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死にたがりとカルガモのパレード

作者: 秋澤 えで

 死にたい。

 言葉にするとチープなことはわかりきっているから口にはできない。

 死にたい。

数少ない友人に向けたラインにそう打ち込んで、すべて消した。大事な友人に、嫌な思いはさせたくない。

 なけなしの弱音として「仕事辞めたい」と打ち込んで送った。


 「無理しないで」「しんどいなら休職しよう」


 そんな言葉が返っていることはわかりきっていたからスマホの電源を落とした。私だって友達にいきなりそんなことを言われたらこれくらいしか言葉がない。無理をさせすぎず、逃げ道を作ってあげたい。それは完全な善意で、相手を心配しているだけ。でもアドバイスをする友人は、そこから先の保証はしてくれない。


 人は結局、どこまで行っても一人だ。

 どれだけ人を頼れても、どれだけ人が助けようとしてくれても。

 最後は自分の足で立つしかないのだ。

 職場の電気を消すと、もうフロアのどこにも人がおらず、ピクトグラムだけが緑に光っているだけだった。


 ため息は飲み込んでおく。吐き出したら泣いてしまいそうになるから。出入り口には守衛さんもいる。泣き顔なんて見せられない。きちんとした、大人として。


 金曜日だというのにまるで気分が晴れなかった。道行く人たちはどこか楽し気で、足取りが軽い。まるで沼に両足を突っ込んだまま這うように歩く私とは大違いだ。

 飲んで忘れたいという気持ちと、一刻も早く帰ってベッドに潜りたいという気持ちと、もうどこにも行きたくないという気持ちが入り乱れる。

 どれか一つが正しいわけでもどれか一つが間違っているわけでもない。


 ただ私は、楽になりたかった。


 気が付いたら川の前に立っていた。街灯少なく、人通りもまばら。ゆっくりと流れる川は昼間と違い真っ黒に見える。

 確か、そう深くもない川だ。でもどうしてか、今はどこまで行っても底にたどり着かなさそうな奈落に見えた。

 春の初め、冷たい川。どこまでも沈んでいける。もうこの橋の上に戻ってこないですみそうな。

 一瞬、欄干から身を乗り出して、深呼吸した。水と草と土のにおい。川に映っていた月が揺らめいた。


 鯉だ。


 大きな鯉の背びれを見たとたん、憧れにも似た羨望はしゅるしゅるとしぼんでいった。

 あの川は三途の川でなければ深い夜に沈んでいける場所ででもない。深さ50㎝程度の浅い川だ。太った鯉が泳ぎ、鴨が泳ぎ、鷺が立つ、なんの変哲もない川なのだ。そこに溶け込んだ宇宙などない。

 欄干から離れてふらふらと歩き出す。


 死にたい。


 けれどあの浅い川で溺死できるとは思えない。せいぜいずぶぬれ、泥だらけ、擦り傷打撲に見舞われて帰路に着くのが目に見えている。

 家に帰る気になれない。だがコンビニに寄りたい気分でもないし、日用品の買い出しをしようにもすでに店は開いていない。

 公園のベンチにでも座ってぼうっとしようかと思うが、なけなしの理性が防犯的にやめておけと諭す。

 履きつぶしたパンプスが窮屈だ。

 靴は脱ぎたい。だが家には帰りたくない。


 そう思いながらふらふらしていると一軒のカフェが目についた。

 大きな公園の裏手側。少し見えづらいそこに小さなカフェがあった。白い壁に暖色の明かりがよく映える。深夜近くだが営業しているようで、扉の前には「welcome」と書かれた立て看板が立っている。

 夜カフェというやつだろうか。

 あまりおなかはすいていなかったが、何か暖かいものを飲みたくなってきた。

 初めて見るお店で当たりはずれあるだろうか、一杯飲み物を頼むだけなら失敗してもそう痛くない。そう思いながら金属のノブに手をかけた。

 


 「いらっしゃーい。お嬢さん一人? 好きなとこに座っていいわよ」



 ニコニコとしながらカウンターの向こうで声をかける女性に、失敗したかもしれないと思った。

 私は客と距離の近い店員が好きではない。私は飲み物を飲みたいだけで暖かな関わりといったものを飲食店に求めていない。



 「ありがとうございますー」



 結局、人に声をかけられると愛想よくしければならないという強迫観念に駆られる私が悪いのだ。

 木製の表紙のメニューはかわいらしい。中はほとんど写真はなく、店主と思しき女性の手書きの文字が並んでいた。一目で手書きと分かるが、読みやすい字。ほう、と文字を指でなぞった。



 「お嬢さんだいぶ疲れてるのね。明日はお仕事休み? そう、一週間お仕事お疲れ様」



 息つく間もなくしゃべり続ける店主に辟易としながらもそれをおくびにも出さずへらへらと返事をする。



 「スタミナつくものとかどう?」

 「ああ、いえ、あまりおなかがすいていないので、何か温かい飲みものを」

 「そう! じゃあホットミルクやココアがおすすめだけど」

 「じゃあホットミルクで」



 ホットミルクを作りに奥へと引っ込んだ店主にため息をつく。やはり外れだ。疲れる。飲んだらすぐに帰ろう。

 手持無沙汰で店内を見渡す。内装は落ち着いていて、橙色のランプが暖かに照らす。カウンターやテーブルは木の材質を生かし欧州の片田舎を思わせる。家具のセンス、店内のレイアウトは頗るいい。きっとここでゆっくりお酒を飲んだり、昼間本でも持ち込んでお茶をすればさぞ素敵な時間を過ごせるだろう。

