もう始まっている物語 2
気のせいか……
どこからともなく女の人の声が聞こえるわけないもんな。
そうだよ、痴漢ならぬ痴姦されてる途中にそんなの聞こえるわけないじゃないか。
「――――ちょっと、声大きいわよ」
「――――いやぁ、ダイジョブでしょ。見えるわけないし」
いやいやいや、気のせいだって。
確かに周りに女の人いるけど特におかしな状態じゃないし。強いて言えば俺が一番おかしな状態だし。
「――――見える見えないの問題じゃないの……今、私たちは全裸とほぼ変わらない格好なのよ?」
「…………」
え? 全裸なの?
俺の近くに全裸でいるの?
い、いや……やっぱり気のせいだって。
昨日読み終えたラノベの内容が勝手に脳内でリフレインしてるだけだよ、俺は今勘違いしてるんだよ。
普通だったらこれは心霊現象……そう! お化けのせいだ。
「――――いいのいいの。私たちの世界に干渉出来る人がこの電車に乗ってるわけないし、乗ってたとしても別の世界にいるでしょ? だってここは世界と世界の間の世界。私以外にこの力は使えないもん」
世界と世界の間の世界?
中二で発症する病気なんかよりもよっぽど酷いぞ!?
もう何が何だか分からないけど、
「…………かなり深刻な状態だな」
思わず声が聞こえる方向を向いて小さく呟いた集。
その影響は、背後で体に触れる何者かとどこからか聞こえる謎の声に大きな影響を無意識に与えることになった。
「――――……いや、気のせいよね? 私たちのこと見えるわけないもんね」
「えぇ、それは当然としても……です。見てください、この男性」
「え…………うわっ、女に触られてる!」
姿の見えないところから聞こえる謎の声が教えてくれる真実にこっちが驚いてしまうわ!
何が悲しくて女に触られなきゃいかんのだ。
電車の中では何事もノータッチでしょうが。
「ま、ほっときましょう。もしかしたら何かのプレイ……その一環かもしれませんし」
「そ……そうね。とにかくアジトに帰りましょう」
それ以降、声は聞こえることはなく痴姦もされることはなかった。
だが、彼は触れてしまったのだ。
普通ではいられなくなってしまうトリガーに…………。
「依代君」
パタンと読んでいる本を閉じて会話を切り出したのは『文芸部』部長である菅原朱里であった。
新二年生でありながら、他者とはかけ離れた聡明さを持ち先生や学生たちからも評判の良いまさに優等生のような存在。
そんな彼女が話しかけた人物は、見た目通り普通のそれ以上でもそれ以下でもないような平凡な生徒。
優等生と比べてしまえば劣等生とも捉えることが出来る存在である依代集と呼ばれる青年だった。
「どうしました? 部長」
学生の本分を終えた後の放課後。
木造旧校舎と言われる本校舎と少し離れた場所の視聴覚室に三人の姿があった。
「何だか調子が悪そうね? いつもならライトノベルと意味の無さそうな専門書を両手にコーヒー牛乳を二つ同時にストローで啜っている異常な光景を目にするところなのに」
「え……? そんないつもなの? というか、ツッコむ所ありすぎじゃ……」
『文芸部』と言われる部員数たった三人で行われる部活動。
かつて、旧校舎が本校舎だった時には三倍以上の人数が在籍し数々の実績を残している有名な部活だったもである。
その名残は文字が掠れて見えなくなっている賞状の数が物語っていた。
だが、そんなものは過去の栄光。
今は自分の好きなことをやってゆっくりと過ごすといった緩すぎる部活動になってしまっている。
事実、朱里の妹である葵はポテトチップスを片手にスマホを弄っている。
「わかります? やっぱり」
「いや、私のことスルーしないでよ」
「葵。今は彼のことを聞かないといけないの。今の彼を見てみて?」
椅子の背もたれい顎を乗せ、学校に持ってきている鞄の中身を机の上に並べ鞄を被っている。
どうしてか腕時計を両手に着けていて、足元を見れば靴下が揃っていない。
