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アナザーサイド  作者: 界 大和
1/1

序 住田 善之

 ひ、ひ、はー。ひ、ひ、はー。

 心地よいテンポの呼吸。

 たっ、たっ、たっ、たっ。

 単調だが規則正しい歩調。

 二つが気持ちよく絡み合って全身を刺激するのを感じて、住田善之は今日の自分の体調がいいことを知った。

 以前はいくら食べても太らなかったはずなのに、妻に「最近丸くなったんじゃない?」と言われ、「そんなことはない」と言いながら体重計に乗ってみたら、いつの間にか7キロも体重が増えていることに気づいた三十五歳のあの日。風呂上がりに鏡を見ると、確かに以前はあった鎖骨はが沈み、乳首が泣きそうな眼のように垂れていた。

 これではいかん、と早朝の街を走り始めてからちょうど二十年、住田は今でもほぼ毎朝、荒川堤防の遊歩道をジョギングしている。決まったコースで十二キロ。今では、鎖骨は勿論のこと首筋の腱も浮き出て、胸の眼は薄い筋肉の上で真円を描いている。

 朝のジョギングはその日の体調を測るバロメーターでもある。呼吸と歩調のバランスが悪い時は、どこか調子が悪い日だ。自分でも気づかない程度の風邪や二日酔いは、走ってみればすぐにわかる。体が休めと命令してくるからだ。逆に、今日のようにそのハーモニーが心地よいと感じる日は、体調の良い日だ。朝靄に煙る街並みが気持ちよく、十二キロという距離が短く感じられて、もっと走っていたいと思わされる。今日はそんな日だった。

 惜しむらくは、この雨だ。夏の雨は体温を下げてくれるのはいいのだが、こと走るリズムということに限っては、邪魔以外の何者でもない。呼吸と足音に混じる肌を打つ雨音は、通勤電車に響く赤ん坊の泣き声のように場違いで、暴力的だ。濡れたウェアはジョギング専用の軽いものだったが、いつもよりは鈍重で、住田の体に無責任にのしかかってくる。

 遊歩道は堤防の上にあるので、雨は下に流れて水溜りらしい水溜りを作らないのはよかったが、降りしきる雨粒自体はどうしようもない。住田は体を濡らす雨を振り切るように、走るスピードを上げてゆく。

 毎朝自分にそっくりなフレンチブルドッグを連れて散歩する中年の女性、必ず同じ辺りですれ違う黄色いランニングウェアの若者、ダイエットのためか大きく腕と腰を振りながら歩くチリチリパーマの若い女の子。いつも挨拶を交わす面々とは、雨のためか今日は誰とも会っていない。それどころか、今日は珍しいくらいに人影が全く見当たらなかった。住田は、祝日と知らずに会社に出社してしまった時のような、妙な感覚に捕らわれた。町全体が引越しをしてしまい、ここに残っているのは住田だけ、そんな現実離れした妄想が脳裏に浮かぶ。こうして走っている間に、妻も二人の娘も、住田を置いて街を出る。この街の住人は住田一人になる。

「そうしたら、俺が区長だな」

 無意味な想像に顔がにやけた。

 

 やがて堤防は川の流れに沿って、東西方向から南北方向にその向きをゆっくり変える。住田の自宅からちょうど六キロ。折り返しの地点が近づいてきた。

 住田が折り返しと決めている地点は、他の人間からすればなんでもないただの遊歩道の途中だ。目印といえばアスファルトがめくれて地面が見えていることくらいで、それ以外には特に何の変哲もない堤防の上である。

 上の娘が二歳になったばかりのころ、身重の妻とよちよち歩く娘を連れて、ここを散歩したことがあった。記憶は定かでないが、自宅から六キロも歩くことは考えにくいので、この近くにある妻の実家に来た時のことかもしれない。

 三人で夕陽を背に手を繋いで歩いていると、娘が突然「パパ」と言った。それまで「あー」とか「うー」など言葉にならない言葉と、かろうじて判別できる「ママ」と「わんわん」しか聞いたことがなかったので、はっきりとした「パパ」に住田はひどく驚いて、それ以上にたいそう喜んだ。

 妻に言わせれば「パパなんて言ってない。ママと言おうとして口がもつれて、『カカ』に近い発音になった」ということらしいのだが、住田は信じていない。

 とにかくその時は、興奮して浮き足立ち、アスファルトがめくれた部分に足を取られて転びかけたのを覚えている。

 それがここだ。住田にとっては特別な場所を毎日の折り返し地点と決めていた。


 折り返し地点に到達した住田は、足踏みをして一度呼吸を整える。その後脚の屈伸と上半身の前屈をして、後半の六キロに備えるのが日課だ。

 膝に両手をついて屈伸を始めようとした時、歩道の穴に水溜りがあるのが見えた。水溜りの水がやけに赤黒いのに気づいたのは、その時である。

「何だろう?」

 住田は口に出して呟いたが、辺りに人影はなく、ただ雨だけがしとしとと降り続いていた。

 よく見ると、雨に流されてわかりにくくなっているものの、そこかしこに赤い斑点のような模様がある。そこで住田は何気なく、本当に何気なく堤防の下にある草むらを覗き込んだ。

