいい加減な人間だった。どうかしていたと思うわ。毎日夜遊びをして、いろいろな場所を遊び回っていた。妊娠がわかったのは私が22歳の頃だった。その頃お付き合いしていた人がいて、その人があなたの血縁状の父親です。わかってすぐにその人に言ったのだけれど、そうしたら彼は蒸発してしまいました。ひどい話だと思うけれど、でもそんな無責任な状況を作ってしまった責任は私にもある。恨まれても仕方ないと思います。ごめんなさい。
それで私は親に相談しました。おじいちゃんは出産すべきじゃないって言ったのだけれど、お母さん、つまりあなたのおばあちゃんが許さなかった。絶対に産まなきゃいけない。お腹の中の子供にあなたは責任があるはずだからって言われた。でもあの頃は、どうすればいいのかわからなかったわ。
全てが変わったのはあなたが生まれた時からです。あなたはなかなか出てきてくれなくて、お母さんは分娩室で何時間も踏ん張り続けました。夜通しね。それで、もうヘトヘトになった頃に、それまでが嘘だったかのようにあなたはポーンと出てきたわ。思わず笑っちゃった。
そうして、助産師さんがあなたを産湯に入れてくださって、私にあなたの顔を見せてくれたわ。しわくちゃで、真っ赤でお猿さんみたいで、でも何よりも可愛かった。どんな綺麗な景色よりも輝いて見えた。とても愛おしかったわ。それでわかった。私はこの子を守るために生まれてきたんだって。それまでは自分の人生の目的なんて何もわからなかった。でもその時私の人生に意味ができた。あなたの為に生きようって思えた。だから、生まれてきてくれてありがとう。優、私の一番の宝物はあなたです。
それからは凄く大変だった。自業自得と言えばその通りなのだけれど。優が生まれるまではアルバイトしかやっていなかったんだけれど、それではとてもじゃないけどまかないきれないから事務のお仕事を始めました。学のない私を拾ってくださった会社には感謝しています。あまり重たく捉えないで欲しいのだけれど、子供を育てるのってとても時間とお金がかかるのよ。いつか優に子供ができた時のために覚えておいてね。それでも私にできることはお金を稼ぐことだけで、優、あなたと一緒にいる時間はあまり作ってあげられなかった。おばあちゃんが居なかったらどうなっていたかわからないわ。それでもあなたはすくすく育ってくれました。
あなたが赤ちゃんだった頃の写真は幾度か見せたけれど、もしまた見たくなったら書類棚の一番下の段に入っているわ。つかまり立ちした時の写真なんてとても可愛いのよ。そう言えば、あなた凄かったのよ。私の帰りを待っていてくれて、そして初めてつかまり立ちした日に2歩も歩いたの。この子はアスリートになるのかもしれないなんて馬鹿なことも思ったわ。懐かしい。
横道に逸れちゃってごめんなさいね。でも、もう一つだけお話しさせてください。あなたが初めて喋った日のこと。「まま!」って言ったのよ。違うかも。でも私はそう思ったわ。嬉しかった。キラキラした目で私の顔を見て、ママって呼んでくれた。今でもあの時のことは昨日のことのように思い出せます。
それで、あなたは見る見るうちに大きくなったわ。歩けるようになって、走れるようになって。すべり台も一人で滑れるようになって。いつの間にかいっぱいお話するようになりました。そうしてすぐに小学校に入って、毎日私が帰るとその日起きたことを楽しそうに話してくれたわ。最初はとっても大きかったランドセルもいつの間にかとても小さくなってしまった。時々、お散歩に行ったことを覚えているかしら。近くの河原まで行って、一緒に四葉のクローバーを探したりレンゲソウを編んだりしましたね。あなたはどれも夢中になって、私はその横顔を見ていてとても幸せでした。走り回った日は晩御飯を食べるとすぐに泥のように眠ってしまって。ぷっくらしたほっぺの寝顔がとても可愛かったわ。
それからまた何年かしてあなたは中学生になり、周りの子達と同じように反抗期に入りました。あの頃は毎日大戦争でしたね。あなたはとてもとげとげしていて、私やおじいちゃんといっぱい喧嘩をしたわね。とても大変だったけれど、でも同じくらいとても嬉しかったのよ。反抗期を迎えることができるということは、あなたが大人になっているということだから。ほっとしたわ。