だらしない……いや、もはや意味不明。
葵の言った通り、ツッコミを入れる場所があり過ぎて困り果てる。
「お姉ちゃん……先輩っていつもこんな感じなの?」
「いいえ全く違うわ。いつもなら普通に読書しているし、何ならこんな奇行に走る姿だって私も初めて見るもの。それで……改めて聞くけれど、本当にどうしたのかしら?」
「あぁ……いやぁ、うーん……」
「何か言いにくいことでもあるんですか?」
「そうだねぇ……とりあえずは信じて貰えるかってところが一番だよ」
「勿体ぶらないで早く言ってみなさい」
あぁ……うぅ……ん。
そうやって一頻り唸ったあと、深く考えるように腕を組み被っていた鞄を取る。
「昨日新刊発売したんで買いに行った時のこと何ですけど……そのぉ、女の人に痴漢みたいなことをされたんです。まぁ勝手に俺が触られてるのかなって思っていたんですが、その痴漢されてる時に電車の中で声がしたんですよ。『貴方は今全裸だよ』『世界と世界の間の世界にいる』『うわ、あいつ女に触られてる』とか色々聞こえて……昨日は良く眠れなかったんです。一徹くらいなら全然問題ないんですけど、やっぱり気になってしまって」
集が饒舌に語り出せば、ただでさえ静かな旧校舎に更なる静寂が訪れる。
あまりにも静かすぎて鼓膜が空気に触れて耳鳴りがなるほどの静かさ、もはや呼吸音すらも聞こえなくなってしまった。
「え、えぇ……と」
「…………はぁ、色んな情報がありすぎて訳が分からないわ」
いつもなら冷静さを持つ姉妹も、この発言には頭を抱えてしまっている。
「まぁ、簡単に言うと痴漢されて幻聴が聞こえたんですよね……」
もはや色々なことが一日のたった二時間ほどで起こり過ぎたのだ。
集自身もなんと説明すればいいのか分からない。上手く説明できている気がしない。
「それはご両親に伝えたのかしら?」
「いや、うちは両親どっちも帰りが遅いんで伝えてないですね。部長みたいに兄妹もいないですし、昨日から一人で考え込んでたんですよ」
おかげで本を読む気にもなれない。
昨日読破する予定だった『誰でも極められる筋トレ 上半身編』を読み損ねてしまた。
今日の授業も全部が手つかずだったし、伊達の彼女自慢にも相槌が適当になった。
まぁ……伊達の彼女自慢は止まることはなかったけど。
「思った以上の爆弾でした。正直なところ私は相談に乗れそうにありません」
「だよねぇ……。俺もそう思う」
「痴漢に幻聴……妄想全開の厨二野郎のトップトレンドみたいな非現実的なことが依代君に訪れるなんてね。私は聞いていて面白かったわ」
「これがただの妄想なら良かったんですよ。それなら俺も納得できました。でも、痴漢されてることは幻聴に教えて貰ったんです……もう妄想では片付けられないんですよ」
幻聴に教えてもらった。
本来ならあり得るはずもない虚空からの緊急連絡。
その事実がどうしようもなく真実であることを突き付けてくるが故に、集は恐怖した。
だが、集のその言葉で二人の様子が一変したのだ。
「……教えられた?」
「嘘でしょ……先輩」
「あ、いや本当ですよ。女の子の声が二人分、もれなく痴漢されてることを小馬鹿にした感じで伝えられました。まぁ、教えられたというよりかは言われて俺が気が付いたって感じですが」
今思えば、幻聴にしては意外と今時の反応だったなぁ。
幽霊とかならもっと静かに痴漢されてることを伝えてきそうだ。
「依代君」
脳内で幽霊との会話を想像していると、突然朱里が立ち上がった。
「今週の金曜日、私の家に来なさい」
「は?」
そう言って二人同時に立ち上がって帰り準備を始める。
「え? もう終わりですか?」
「えぇ、今日はお終い。いい? 今週の金曜日よ?」
「分かりましたけど……どうしてですか?」
「金曜になれば分かるわ」
その短い会話を終えたと同時に今日が終わる。
その週の始めの日を終えた後――――二人は金曜日まで学校に来ることはなかった。