 雨露に濡れる緑の草から、白くて長いものが伸びている。最初は大きなイカかと思った。ゆでられた巨大なイカが落ちているように見えたのだ。だが、その先端に申し訳なさそうにちょこんと乗ったものが、靴であるのを確認した時、住田はそれがイカでないことに気づいた。

「足?」

 ごくり、と喉の奥が音をたてた。マネキンにしてはやけに生々しい、白くて細い女の足だ。この雨の中、草むらで女が寝ているとは考えにくい、とすると……。

 住田は武者震いをした。走っていたときよりも動悸が激しい。指の先を冷たくなるような感覚が包む。

 堤防から下りて確認したほうがいいだろうか? 住田は逡巡し、前後を振り返ったが、相変わらず彼のほかに人はいない。

 覚悟を決めて、一歩、雨に滑って落ちないように慎重に、堤防の斜面に足を踏み出す。底の薄いランニングシューズが、坂を固めたコンクリートをしっかり捉えたのを確認してから、次の一歩を進めた。体のバランスを崩してしまわないように、両手を広げて恐る恐る下りてゆく。

 あとほんの数歩で下に着くというときに、雨とは思えないぬめりに足を掬われ、住田は斜面に手をついて滑り落ちた。見ると、彼の足を滑らせたのは、先ほど水溜りに溜まっていたのと同じ赤黒いものだった。

 草むらの脇に立つと、湿気た空気のにおいに混じって、鉄のような香りが漂っていることに気づく。草むらから伸びる足に近づくと、鉄のにおいは、よりその濃度を高めた。

 間違いなく血だ。

 住田の中で確定的に明らかな事象を完全に確認するため、歩を進め足の先を覗き込む。同時に、胃の底から強烈な吐き気を感じたが、胃の中に何も入っていなかったので、住田はただ咳き込んだ。

 女がこちらを見ており、覗いた住田と目が合った。だが、彼女は微動だにしないで雨に打たれていた。胸の辺りの衣服が血にまみれていなければ、見た目は生きているように見えたかもしれない。だが、住田は全身で感じていた。

 彼女は死んでいる。


 とにかく一一○番だと思ったが、ジョギング中だったので、携帯電話は六キロも離れた自宅に置いてきてしまっている。今、最も早く警察に連絡が取れるとすれば、妻の実家だ。

 住田は這いつくばうように堤防を駆け上がり、反対側にある住宅街に下りた。ここから妻の実家までは、一キロ程度だ。

 早朝から、連絡もせず突然訪ねて、迷惑にならないだろうかと考えたが、それどころではないと頭を振った。

 住田は義父母の住む家まで走った。何故かジョギングしたときよりも、息が切れるのが速く、体が重い。先ほどまで感じていた体調のよさはどこかに消えてしまっていた。

 住田が実家の戸を叩いた時には、今年で八十になる義母は、すでに朝食の準備に取り掛かっていたようで、住田を出迎えた義母の背後から米を炊く香りが漂ってきた。普段なら食欲をそそるはずの匂いも、今の住田には未だに鼻腔から消えない鉄のにおいと混じって吐き気を催させる。

 ずぶ濡れに突然訪問した住田を見て、義母は驚嘆の声をあげた。

「どうしました? なにかあったの?」

 息切れと高揚ですぐに状況を説明できず、住田は「あの……あの……」と繰り返していた。

 ようやく息を整え、たった一言「電話をお借りできますか?」といった義理の息子に、義母は気おされたように黙って細かく頷いた。

 警察に電話をかけ、死体を発見した旨を伝えると、電話を受けた男性は、住田にそのまま電話を切らないよう指示した。そして繰り返し、死体を発見した場所とその状況、そして今いる場所を確認してきた。電話を切らせてくれないので、奥から騒ぎを聞きつけて起きてきた義父に、まともな挨拶もできない。

 五分以上その状況におかれ、住田がいい加減じれたころ、実家の戸を叩く音がした。

 義母が戸を開けると、制服の上から合羽を着た警官が二名立っていた。

 住田は警官二名を案内して、現場に向かった。だが、現場についてみると、既に数人の警察官が死体のあるあたりを囲みこんで、なにやら作業をしており、住田が近くによることを許さなかった。

「じゃあ、もう一度遺体を発見した状況を詳しくお聞きします」

 警察官の一人が住田の脇を固めて聞いてきた。

 その瞬間、住田は自分が殺人事件の容疑者として見られていることに気づいた。

 今までに読んだ推理小説や休日に観たサスペンスドラマを思い出して住田は胃の辺りが冷たくなるのを感じた。確かに第一発見者は怪しい。

「あの、えっと、私はただ、あの上を走っていて、それで」

 急に慌てた様子になった住田に、警官は一切表情を変えず「聞かれたことだけ答えてください」といった。

「念のためお聞きしているだけですから」

 雨に濡れたジョギングウェアが心細い。

「遺体を発見した時、何か気づいたことはありますか?」

 そう聞かれて住田の頭に最初に浮かんだのは、「明日からジョギングコースを変えなきゃいけない」ということだった。 


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