あの頃は毎日勉強や部活でとても忙しかったと思います。相談に乗ってあげられなくてごめんね。将来のこととか恋愛のこと、優と一緒に悩みたかった。でもいつも私は仕事ばかりで、会話はほとんど喧嘩の時だけだったわ。ある時、おばあちゃんから優が落ち込んでるって聞いた。あの時は何があったのかしら。恋のこと?それともお友達のこと?結局聞けずじまいになってしまいましたね。それで私はあなたの部屋の前に立ってドアを叩こうとしたのだけれど、部屋の中からあなたが泣く声が聞こえてきて。それで、私にはそれをする権利がないと思った。だってこんな母親だもの。そういう時にだけ出てきても信頼してもらえないだろうなって思いました。でもね、あなたを守ってあげたいといつも思っていた。あなたの苦しみを全部取り払ってあげられたらっていつも思っていました。
中学を卒業したあなたは地元の高校に入りました。本当は私立の学校に入りたかったってあなたが大人になってから聞いた時はとてもびっくりしたわ。寝耳に水だった。でも、申し訳なく思った。実はあなたが生まれてすぐにあなたの名義で口座を作って、進学のために貯金をしていたんです。あなたは大学も自分の力で頑張って行ったから使わなかったわね。その口座通帳はこの日記を入れている段の一つ下に入っているので、今後の人生の為に使ってください。
この頃にあの可愛らしい大怪獣は息を潜めて、あなたは家の中でも笑顔でいる時間が増えましたね。毎朝私よりも早い時間に家を出る時、いつも大きな声でいってきますと言ってくれたわ。私は仕事の準備をしながらそれを聞くのがとても楽しみだった。今日も一日頑張ろうって元気をもらえたわ。いつも私を動かすエネルギーはあなただった。私はあなたに支えられて生きてこられたのよ。本当にありがとう。
17歳になる頃、あなたはこれまでになく真面目な顔で「相談したいことがある」と私に言いましたね。最初はどんなことを話されるんだろうってドキドキしていたわ。そしてあなたは私に夢を話してくれました。やりたいことがあって、それにチャレンジしようとできることって素敵だと思ったわ。私はそれを精一杯応援したいと思いました。やっとあなたのために力になれると思ったら、お母さん、俄然力が湧いてきた。応援するよって答えたら、あなたはなぜかモジモジしだして。参考書が欲しいからお金をくださいなんて、そんなのもちろんに決まってるじゃない。あなたは申し訳なさそうにしていたけれど、私はあなたが頼ってくれてとても嬉しかった。
それからあなたは毎日猛勉強していましたね。私が帰ってきて、お風呂に入って寝室に向かう時にも部屋の電気がついていて、体を壊さないか心配だったわ。でもあなたはやり遂げた。あなたが震える声で電話をかけてきて、私もあなたと同じくらい嬉しかった。お祝いにみんなでお寿司を食べに行ったわ。その帰り道、あなたは私にありがとうって言ってくれた。しつこいかもしれないけれど、ありがとうって言いたいのは私の方でした。嬉しくてちょっと泣いちゃったのは秘密。
大学があるところは少し遠かったから、あなたは進学と同時に一人暮らしを始めましたね。寂しかったしあなたが一人でやっていけるかとても心配だったけれど、それと同時に嬉しかったし優なら大丈夫って思いました。離れてからも時々帰ってきてくれて、それがいつも待ち遠しかった。そしてあなたはいつの間にか立派な大人になっていましたね。
覚えていると思うけれど、あなたが4年生の夏休みでこちらに帰ってきている時に私の病気が見つかりました。余命1年って言われた時は悪い夢を見ている気分だったわ。欲を言えば孫の顔が見たかったっていうのもあるからね。冗談。それであなたに相談したら、就職先がこっちになったから実家に戻るって言ってくれた。正直、重荷になるのは嫌だったから断ろうかとも思った。でも最後に一つだけ、わがままをしようかなって甘えちゃった。ごめんなさい。でももうあれから1年半。いろんなところに一緒にいきましたね。もうすぐタイムリミットだとは思うけれど、時間をくれた神様には本当に感謝してる。来月から入院になっちゃったから、それでこれを書き残そうと思い立ちました。
優。私にとってあなたは何よりも大切な宝物だった。あなたが私の力だった。あなたが私を支えてくれた。最後になっちゃったけれど、こんなお母さんのことを好きでいてくれてありがとう。しばらく会えないけれど、あちらからあなたのことを見守っています。だから、何も心配しないで。きっと大丈夫。あなたならなんでもできる。がんばってね。誰よりも愛してるわ。」