 客は私以外に誰もいないように見えたが、カウンターの端にまるで置物のような男がいるのに初めて気が付いた。店内なのにチューリップハットをかぶったまま。椅子に乗せられたトランクは使い古され擦り切れている。キャラメル色のロングコートは無造作の椅子の背に引っ掛けられているが、高さが足りず床へ着いてしまっている。



 「はいおまちどうさま! ホットミルクよ!」



 店主が運んできたのは両手でようやく持てるほど多きなマグカップだった。なみなみと注がれたホットミルクは甘い湯気を立てている。手のひらからじんわりと熱が伝わってきて息をついた。肩に入っていた力が徐々に抜けていく。



 「疲れてるときは甘くて暖かいものが一番よ! 牛乳に砂糖、ラムを入れてるの。温まるわよ」



 返事もせず私は口を付けた。

 喉から身体の中に落ちていく温かなミルク。鼻に抜ける甘い香りと微かなラムに思わず目を閉じた。

 はずれ、だなんて思ったが、撤回する。このお店は、とてもいい。

 ゆっくり、ゆっくり、大事に飲んだ。

 どうせ明日は休みなのだから、急いで帰らずとも構わない。



 「……あら、あらあらあらあら? あなた大丈夫?」

 「何が、ですか?」

 「うーん。涙出てるわよ。何があったか知らないけど、泣くほど辛いことがあったのね」

 「え?」



 いつの間にかカウンターから出てきていた店主に言われて顔を触る。頬には涙が伝い、両目からはとめどなく涙が溢れていた。困ったような顔をした彼女はおしぼり持って来るわね、といって奥へと引っ込んだ。

 いい大人なのに、泣いたところで何も解決しないのに、なのにどうしてか涙が止まらなかった。

 きっとホットミルクの所為だ。寄り添いたくなるほど温かくて、包まれたいほど甘やかで、数滴のラムが私には強すぎるから。

 喉の奥が熱いのも、鼻の奥が痛いのも、呼吸が嗚咽に震えるのも。

 どれもこれもこのホットミルクのせいだ。


 あらあらまあまあと言いながら顔におしぼりを押し付けられる。渡してくれれば自分で拭くというのに、まるで幼子を扱うようだ。ただでさえよれていたメイクが剥がれ、おしぼりをベージュに染めていた。



 「んぶ……」

 「もー今時の若い子って大変なのねぇ。泣くまで働かなきゃいけないなんて! それもこんな夜遅くまで!ジェンダーレスの時代なんて言うけど、限度があるわ!」

 「ち、ちがくて……」



 顔をこれでもかと近づけてぷりぷりと怒る店主に呆れる。なんなんだこの人は。初対面なのに距離が近いうえに客に対して馴れ馴れしい。いきなり顔を触ってくるし人の話は聞かないし、他人のために怒るなんて。

 脳内で状況を言語化するとさらに涙があふれてきた。



 「違うんです。わ、私が仕事できないから……」



 そうだ。もっと早く仕事ができれば、てきぱきと動くことができればきっと定時に上がれるだろう。人に迷惑をかけることなく、今みたいに萎れることなく凛と胸を張って帰路に着くことさえできるだろう。

 すべては私が無能なせいだ。



 「全部、私のせいだから……」

 「あらあらあらぁ、駄目よそんなに雇用主を甘やかしちゃ! 雇ったのはそっちなんだから使えるようにするのも会社の仕事よお」

 「でもほかの人はもっと仕事早いし、」

 「あらぁ優秀な同僚がいるのねぇ。でもその人がいるから大丈夫よ! 多少失敗しても何とかしてくれるわ」

 「でもその人の仕事を増やしちゃうし、自分の仕事は失敗ばっかりだし、聞いてばっかりだしもう……辞めたい」



 涙と一緒に情けない弱音が口から零れ落ちていく。

 家族にも友達にも同期にも言えない。情けない。迷惑かけたくない、心配させたくない。友人達にまで無能であることを知られたくない。

 誰にも言えなかったことが、この名前すら知らない人になら言えてしまう。



 「うう……」



 知らない人だから言いやすい、なんて嘘だと思ってた。けれど全く知らない赤の他人だからこそ、自分を立派に見せようだとか、ちゃんとした大人と見られたいだとかいう思いが全くわかなかった。どうでもいいからこそ、何も考えずに済んでしまう。



