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「じゃ、お疲れ」
「お疲れ様でーす」
ビル自体がうちの社長の持ち物なので、職場と自宅が同じ場所にある由美ちゃんに鍵を任せて廊下を歩く。
俺の方は、会社から家まで歩いて十五分。中年の歩く気力と健康のための運動を両立させる、中々に良い距離だ。酔っ払った社長が自宅に押しかけてこないギリギリの距離でもある。
ビルから出ると、もう五時だというのに日が高くて驚いた。夏至は過ぎたが、夏はこれからが本番だしな。
時間は変わらないのに、仕事が早く終わった気になって少し得した気分だ。こんな日は、どっかで一杯引っ掛けて帰るのもいいかもしれない。
よし、目指すは駅前。帰宅しようとした身体を反転させる。
「あ、おじさん」
声が聞こえて、ふとそちらを見れば、少年と少女の二人組が立っていた。
古いビルが並ぶこの通りで、若者が待ち合わせなんて珍しい。進行方向にいる二人にぶつからないように通り抜けようとして気づく。
ん?俺のことを見てないか?
気づけばその少年は俺の前に立っていた。
その年頃特有の、まだ高さの残るハスキーな声で少年は言う。
「おじさん、目あったよね」
言ってる内容がヤンキーだ。テメェ今ガンつけてただろうと、手当り次第に絡んでいく昭和のスタイル。
しかしその顔は、メンチを切るわけでもなく寧ろ笑んでいる。
ぶかぶかの白いTシャツに黒の短パン姿の少年は、高校生だろうか。俺の肩ほどの身長しかないから、これから成長期を迎えるのだろう。
だが、それにしたってちょっとこの子は綺麗すぎる気がする。血色は悪くないが、肌がとてつもなく白い。女性とは違う筋肉優位な体質の片鱗は見えるけれど、それにしたって骨格が年齢に釣り合わず幼い。
なんだか、ちぐはぐな印象を受ける。
すると、遅れて白いワンピース姿の少女が少年の隣に並んで、そのTシャツの裾を掴んだ。その目は俺を睨んでいる。こっちはメンチを切るスタイルのようだ。
そこでふと気づく。
ーーーー二人組、少年と少女、短パンとワンピース
「もしかして、昼間公園にいた?」
「うん、そう」
そう言って、何が嬉しいのかにっこりと笑う。
「ねえ、キャッチボールしよう」
「おい!ちゃんと投げろ!」
ボールがあらぬ方向に飛んでいく。
これで何度目だ。キャッチボールはボールをお互い相手に向かって投げるもんだろう。
何度も外したボールを取りにいかされたとなってはさすがに息が上がってくる。
気づけば俺は、ワイシャツの袖を捲って、夕方の公園でキャッチボールをしていた。
さすがに大通り沿いの会社の前で、子どもと話しているのは世間の目が怖い。すぐに会社の裏の公園まで移動したが、すぐに断って今度こそ冷たいビールを求めて駅前へ向かうつもりだった。
少年曰く、
「本当はリズと遊ぶつもりでボールとグローブ買ってきたんだけど、リズができないって」
少女曰く、
「本当はリズがヨツユと遊びたいのだけど、リズは箸より重いものは持てないの」
今時どこのお嬢様だよ。
「でも、おじさんと目があったこと思い出して。きっとおじさんならキャッチボール出来るはずって思って、仕事終わるの待ってたんだ」
精神年齢が少し幼すぎる気がした。知らない大人を遊びに誘う子どもなんて、今時いたとしても保育園生くらいだろ。
でも、もしかしたらーーーー
夏休みが始まって、東京の祖父母の家に遊びにきた田舎の子なのかもしれない。
従姉妹が嫁いだ先が人口千人に満たない村で、全員顔見知りだと言っていた。
知り合いの大人しかいない環境で育てば、そういう風に育つこともあるかもしれない。
しかし、下手に個人情報など聞けないご時世なので真相は闇の中。
疑いを知らない少年に、勝手に同情して少しだけ付き合うことにした。そこまではいい、問題はこの暴投の嵐だ。
「少年、ちょっとこっちこい」
女投げではなく、しっかり下半身も連動させて動こうとしているのがわかるから、運動神経は悪くないはずだ。
「ちょっとボール握ってみろ」
「こう?」
「なんだそれ、まるで熊手じゃねえか」
軟式だからといって縫い目まる無視どころか、親指が上を向いている。道理でコントロールが効かない訳だ。もっと早く気づくべきだった。
「ボールの持ち方はこう」
俺が握って見せてから、ボールを渡して再度握らせる。
「人差し指と中指は縫い目に引っ掛けて、親指は下から支えるイメージだ。あまり力はいれるな」
「こう?」
「そう、それでいい。あとは、投げた時にボールを離す位置を探せ。上手く投げた時に覚えておいて、出来るだけ固定する」
実際に、ジェスチャーで投球する真似をしながら伝えると、少年は真面目な顔で聞いていた。
「じゃあ、もう一回やるか。グローブの真ん中をしっかり毎回狙え」
改めてキャッチボール再開。
一投目、ボールを早めに離してしまったのか上滑りでやや弓なりになってしまったが、俺が動かぬまま捕れる。
二投目、先程のを意識しすぎてボールを叩きつけたが、これも俺が動かずに捕れる場所だ。
三投目、四投目も色々試行錯誤してるのかバウンドさせていたが、きちんと俺の方向へ届いた。
そして五投目、胸の高さに構えたグローブにいい音をたててボールが収まった。
「ナイッピー!」
思わず学生自体のノリで発声する。
少年は喜びの色を浮かべながらピースサインした。
とまぁ、たまの良い出来事だとしても俺は赤の他人。公園の街頭に丁度明かりが灯ったので解散。
サカリがついた動物じゃないんだから、少年と少し交流があった位で見境なく襲ったりしなければ、恋にも発展しない。こっちは四十五年も生きてるんだ。その辺、世間の理解は薄いように思う。
さすがに汗をかきすぎたので外で飲むのは諦めたが、スーパーで買った発泡酒と割引シールの貼られた戦利品を片手にぶら下げながら帰路に着く。
少年が最後に「おじさんありがとう」言った時の笑顔を思い浮かべると共に、恐らく遅れてやってくる筋肉痛に恐怖を感じた。
今日は早めに寝よう。なんとなく、いい夢が見れそうな気がするから。