〈赤き虎〉 Ⅰ
気が付いたらこっち書いてたわ
ドクン、ドクン。
耳の奥に響くような心臓の音が聞こえ、目を覚ます。
そして目を見開いた。
――――虎がいたのだ。
無意識にでも意識してしまいそうな真っ赤な体をし、こちらを窺うように周りを動いている。
ただ言葉を話さなくとも分かることがあった。
お前は、誰だ?
そう言われている気がする。
味方でもなく、敵でもない。ならお前は何者なんだと言っているような気がするのだ。
自分の周りをゆっくりと観察しながら進む姿を言葉もなく見つめていると、その赤い虎が動き出す。
その時、紅の毛並みからふわりと舞う灰が頬に張り付き、人間など簡単に引き裂いてしまえそうな牙が右腕を持っていった。
これは代償だ……
不思議と痛みは無い。
ただ意識を起こすのには十分過ぎるほどの一撃だった。
「…………ッ!!?」
体が得体の知れない恐怖によって震えている……いや、もはや痙攣していると言っても過言ではない。
震え過ぎて体が言う事を一切利かないのだ。
そして、右腕を見る。
「……え?」
何度も斬り刻まれたような尋常ではない痕が肘から手首の間にくっきりと刻まれているではないか。
「どうなって――――いや、今考えても答えはでないだろうなぁ」
とにかく、あの夢は本当のことなんだろう。
そう割り切るしかない。
〈赤い虎〉に喰われた右腕の変化に戸惑っているような暇はない。
本題はこの場所がどこか…………ということだ。
畳六畳分の狭い空間。
壁は頑丈なコンクリ―トで四方を覆われ、今は眠っていたであろう布団セット以外にはトイレ以外ない。
「あとは、外が見えない窓と扉か……。まるで独房だ」
そこまで呟いた時、扉の奥から足音が鳴った。
「起きたようね、依代君」
「部長?」
扉の奥にいるのは我が伝統も誇りもクソもない文芸部の部長である菅原朱里の声だった。
「入っても大丈夫かしら?」
「……? えぇ、大丈夫ですけど」
かちゃり、かちゃり、かちゃり、そんな音が三回も響いた後、ようやくドアノブが回されて扉が開いた。
しかし予想外なことが起きていた。
奥から出て来たのは菅原朱里だけではなかったのだ。
「お前が……今代の〈赤き虎〉の力を使ったのか?」
身長は百八十に届かないかくらいの背丈のある姿。
額や頬に残る古傷、スーツを着ていても分かってしまうほど鍛え抜かれた体。
髪には少し白髪が混じり綺麗にオールバックで固めている、厳つい男性。
ただ、目を見開いたのはそこではなかった。
「父さん?」
その容姿から読み取って導き出された答え――――実の父親、依代隆守であった。
「……集、お前何をしたのか分かっているんだろうな」
声を出そうにも詰まって出せない。
何を言っていいのか分からない。
ただ混乱しているのではなく、言いたいことを言えないような状態のことを人々は唖然というのだろう。
「こら、口を開いたままにするな。格好悪いだろう」
「……いっ、いや、そんなこと言ってる場合じゃないだろ!? 何でここに父さんがいるんだよ!」
「それは追々話すことになる。当然、俺がいるということは母さんもここにいるしな」
「何の答えにもなってないよ……それ」
「とにかく、だ。起きたのなら着いて来い。お前には会わせなければいけない人がいる」
いや誰だよ。
そんな言葉は言えなかった。
実の父親には驚いたが、その後ろには馴染みのある顔ぶれが揃っているのだから。
「……部長と葵ちゃんも関係してるんですよね?」
「えぇ、関係しているわね。それに貴方を呼んでいるのは菅原家の当主……つまり私たちの父親ですもの。これからもっと深く関係していく可能性だってあるわ」
「相変わらず切り替えが早いですね先輩。立てますか?」
心配そうな表情で体を支えようとしてくれる葵を手で制し、凝り固まっている身体に鞭を打って立ち上がると骨や体の節々が悲鳴を上げる。
「――――ッぐ!」
激痛……とまではいかなくとも鈍痛くらいはあるだろう。
骨だけではなく筋肉まで悲鳴を上げているようで、寝起きの体にはよく響く。
「集、涙目になっているぞ? 大丈夫か?」
「全く、大丈……夫じゃないみたい。身に覚えのない筋肉痛に地獄を体験させられているよ」
「……ふぅん」
「い、いや、ふぅんって」
「男なら自分で歩け。まさかこのまま葵の力を借りるつもりじゃないよな?」
「まさか。もう馴れたことだし問題ないよ」
おどけて見せた集を見つめる隆盛。
毎月行われる精密検査の結果によって彼は知っていたのだ。
自分の息子の肉体が、人のそれを逸脱してしまっていることを。
そして、それが今回――――理解出来てしまったのだ。
「なら着いて来い。ここから少し離れているがな」
「どうせ少しじゃないんでしょ? 知ってる」
そうして三人に囲まれるように連行された集は扉を出た。
周りを観察してみるに和式な造りをしている。
風通しも良く、木で造られた廊下は固く足を動かしやすい。
ただやたらと長く見えてしまう廊下に思わず項垂れる。
「ここから見えるな。あそこだ」
隆盛が窓から指を差したの外に建てられた大きな屋敷。
「問題はあの長い階段だね。もしかして登れって?」
「当然だろ。そうしないと行けないんだから」
相変わらず息子に厳しい男だなと思い、少し笑ってしまう。
「無理だよ?」
「……仕方ない。階段まで行ったら俺がおんぶしてやる」