 「もう、死にたい」



 口から最後に転がり出たのは、ここまで誰にも言えなかった言葉だった。ハッとして顔を上げる。どうしてか涙はやんで、胸のつかえがとれたようにすっきりしていた。

 そうだ。私は仕事を辞めたいんじゃない。



 「私、死にたいんだ」



 生きている限り逃れられない。責任からも義務からも、選択からも逃げられない。

 死んではいけない。生きねばならない。

 生きるためには衣食住が必要。衣食住のためにはお金が必要。お金のためには就労が必要。

 生きろと人は言うけれど、のんべんだらりと呼吸しているだけではいけないのだ。

 言語化できなかった思い、いや言語化してはいけなかったと思い込んでいたそれが言葉になると、途端に現実味を帯びてきた。


 ようやく逃げ道があったのだと、道が開けた。

 死ねば、仕事に行かなくて済む。



 「ちょっとなに納得してるの!? 駄目よ死んだら! もっとたくさん楽しいことだってあるんだから」

 「もっとたくさん苦しいこともあるでしょう」

 「あるかもしれないけど知らないままに答えを出すのはあまりにもったいないでしょう」

 「そうかもしれないけど、私はいつかある未来の幸福よりも、今の辛さから逃げたい」



 もう耐えられる気がしない。

 毎日毎日、朝が来ることに絶望する。職場への道をまるで機械のようにただ歩く。降りかかる仕事を必死に片付け、理不尽な罵倒に身を縮こまらせ、太陽の光を浴びることなく帰路に着く。

 なぜ生きているのか、なんのために生きているのか。もし問われたなら私は何も思い浮かばない。



 「ご両親だってお友達だって悲しむわ」

 「うん、親不孝者だ、私。友達たちも、可哀そう」

 「…………え、それだけ?」

 「薄情者でも、私はとにかく消えてなくなりたい」



 思考は晴れた。とにかく逃げたい、逃げ出したい。誰の手も、声も、心も届かないような場所へ。



 「毎日毎日働いて、死にたいって、消えたいって思いながら毎日生きることに、意味を感じられないの」

 「お嬢ちゃん……」

 「心が死にたいって叫ぶのを、理性が毎回なだめにかかる。心と理性のチキンレースみたい」



 そしてついさっき、理性が負けたのだ。もはや死にたがりに付き合いきれないと。死ぬならば死ねと手放した。

 暖かく甘いホットミルクは、固く冷静な理性を溶かしたのだ。



 「チキン、チキンって言ったか? 多聞たもん、ローストチキンはおいてないのかい?」



 突然割り込んできた男の声に肩を震わせる。先ほどまで置物のようにカウンターに座っていた男が、こちらを向いてにやにやと笑っていた。

 はっとして目を逸らす。

 ああいう人種はいけない。ろくでもない。わざと空気を読まず、常時ニヤニヤ笑いを浮かべ、人を小馬鹿にする人種だ。そしてああいうのに絡まれて、良い気分になったことは生まれてこの方一度もない。



 「馬鹿この蛇刈じゃかりっ何聞いてたのあんた! それとメニュー表にないものはないよ!」

 「そこにないならないですね?」 



 へらへらとした男はくたびれたブーツで私たちのいるテーブルの前までやってきた。長すぎる赤いストールがまるでしっぽのように踊る。



 「死にたい本能と生きるべき理性のチキンレース。うん、面白いこと言うねえ」

 「……どうも」

 「でもやっぱり、理性が負け切ってはない気がするねえ」

 「はあ?」

 「君、無駄が嫌いだろう? なら死ぬと決めていればこんなところで多聞の話を聞いてないで、さっさと帰って自殺しそうじゃないか」

 「何を根拠に、」

 「野生の勘?」



 行儀が悪くも舌打ちが口から飛び出した。一瞬でもまともに会話をしたことが惜しまれる。だが蛇刈と呼ばれた男の言うこともあながち間違いではない。するできことが決まったのなら、今すぐここを立ち去り方法、手順、場所、日時を決めるべきだ。遺品の整理も含めて。

 伝票を掴み立ち上がろうとした私の手首を多聞と呼ばれた女店主が抑え込む。



 「ダメダメダメ! 死ぬってわかってるお客さんそのまま帰せないでしょうが!」

 「あなたには迷惑かけません」

 「私の心の問題よ! 生きたくても必ずいつか死ぬんだからその時まで待っていればいいでしょう」

 「それまで待ってられない」

 「そぉんな死にたがりのあなたにぃ!」



 不必要に大きな声で呼びかけると、蛇刈は古びたトランクを机の上に勢いよく置いた。音を立ててマグカップが跳ねる。



 「ちょっと蛇刈!」

 「死んでしまいたい死んでしまいたい、そんな風に思い続けるそこのあなた! 日々消えてしまいたい欲求に耐えられないあなた! 自分が生きていることを許せないそんなあなたに! 死にたがりのあなたにカモを込めてお贈りいたします!」

