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「おじさん」
そう言った夜露の今日の装いはいつもと違った。それは夏らしく、涼し気な雰囲気を纏わせる。
甚平である。
「花火観に行こう」
人、人、人。
右を見ても、左を見ても、正面にも。見ずともわかる後ろにも。
花火大会が行われる河川敷には、どこから現れたのかと思うほど人で溢れていた。
日が落ちて涼しくなったはずなのに、人の熱気が満ちたここには、それを疑う程の暑さがむんむんと充満している。
祭り飯を買おうと屋台がでている土手沿いを歩くも、あまりに人が多すぎて、歩いているのか、ただ揺られているのか分からなくなってくる程だ。
「おじさん、掴まってて」
人混みに慣れずぼうっとし始めたところで、夜露から手を差し出される。
三人で手を繋いで縦になって歩く。おじさんと若者二人がだ。人がこんなにもいるのに、誰もそれを気にとめる人などいない。なんだかそれが可笑しくなって、結局ぼうっとしたまま引っ張られながら歩いた。
「あー、死ぬかと思った」
やっとの思いで手にした戦利品たち。それを並べたビニールシートの上で俺は膝を抱えた。
「人混みで死ぬなんておじさん大袈裟だよ」
そう言っていつものように笑う夜露は、今日も楽しそうだ。
「いや、実際にあるんだぞ。エレベーター事故で大量の人がのしかかって圧死するとか」
考えただけで鳥肌がたった。老衰で死にたいとは言わないから、せめて悲惨な死に方は避けたいものだ。
「それにしても」
さっきから気になっていたことを聞くべきか悩む。でも聞かずにスルーできる程、俺は肝の座った男ではない。
「それはなんだ」
「なにって見ての通りリズだけど」
きょとんとした顔で答えがくるが、違う、そうじゃない。
夜露の膝の上で、リズが頭を乗せ、だらしない格好で意識を失っていた。さっきから可愛い浴衣から覗いた膝が立ててあり、あらぬ所が見えそうになるのを夜露が毎回裾を引っ張り直している。
「調子悪いのか?」
聞いといてなんだが、多分そうではないだろう。その顔はだらしなく緩みながらも嬉しそうにしている。
「リズお酒弱いんだよね。なのに何故か飲んじゃったみたい」
そう言った夜露の目線の先には口の空いた缶チューハイが置いてあった。
俺だってまだ飲んでないのに、いつのまにか出来上がっているリズに驚きを隠せない。
「大丈夫なんだよな?」
「うん。でも、花火の間は起きないかもしれない」
そう言ってまた、夜露はリズの浴衣の裾を直した。
「まあ、温くなる前に俺達も飲むか」
出店で買った少しいつもより高い生ビールと、リズが空けた缶チューハイで静かに乾杯する。
突然、二人だけの時間が出来上がるが、実は夜露が成人だと発覚して以降初めての事だ。いつもリズがべったりと張り付いていた。
今更子どもと思って接することはできない。だからと言って、この子と同年代の由美ちゃんと接するようにも出来ない。
知ってるのは、年齢と名前と少年のように遊びを楽しむその笑顔だけ。
なんだか気まずく感じてきた。
だからと言って無言なのもなんだかおかしいので、当たり障りのない話題を選ぶ。
「キャッチボール、上手くなったな」
「うん、おじさんのお陰だよ。うちはお父さんが運動音痴だから、小さい頃一度だけやったけど楽しくなかったんだよね」
「そうか」
夜露が成人だとしても、どう考えても父親の方が年齢近い事に今更気づく。
「ヒョロヒョロのガリガリで、最近なんかおでこの広がりが凄くてピカピカ」
「そ、そうか」
俺自身、そう変わりがない気がして心にダメージを負った。
「シャボン玉、楽しかったね」
「雨で割れないのは予想外だった」
「地面に落っこちたのが、すぐに割れないのには驚いたけど、それが沢山あるのはちょっと気持ち悪かったなあ」