それはそれで少し恥ずかしいな、なんてことを考えながら三人に着いて行き、ようやく見上げるほど長い階段の目の前に到着した。
幅の広い石畳の造りになっている階段、囲まれている木々、階段の先にある屋敷。
まるで神の通り道のような神秘さすら感じさせる不思議な感覚。
「はい。おんぶ頼むね」
…………これから起こることなど微塵も考えることなく、父親の背中に乗る。
「そう言えば、ここはどこなの?」
見渡す限りの木々、その中に隠すように建てられた屋敷たち。
こんな場所は日本にあることが神秘でもあると同時に、何も知らない集からしたら現実から離れたような感覚に陥ってしまった。
「ここは〈願廻殿〉と呼ばれている場所だ。詳しいことは後々説明されるだろうから省くが、人々の奇跡によって生まれる世界の不幸と戦う者たちの拠点。その一つだな」
「へぇ、こんな場所が日本にあったんだね」
悲鳴を上げている身体を無理やり動かしていることによって流れていたであろう汗が鬱陶しい。
瞼を伝うように下ってくる汗を外側に弾く。
「普通に生きていれば来ることはない場所だしな。そもそも普通に生きていれば、知らないことの方が多いだろう」
「……で、俺はその枠から外れたってことね」
自然と妙な刺青が入ってしまった右腕に視線が向かう。
すると、やけに鮮明に思い出された夢で起きた出来事。
肌がひりついた感覚。
腕を千切られた痛み。
目の前に〈赤い虎〉が大きく口を開いて待っている姿がトラウマのようになって脳裏を過ぎる。
「そうなるな。まぁ、これから知りたくなかったことを多く知れる都合が目の前にある。もちろんお前にも関係があるし、お前の周りにも関係することでもある」
「当然、私も葵も関係しているわ。あまりにも突然で大きすぎる話しだから依代君は理解が出来ていないだけよ」
「…………」
首を傾げるように集を見つめる葵は、目覚める前に見た夢のような出来事を思い出していた。
呟いた言葉は〝コード・ブレイブ〟
そこから始まった光景は一生忘れることはないだろう。
が、おかしいのだ。
「集先輩はどうしてここにいるのか分かってるんですか?」
あの時の集の姿と、今の集の姿が脳裏で反復している。
全く違うその姿に困惑してしまっている。
だから答えを聞きたいと思ってしまったのだ。
葵の問いかけに隆盛と朱里が押し黙った。
まるで――――その答えを聞き逃さないようにしているように。
「…………知らないなぁ」
考えても答えが出なかったからなのか。
言いたくないことがあるからなのか。
親にも言えないような秘密があるからなのか。
それもとも、単純に覚えていないのか。
答えはどれでもいい。
ただ、その普通でもあり違和感を覚えてしまうような返答は三人の表情を変えるのには十分すぎた。
「……ほら、到着するぞ」
妙な緊張が走った空間を切り替えるように隆盛が、おぶっている集に伝えた。
そして朱里が葵の隣に寄る。
「葵はどう思ったかしら?」
耳がくすぐったくなるような囁き声で小さく問いかけた朱里の表情は、いつもと変わらなかった。
「それを考えるのはいつも一緒にいたお姉ちゃんでしょ」
「でも助けられたのは貴女でしょう? 私は全てが終わってからあの場所に到着したし、全貌を全く知らないの。貴女の話しと依代君の話しでは食い違い過ぎているから」
葵は鮮明に覚えていた〝あの瞬間〟を朱里と隆盛に伝えている。
「……私は――――」
集に出会ってから、自分でも分かるくらいにおかしくなっている。
いつもなら手助けしようなんて考えなかっただろうし。
いつでも支えられるように彼の後ろに寄り添わないだろうし。
彼が感じている痛みを考えるようなことはしなかっただろう。
「嘘は言ってないと思うよ」
意図的ではない。
偶然でもない。
必然でもない。
あの時、あの瞬間に起きてしまったことが世界に歪みを生じさせた。
それこそ、奇跡的に集に出会い。奇跡的に一緒にいたからこそ。
〈赤き虎〉という〝奇跡の力〟で繋がってしまった。
「へぇ……どうしてか分からないけれど、説得力を感じるわね」
「お姉ちゃんは? どう思ってるの?」
「私は……嘘を言わないだけで、何かを隠しているように感じるわね」
菅原朱里――――彼女もまた奇跡的な出会いをしている。
自分も……そして彼も朧げにしか記憶になかったらしいが、彼女は彼に救われているのだ。
幼い頃の話しだ。自身も、葵と同じような現象を体験しているのだろう。
どうして覚えていなかったのか、それは今の集の様子を見れば理解は出来る。
「……これから何を話されるのやら」
「心配?」
「決定権を持つのはお父さんだよ? それだけで不安だよ」
「そう――――私は彼とどうなろうと全然構わないわ」
「彼が、じゃないだけお姉ちゃんは結構重傷だよね」
「そんな一瞬すら聞き逃さない葵こそ、ね?」
「ほら、二人とも。行くぞ」
いつの間にかおぶられていた集は地に足を着けていた。
きっと、この異様な空気が漂う場所に気持ちを落ち着けているのだろう。
ただ目の前の扉を一点に見ている。
「よし、行くぞ」
それは地獄へ通ずる扉か。または楽園へと通ずる扉なのか。
向こう側の見えない扉の向こう側を見ていた。
今まで普通に生きて来た依代集という人物にとっては、運命が左右されるかもしれない重要な瞬間。
――――その一歩を踏み出した。
今週は違うほうを書きます。