 「カモ……?」



 がばっと開けられたトランクにはガラクタに見える有象無象がこれでもかと詰まっている。そしてその中に手を突っ込むと一つの瓶を取り出した。



 「ええ、こちら「カルガモのパレード」という商品です!」

 「カルガモのパレード……?」



 気の抜ける名前に目を白黒とさせると、その反応がお気に召したらしく、うんうんと満足げに蛇刈は頷いた。

 キャラメル色のガラス瓶には何か液体が入っているようで、胡散臭い蛇刈の手のなかでゆったりと揺れる。



 「……薬物」

 「まっさかぁ! 危ないオクスリじゃあない。ちょぉっと幻覚が見えるだけ!」

 「多聞さん! 多聞さん!」



 シンプルにやばい奴だった。

 初対面の客に対して幻覚の見える非合法と思しき水薬を勧めてくる男。完全に警察案件だ。



 「うーん、でもまあカルガモのパレードなら……」

 「いいの!?」



 まあそれなら、とでも言うような唸り声を上げた善良思しき女店主にドン引く。良いのかそれは。



 「いいんだよ。これはさっきも言った通り、薬じゃない。香水だ」

 「……幻覚の見える香水」



 それは幻覚の見える幸せな煙のお友達の類ではなかろうか。



 「そうさ。でもこれはただ幸せにしてくれるなんてものじゃない。ただつらい気持ちを変換するだけだ」

 「変換?」

 「そう! カルガモに!」

 「カルガモに!?」



 あれよあれよと言いくるめられ、気が付けば私は帰路に着いていた。


 心配そうな顔をした多聞とにやにやしている蛇刈に見送られ、私は結局生きて家までたどり着いた。

 草臥れたビジネスバッグから昼に買ったペットボトルを取り出す。それから意を決して、小さなキャラメル色の小瓶をテーブルに置いた。



 「カルガモの、パレード」



 違法薬物の通り名のようなそれを少し眺め、考えることを放棄してからシャワーを浴びるため脱衣所へ向かった。






 死にたくて死にたくてしょうがない私は、また月曜日を迎えていた。


 死ぬつもりだった。

 土曜日はホームセンターに縄の物色をしたし、帰り道の薬局で睡眠導入剤を探した。日曜日は私の体重に耐えられそうな木を探したし、午後には死んだあと人に見られたくないものを捨てた。

 でも死ぬ準備が間に合わず、こうして私はいつもの月曜日通り、重い体を引きずりながら通勤路にを歩いていた。


 いつもの違うのは、香水を振りかけてみたこと。

 金曜日、偶然立ち寄ったカフェで蛇刈と呼ばれる男から500円で買った香水、カルガモのパレード。曰く、つらい気持ちをカルガモに変換させる香水だという。要するに幻覚を見えるようにするらしいのだが、今のところ、幻は見えていない。


 香水はこんがりと焼けたトーストのような匂いがした。


 道行くスーツ姿の人々の波に乗り、気が付けば会社が見えていた。晴れ渡る空を遮る灰色のビル。うんざりした。無数の窓の向こうから、私のことを責め立てるような視線を感じた。


 死にたい。


 口には、出さない。

 まともな大人だから。独語を吐く不審者になりたくないから。口にしたってどうにかなるわけじゃないから。

 顔をしかめ、一歩踏みだそうとしたところで、背後に気配を感じた。



 「……っ」



 幻覚だ。


 私の足元に、一匹のカルガモがいた。


 一瞬で幻覚だと判断したのは何もかもがおかしいからだ。カルガモの見た目は小鴨だ。よくニュースで見る、母親の後ろをついて歩く小鴨だ。だが大きい。手のひらサイズなんてかわいいものではない。その頭は私のふくらはぎの中腹あたりにある。サイズ感としては母親サイズだが見た目は小鴨。こんなでかい小鴨がいるものか。そしてこの街の中に突然カルガモがいるものか。こんなものがいたらどんな堅物だってきっと二度見するだろうに、私の足もとを見ているのは私一人だけだった。

 硬直する私に、カルガモが首をかしげた。


 まとも説明もされずに仕事を振られた。

 死にたい。


 なぜか私以外のグループ全員が外出し、取り残された。しかもどこに何しに行っているのか教えてもらえない。

 死にたい。


 会議資料を人数分刷り終わってから次第のミスに気が付いた。

 死にたい。


 初耳なのに「前にも言ったけど」と言われた。

 死にたい。


 1時間言いがかりをつけてくる客の電話の捕まった。

 死にたい。


 いつもなら定時を過ぎてからが本番だが、私は定時を告げる音楽とともにパソコンをシャットダウンした。



 「湖東さん、今日は何時まで残れる?」

 「すみません、体調が悪いので、今日はお先に失礼します」



 あっけにとられたような係長をデスクに残し、私は足早にフロアを後にした。

 向かう先は一つだけだ。



 「ちょっと!」

 「いらっしゃ、……あらあらあらあら! よかった! お嬢さん生きてたのね! よかったわあ」



 よかったよかったと背中を撫でられそのままテーブルへ座らせられる。その流れでホットミルクを注文してしまったが、もう私はそれどころではない。



 「蛇刈さんは!?」

 「蛇刈? 今日はまだ来てないわねえ。おやつ時からうちで管巻いてることも多いんだけど」



 センスのいいかわいらしい店内に、胡散臭さを濃縮抽出したような男の姿はない。煮えたぎる苛立ちに似た気持ちを抑えきれず顔をしかめた。

 けれどホットミルクを多聞が持ってくるころ、蛇刈が店の扉を開けたのだ。



 「おっ、やあやあやあやあお嬢ちゃん! 生きてたのかい。これは重畳!」

 「何が重畳ですか! 何ですかこれ!?」

 「それ? 君も知っての通り、カルガモのパレードさ!」

 「そうじゃなくて! なんでこんなにカルガモがいるの! しかも大きい! 邪魔!」



 私の足元には、これでもかというほどのカルガモたちがひしめき合っていた。総勢20羽。1羽だけならぬいぐるみのようで愛らしいし、小さいなら愛でる余裕もあるだろう。だが総勢20羽、各30cmはさすがに厳しい。この小さなカフェの床を覆い尽くさんばかりの勢いだ。



