昨日は笑って
姉は若い頃、夫の転勤で、
イギリスの片田舎に住んでいた。
暮らしぶりは質素だったが、
幸せな毎日だったらしく、
毎朝、コーヒーを入れ、朝食を作り、
夫を仕事に送り出しては、
庭の手入れをして過ごしていた。
子供がいたら、姉の生き方も
変わっていたのかもしれないが、
幸か、不幸か、子供には
恵まれていなかった。
姉がイギリスにいる間、
私は、日本の大学に通い、
アインシュタインに憧れて、
物理学を学んでいた。
姉は、イギリスから帰国後、
夫と死に別れた。
夫は、イギリスにいた頃、
酒を飲み過ぎて、
肝臓を病んでいたらしい。
それから、姉は、博士号を取り、
結婚もせずに研究に明け暮れていた、
私の面倒を見ながら、
一緒に暮らすようになった。
幼い頃、両親を亡くした姉と私は、
この世にたった二人の肉親として、
生きることになっていった。
そんな姉も、もうすぐ、
百歳になろうとしている。
そう言う私も、九十五歳を
過ぎてしまい、
お互いの様子から、
二人で過ごせる時間も、
そう長くはない気がしていた。
私は、ずっと姉に世話になり、
姉のお陰で、研究を進める
ことが出来た。
姉には言い尽くせないほどの
恩がある。
そめて、私が元気なうちに、
そして、姉が元気なうちに、
何かしら、姉の喜ぶような
恩返しがしたかった。
「姉さん、何か恩返しがしたいんだ。
何が欲しい?
私にできることは、何でもするよ」
私は、車椅子の姉に聞いた。
「恩返しだなんて……あなたこそ、
研究はもういいの?
あんなに頑張ってきたのに」
姉は、私のことを気にかけてくれた。
私は、相変わらず姉に甘えて、
姉の喜ぶことは、
私の研究を完成させることなんじゃ
ないかと考えるようになった。
そうか、姉に、あの日のイギリスに
行ってもらおう。
私は、姉に打ち明けた。
「姉さん、実は、
研究は、ほぼ終わっているんだが、
実験をしなければならないんだ。
それで、姉さん……」
「はいはい、わかってますよ。
私でその実験をしたいのね。
いいですよ。
私もあなたの研究が完成すると嬉しいし……
それで、どうするの?」
「うん……タイムマシンの実験なんだ。
姉さんに喜んでもらいたくて、
あの頃のイギリスに行ってみて
欲しいんだ。
義兄さんがいて、
毎朝、コーヒーを入れて、
庭の手入れをしていたって、
言ってただろ。
一番幸せな日々だったって」
二人の間に、沈黙が流れた。
「えっ、ほんと?あの日に戻れるの?
なんて素敵なんでしょう」
姉は、嬉しそうに笑った。
そして、私は実験に成功した。
私が一生をかけて研究した、
タイムマシンで、過去への起動を
完成した。
その証拠に、
あの頃のイギリスの写真を見ると、
若い姉と、車椅子の姉が、
仲良く写っている。
私は、世界中から賞賛され、
歴史に名を刻んだ。
しかし、姉はいなくなってしまった。
わかっていたこととはいえ、
寂しかった。
姉は、どうだろうか。
残り少ない日々、毎日、
写真を眺めるようになった。
何枚かある写真の中に、
冬の写真があった。
窓の外、庭には雪が積もり、
部屋の中の様子が写っている写真。
あっ……車椅子の姉が泣いている。
昨日は笑っていたのに……
まさか、姉も寂しいのか。
私は、憧れていたアインシュタインが、
核を悔いたように、
タイムマシンを悔いることになった。
私は、一人、神に祈った。
せめて、死ぬ前に、姉の亡くなった日を、
写真の中で知ることは、
できないものだろうかと。