「そういえば。水風船は、俺の勝ちだな」
「え!僕とリズのチームが勝ちだよ!おじさん走り回りながら当たりにきてたじゃん」
「お前もそう変わらんだろ」
気がつけば、最近の事を遠い思い出話のように語っていた。
二人が無言になった時、身体を震わす大きな音が鳴る。
花火が打ち上がり始めたようだ。
それから暫く無言で空を見上げていた。
まだ始まってから十分程度なのしれないし、もしかしたら一時間近く経っているかもしれない。時間の感覚があやふやだ。
花火と花火の狭間に、夜露が空を見上げてながら呟いた。
「おじさんは知ってると思うけど」
俺に話しかけるというより、まるで独り言みたいに。
「僕、戸籍上では女なんだけど心が男なんだよね」
知っていた。それが何よりもあの日驚いた事だったから。
免許証に性別は載っていないが、その写真に写る夜露は髪が長く女性特有の丸みがあった。どうみても男には見えなかった。
自分が惹かれる少年だと思っていた夜露の、年齢よりも性別が女性であった事になによりも驚いたのは、俺が女性を愛せる可能性を見つけてしまったためだ。
正直なところ、悩んで女性と付き合ったこともある。だが上手くいかず、と言えば聞こえはいいが、心が拒否して一瞬で終わった。
幼さがなくとも、男性であればいいのかとそういった店にも足を運んだが結果は惨敗だった。
一時は、悩みすぎて円形脱毛症になった。胃がやられて、潰瘍で入院もした。不眠症になりかけて酒の量が増えた時期もあった。
生涯を共にする誰とも出会うことなく、その生を終えることにやっと頭が追いついたのは実は数年前のこと。
なのに。
今更愛せる女性を見つけても、頭も心も追いつかない。素直に喜べない。俺の苦悩はこんな一瞬で解決できるものだったのか。
それに、俺だけの問題ではなかった。
「心では違和感がずっとあったのに、僕は女に生まれたから、女として生きなきゃいけないって。そうしないと家族も友達もみんな苦しむって。僕だけが我慢すればいいって」
詳細は違えど、痛い程わかる苦しみだ。
「でも、心が耐えきれなくなって外に出れなくなった時、初めて両親に打ち明けたんだ。お母さんも、お父さんも、男に産んでやれなくてごめんなって泣いて、三人でたくさん泣いた」
「それで、色々あって。僕は三十歳までに戸籍上も男になるって目標にして頑張ることにした。進路も、性別で面倒なことにしたくないから在宅でできる方に進んだ」
「ホルモン注射も打って、知り合いから紹介して貰って海外の病院まで行って、少し膨らんでた胸もサヨナラしてきた。僕は戸籍上で男になって初めて大人になれるから、きっと今は少年なんだって思ってた。なのに」
そう言った夜露の横顔は花火に照らされ、頬を一筋の涙が伝う。
あまりにそれが綺麗で
喧騒の中、夜露だけの世界がここにあるように感じた。
「おじさん、一目惚れって信じる?」
その一言で、動悸が激しくなるのがわかった。
「最初は興味。目が合ったと思った時、あの人に会いにいかなきゃって何故か思って。ちょっと強引だったけど」
嘘だ。
「しばらくして、名前すらも知らないのに。
あ、なんかいいなって」
嘘だ。
「ふと落ちた目線が、カサカサした長い指先が、剃りきれてないヒゲが、頭を掻く仕草が。目に見えて、聞こえる全部がいいなって」
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
「でもね。これまでの僕はなんだったんだって。苦しくて、悩んだ。認めたくなかった。けど、この気持ちに嘘つきたくないんだ」
「おじさん、好きだよ」
一際大きい花火が打ち上がった。
嘘だ。
こんな奇跡、
本当に起こるものなのか。
夏の夜。花火と酒と人の喧騒。俺にとって、人生で一番忘れられない日となった。