 「そんなことを言われても? なんてったって、そのカルガモは君の幻覚だ。君にしか見えていないし、もちろん、僕らにも見えていない。そうだろう? どれだけいるか知らないけど、」

 「20羽!」

 「……20羽もカルガモを連れた成人女性が街を歩いてたら注目の的だろう? こんなにいる、と言われたところであいにく状況の共有は不可能さ」



 蛇刈を足元から見上げる5羽のカルガモたちを見ようともしない。本当に見えていないらしい。

 一部のカルガモは暇を持て余しているようでテーブルや椅子に上り店内を散策している。ふわふわとした毛は、テーブルの上の砂糖壺を倒しそうだが、決してそんなことにはならない。そこにカルガモはいないからだ。



 「でももうこの時間にここへ来られたってことは、早くお仕事終えられたのねぇ」

 「20羽もカルガモがデスク周辺を闊歩してたら仕事にならないわ」



 げっそりしながら午後の業務を思い出す。

 午前中の時点で私のデスクの下には7羽のカルガモがいた。ビルに入るまでに2羽、更衣室で1羽、朝礼で1羽、業務中に3羽現れたのだ。そして午後からも増え続け、客からの電話を瀕死で切ったころには、私のデスク周りはカルガモで溢れかえっていた。



 「……カルガモのパレード、辛い気持ちをカルガモに変換するって言ってたよね」

 「ああそうさ」

 「具体的に辛い気持ちって何?」

 「あはは、死にたがりのあなたにカモを込めて」



 金曜夜に聞いたフレーズを蛇刈は繰り返す。



 「君が1度死にたいと思うと、カルガモが一匹君ところへ現れる」

 「…………」

 「君は日に20回も死にたいと思ってるんだねえ」



 死にたい。

 カルガモがまた一匹、誰にも知られることなく増えた。



 「君に渡したカルガモのパレードはトライアル用。平日分の5日間だけ。ひとまず5日間カルガモたちと付き合うと良い。気に入ったらまた僕から買えばいいし、気に入らなかったらやめればいい」



 年齢のわからない男はへらりと目じりに皺を作って笑う。



 「君の死にたい気持ちはカルガモに代わる。言葉にできないそれも、言葉にしたくないそれも、彼らは忖度することなくただ現れる。君の辛い思い……希死念慮はふわふわのカルガモが代弁するよ。君自身より、ずっと素直に」



 半ば呆然としながら店を出ると、空はまた微かに夕陽を残していた。平日に夕陽を見るのは何か月ぶりだろう。

 明るいところで見るこのカフェは、住宅街とよく馴染んでいてまったく目立たなかった。


 「カフェまつぼっくり」と書かれた看板を眺める。なんとなく、まつぼっくりという響きとふくよかな多聞の姿はよく似合っているな、と思った。


 私は21羽のカルガモを引き連れ、自宅へと足を向けた。

 何も解決はしていない。私は相変わらず死にたいままだ。けれどぞろぞろと私の後ろで列をなすカルガモがいると、えも言われない寂しさには襲われなかった。

 今日の私の死にたさは、私を孤独にしなかった。


 水曜日、私は再びまつぼっくりを訪れていた。



 「あらあらまあまあ! 今日も来てくれたの!」

 「……蛇刈さんは」

 「今日はたぶん来ないわよお。水曜日は来ないのよ、あの人」



 帰ろうかとも思ったが、どこか嬉しそうな多聞の顔を見ると帰る気にもなれず前回も座ったテーブルに着いた。



 「何にする? ホットミルク?」

 「ホットミルクで」

 「はあい。あ、それからベリーとホワイトチョコのマフィンはどう? 夕方焼きあがったばかりでまだ温かいわよぉ」

 「……じゃあそれも」



 相変わらず圧の強い多聞に押し負け合わせて注文する。厨房へと向かう多聞を見送りながらも肘をつく。当初のような不快感はなかった。私の慣れなのか、それとも私の足元にわんさかといる50羽を超えるカルガモのせいなのか。



 「カルガモたちはどう?」

 「……50羽超えた」



 カルガモのパレードを使い始めて3日。

 気づいたことが二つある。

 一つは一度現れたカルガモは消えない。てっきり1日経ったらリセットされると思ったのだが、火曜日、朝目を覚ました私は部屋を縦横無尽に歩き回るカルガモたちに迎えられた。


 二つ目はカルガモのパレードの効能は幻視だけではない。


 クワクワガアガアクワガアガアクエクエアーアークワクワクワクワガアガアクワガアア


 奴らは鳴く。遠慮ない声量で鳴く。今朝のモーニングコールはえげつないものだった。カルガモの大合唱に運動会。いったい誰がモーニングコールを大量のカモから受けることになることを想像しただろうか。どこのムツゴロウさんだ。


 ちなみに私が仕事の電話をしているときは静かになる。どうも多少空気は読んでいるらしい。

 運ばれてきたホットミルクに一息つく。3度目ともなると随分と飲みなれた。とろりと甘いホットミルクに癒される。温めた牛乳にラム、砂糖をを入れたシンプルな飲み物だ。家でも作れないものかと思案する。

 ふと足元でカモが鳴いた。

 一瞬手を止めてから、口をつけた。ほとんど無意識に、自分が幸せな日常を送るための要素を増やそうとしていた。


 店中を歩き回るカルガモたちは、自分が死にたくて死にたくて、生み出されたものだというのに、今の私は楽しく生きようとしていた。

 その自らの手のひら返しが滑稽で、辛かった自分への裏切りのように思えて閉口した。



 「それ、おいしいでしょう?」

 「……ええ、とても」



 遅れて机の上に置かれたマフィンを見下ろす。華奢なフォークを取ることもできず、ただ眺めた。まだ温かいマフィンは微かに湯気を上げ、白い皿を曇らせていた。



 「冷めちゃうから早いうちに食べちゃって!」



 きっとこれも美味しいのだろう。

 けれど死にたいと思いながら、死にたいと願いながら生を謳歌するようにおいしいものを食べることに罪悪感が湧いていた。



 「……食べても、良いんでしょうか」

 「えっ頼んだのに食べちゃいけない可能性があるの!?」



 正論だ。頼んだからには食べなくてはならない。罪悪感なんていうのは私の事情だ。店側からすれば知ったことではないだろう。

 のろのろと銀色のスプーンをつまみ、マフィンのてっぺんに突き刺した。ほろりと崩れた生地を掬って口へと運ぶ。こんがりと焼きあがった表面の食感が楽しい。口の中でとろりと溶けるホワイトチョコ、あつあつのラズベリーも、私の思いに反しておいしかった。



 「おいしいでしょ? ホワイトチョコが駄目っていうお客さんも結構いるけど、ラズベリーとかイチゴと合わせれば甘さと酸っぱさが中和されるし、ホットミルクや紅茶ともよく合うのよー」

 「おいしい……」



 おいしい。食事になんて気にすることもできていなかったのに、今はこのマフィンがとてもおいしいと感じる。

 定時で職場を出て、カフェで甘いホットミルクと焼きたてのマフィンを食べている。今私は、楽しく生きてしまっている。


 仕事ができなくて、失敗をして、人に迷惑をかけて、何時間でも残っているのが私なのに、今私はこのカフェで甘いものを食べながら生きることを謳歌してしまっている。

 ホットミルクをおいしいと思うことも、マフィンがおいしいと思うことは、嘘ではない。

 けれど私の死にたいという気持ちは、カルガモたちが現れたこの気持ちは決して嘘ではない。

 幸せに生きたいという気持ちも、ただ逃げ出すように死んでしまいたいという気持ちも、両方とも嘘ではない。両方とも今の私なのだ。



 「…………あらあらあら! まあた泣いちゃって。今度は何が辛かったの?」

 「……本当に、死にたい……」

 「まあまあまあ。じゃあこのマフィンはもう食べられないのねえ」

 「食べるぅ……」



 滲んだ視界でマフィンにフォークを突き刺した。口に入れるたび柔らかい甘酸っぱさが口の中に広がる。おいしいけど、死にたい。死にたいけどおいしい。

 泣きながら食べ続ける私の奇行を、多聞はただ黙って見ていた。


 マフィンを食べきって、ホットミルクを飲みほしたころ、ようやく涙が止まった。当然のように差し出される保冷剤を目元にあてた。



 「あなたは、生きていていいのよ」

 「どうして……」

 「この世に生まれてきたすべてのもの、生きる権利を持っているの。しばしばその権利は他者から侵されることはあるけれど、それでも、あなたが生きていていいのは確かなの。たとえあなたが人に迷惑をかけたと思ったとしても、誰かに煙たがれることがあったとしても、あなたはただ生きていていいの」

 「でも、生きていいとしても、私はもう生きていたくない。死んでしまいたい」

 「どうして?」



 多聞は穏やかな笑みを湛えたまま静かに聞いた。



 「どうして生きていたくないと思うの?」

 「……人に、迷惑をかけちゃうから」

 「人に迷惑をかけるとどうして死にたいと思うの?」

 「どうして、」



 どうして、と言われれば答えはある。人に迷惑をかけると、人を不快にさせる。無駄な時間を取らせる。そうして罪悪感にさいなまれ、死にたくなるのだ。けれど多聞が求めている答えはそれではない気がした。



 「今日はそれを持ち帰りなさい」

 「え、」



 まるで私を追い出しにかかるようにテーブルのカップと皿を片付け始める多聞に目を白黒させる。確かに、食べ終わった客に出て行ってもらうのは店の回転率的には当然のことだ。けれど今このカフェまつぼっくりにいる客は私のみ。蛇刈さえ今日はいない。であれば多少長居してもよさそうなものだが、それ許されないらしかった。



 「次来る時までに、どうして死にたいと思っちゃうのか、考えてみて」

 「な、なんで、」

 「きっとあなたにはたくさんの辛いことがあると思うの。それは私たちにわかるようなことから、あなたにしかわからないようなことまで」

 「…………、」

 「あなたは今、終着点しか見てないと思うの。死ねば、何もかも解決すると思ってる。でもね、死んだらなにもかも終わるだけ。問題の解決はしなくていいかもしれないけど、その先に何があるか、何もわかってないでしょう?」



 食器を片付けると多聞は小さな紙袋を私に差し出した。



 「これ、」

 「マフィンの試作よ。ブルーベリーとクリームチーズ。よかったらおうちで食べてみて。それで感想を聞かせてくれるかしら」



 差し出された紙袋を前に、受け取ることもできず逡巡した。

 これを受け取ったら、私は感想を伝えるためにまたこのカフェに来ないといけなくなる。だがここへ来たら私は「どうして死にたいのか」という答えも用意せざるを得なくなる。



 「全部、私のおせっかいよ。あなたにとって私はただのカフェの店員。私の言うことに腹を立てて、二度と来ないっていう選択肢ももちろんあるわ。あなたは自分の行動を選んでいいの」

 「でも、」

 「でもおせっかいなおばさんからのお願い。死ぬ前に、死にたいと思うことを考えてみて。どうして死にたいのか、どうして生きていけないのか、どうしてそんなにカルガモに囲まれることになったのか」



 見計らったようにカルガモたちは私を見上げる。つぶらな黒い瞳たちが、私にどうしてと問いかけていた。


 一人の帰り道、低いパンプスがアスファルトを叩く。

 どうして、という答えを出したくないのは、出す過程が決して楽ではないことを予期していたからだ。


 多聞の言う通り、死は終着点で、目指すべき結果だ。でもそこに至るまでは数多の選択が、道があるはずだった。

 失敗したとき、人に迷惑をかけた時、理不尽な要求をされたとき、人の八つ当たりに巻き込まれたとき。

 それぞれにはそれぞれの道がある。趣味に没頭して忘れるのもいい、勉強して見返すのも、とにかく必死に耐え忍ぶの良い。


 でも私は力尽きてしまった。

 人に迷惑をかけると死にたくなるのはどうしてだろう。失敗すると死にたくなるのはどうしてだろう。理不尽なことを言われると死にたくなるのはどうしてだろう。


 私の後ろを、カルガモが列をなして続く。ガアガアクワクワ言いながら、カルガモたちは行進する。

 そうだ、これこそがカルガモのパレードなのだ。

 一人の夜も一人じゃない。


 死にたい夜もの孤独じゃない。死にたい気持ちと夜道を歩くのが、こんなにも穏やかなのは、私の死にたい気持ちはふわふわでかわいらしいからだろう。

 死にたい気持ちを捨てられないまま、うすらと浮かんだ月に見守られ、カルガモを引き連れて帰路に着く。手に持った紙袋は、微かに温かかった。




 「湖東さん」

 「は、い」



 午前を乗り越え、あと数時間で定時、というころ上司に呼びかけられ小走りでデスクに向かう。今度は何を言われるのかと思うと身体が強張り、うまく声が出なくなる。

 死んでしまいたい。また1羽カルガモが転がり出た。



 「今日の午前の資料なんだけど、」

 「何か間違っていましたか……!」

 「あはは、違うよ。よくできる。わかりやすくてよかったよ、ありがとう」



 それだけ、と言うと上司はもうパソコンに向かっていて私の方など見ていなかった。半ば呆然としながら自分のデスクに座り週明け締め切りのエクセルファイルを立ち上げた。

 椅子の隣に立つカルガモは所在なさげに私を見上げて、一声「があ」とだけ鳴いた。



 釈然としなかった。

 けれど理由はわかっていた。

 私という人間はとても単純で、落ちやすいが浮きやすい。絶望もしやすいが快楽にも走りやすい。結局、それだけの話なのだ。


 5日分の香水が終わった。

 よく晴れた土曜の午後、心地よい風が吹いて、いずれ来る夏を予感させた。桜はすっかり散り、青々とした葉を茂らせる。スニーカーが影を踏み、大きな公園の前に出た。公園の中の生垣では白とピンクのつつじが咲く。ボールを持った親子連れが、公園の芝生を走っているのが見えた。


 Welcomeと書かれた看板が立っているのを確認して、私はまつぼっくりの扉を開けた。



 「いらっしゃい、あ、よく来たわねえ! 金曜日に来なかったからもう来ないかと思ったわあ。この前は押しつけがましいこと言ってごめんなさいねえ! 本当、年を取ると押しつけがましくなっちゃって、やあねえ」



 扉を開けた途端水を得た魚のように怒涛の勢いでしゃべり始める多聞。先日の諭すように穏やかに話す雰囲気とは真逆だ。むしろこの1週間のかかわりを見る限り、こっちが素なのだろう。あの夜がイレギュラーだったのだ。



 「やあやあやあ死にたがりのお嬢さん! それで、「カルガモのパレード」はどうだったんだい?」

 「……合計58羽。朝から晩までガアガア鳴いてた」

 「ふっははぁ、たった5日間で君は58回も死にたいと思ったんだねえ。難儀なことだ。真面目な人間はいつの時代も全くもって生きづらい」



 相変わらずくたびれた格好をした蛇刈は愉快そうに笑う。気温が上がってきた昼間だというのに、以前あった時と同じコートとストールを身に着けている。そして今日も、大きなトランクを携えて。



 「死にたがりの君よ。死にたいという思いのこもった正直なカルガモたちと過ごした1週間はどうだった?」 



 蛇刈は目を逸らすことを許さないというように私の顔を覗き込んだ。明るい色の瞳が私を射抜く。だが私も逸らしはしない。今の私なら逸らさないでいられた。



 「私は、死にたくて死にたくてしょうがない。普通に生きていたらそれこそ、毎日死を願わないと生きていけないくらいに。それは変わらないし、嘘じゃない」

 「ふうん、カルガモに囲まれれば死ぬ気も失せるんじゃないかと思ったんだが」

 「……緩い見た目で、よかったよ。でもそれはそれ。あの子たちは私の死にたいという願い。あの子たちがかわいかろうと、私が死を願った事実は、変わらない」



 たくさんのカルガモたち。引き摺るように歩く私の後ろをついて回るカルガモ。デスク周りで暇を持て余して大合唱するカルガモ。朝になると起こしてくるカルガモ。たとえ幻視幻聴だとしても、死にたいという孤独はそこになかった。死にたくても、私は一人じゃなかった。



 「きっと、今の仕事が辛いから死にたいんだと思う。役に立てない、仕事ができない。そんな環境が辛くて、逃げ出したい。なんとかできる気がしない。このままの状態が続くような気がしてならない」

 「お嬢ちゃん……」



 何も言ってないのに、テーブルの上にホットミルクが置かれる。優しい香りが私に一握りの勇気をくれる。自分の嫌なところを、自分の使えなさを言語化する苦しさを、助けてくれる。



 「でもたぶん、何とかなると思う。これから仕事に慣れて、少しずつできることが増えて。そうしたらきっと、私は私のことを生きていてもいいと思えるから」



 私は死にたかった。

 でもその一歩手前には、死んだ方がましという思いがあった。

 そしてその根っこには、善く生きたいという希望があった。

 私は善く生きたかったから、死にたかったのだ。

 善く生きたい自分は、善く生きられない自分を認められなかった。



 「いつか私は善く生きるために、今があるのかもしれない。時間と努力と我慢で、それは解決するかもしれない」

 「でも解決できないかもしれない」



 話の腰を折る蛇刈の後頭部を多聞が遠慮なくひっぱたいた。



 「そうかもしれない。それはあくまでも私の希望的観測で、本当に私が無能で、どうしようもないかもしれない。……でもどちらに転ぶか、私はまだ知らない」



 結局は時間なのだ。未来を知るためには、時間が経たなければどうにもできない。

 どれだけ努力をしたとしても、どれだけ我慢をしたとしても、その先に掴めるものがあるのかないのか、先に結果を見ることはできないのだ。



 「だから、その答えが見えるまでは、努力も何も、続けなくちゃならない。それはなにも解決してないけど、いつか解決するかもしれないっていう希望は、捨てずにすむ。それまで我慢して耐えるのは辛い。きっとまた死んでしまいたいと思うくらいに」



 私は、何も変わらない。

 先週よりも、少しだけ自分のことがわかって、少しだけ希望を見出しているだけ。

 私は変わらず、死にたがりだ。



 「でもきっと、温かい飲み物とおやつがあれば、毎日1日ずつ、我慢して、耐えることはできる気がするんだ。そうやってご褒美を作って一日一日、希望にすがりついて、生きていく。そうすれば生きていられる。善く生きるために、1日を重ねられる」



 ラムの入った甘いホットミルクがあれば、きっと息をつける。

 甘いベリーのマフィンがあれば、きっと悲しくなくなるだろう。

 ふわふわしたカルガモのぬいぐるみがあれば、きっと私は寂しくない。



 「生きたい私がここにいるから、死にたい私を抱えて生きていられる気がしたの」



 死にたい気持ちのカルガモを引き連れ過ごした1週間は、私から孤独をさらっていった。ならきっと、カルガモの姿をしていなくても、私は私の死にたい気持ちと一緒に生きていけるんじゃないだろうか。

 死にたい気持ちの奥底には、生きたい気持ちが隠れているから。



 「じゃあ、「カルガモのパレード」の追加購入はなしって事かい? せっかく入荷してきたのにさ」

 「馬っ鹿なこと言わない! 何にもなしに生きられる方がいいに決まってんだから! ……そうよお嬢さん。みっともなくても、すがりついて生きていける方がずっと善いことよ。死んだらそこで全部終わり。そこに希望も未来も何もないの。うまく生きられないから死にたいと思うなら、どうか善く生きたいという希望だけは捨てないで」



 善く生きたい。

 私は善く生きたいのだ。

 善く生きられないから死んでしまいたい。それだけの事。

 ならば善く生きるために、善く生きられるために、私は研鑽の1日を重ねなければならない。



 「カルガモのパレード、ありがとうございました。でも私は今は別のものが欲しいの」

 「なんだいなんだいお嬢ちゃん。今度こそチキンか?」



 私は笑った。

 好きになれなさそうなスキンシップの激しい女店主も、どこまで行っても胡散臭い男性客も、死にたい気持ちが具現化したカモも、今はどれも嫌いじゃなかった。



 「ラズベリーとホワイトチョコのマフィンを一つ。それからホットミルクもおかわりで」



 生きたい気持ちと死にたい気持ち、それから甘い幸せがあれば、私は日々を生きていかれるような気がした。


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