化粧師と大天狗妖狐 2
化粧師と大天狗妖狐、通称、くさときつねの二話目です。
九三郎と天孤の出会いの物語になります。
一話目を読んでなくても読めると思いますが、一話目も読んでいただけると、嬉しいです。
目に見えるものだけが、全てではない。見えているものが、全て本当のものとは、限らない。
この世に先にあったものがどちらなのか。もしかしたら、妖ものは人よりもずっと前から、この世のものだったのかもしれない。
時代は、いつのことか、はるか昔のことか、今から少し未来のことか、そんな曖昧な時代と、場所。貴方様達のいる世界と、果たして同じか否か。
そんな妖がたりをお聞かせしましょう。
化粧師の九三郎と、大天狗妖狐の天孤との出会いの物語。
宿場町は人でごった返していた。
高い山の手前。山越えをするもの達は、この宿場で鋭気を養い、一時の安らぎを得て山を越える。また、山を越えてきた者達は、ほっと、草鞋を脱ぎ疲れた体を癒す。そんな宿場町で、今、実しやかに囁かれていることがあった。
「あの山には、でっかい天狗様が住んでるんだ」
宿屋の近くの酒場で、隣に座った男が話しかけてきた。
「天狗?」
「何人ものやつが見てる。真っ黒な羽で山伏みてぇな格好で、あの山のてっぺんにある俎板平に突っ立ってたって!」
俎板平とは、木々さえ生えぬ、岩盤が突き出た、切り立った山の頂きにあるほんの畳半畳程の平たい大地のことだという。
「あんなところに登れるやつなんかいやしない。しかも、このまちから見ても、その天狗の姿ははっきり見えたんだ!ありゃぁ、大天狗様に違いねぇよ」
男の話ぶりから、天狗を神の使いだと思っているのだな、と、年の頃三十路ちかくの旅の男は猪口に酒を注ぎながら聞いていた。
「天狗様なら、悪いことじゃねぇだろ?」
すると、男は妙な顔で旅人を見た。
「おめぇさん、ここの山の噂を聞いたことねぇのかい?」
「うわさ?生憎とこの宿場に来たのは、昨日でね」
とんと知らない、と首を振る。
最近、山から奇妙な甲高い聲が聞こえるのだという。しかも、山越えしようとした旅人が、その聲のあと、幾人も山の中で死んでいると。
そして、必ず、聲が聞こえると、大天狗が姿を現すのだという。
「甲高い聲が聞こえたら、まず山に入らねぇこった。大天狗様に魂を抜かれちまぁさ!」
「それは、本当にその天狗の仕業なのかい?」
旅の男が尋ねると、酔っ払った赤ら顔の男は一瞬ポカンとして、それから怒り始めた。
「あんな屍人をみたら、妖もんの仕業だと思うさ!」
どうやら、山で死んだ者達の姿は、世にも不気味なものだったようだ。
「でもよ、明後日にはあの大天狗様も年貢の納め時よ」
「何か、あるのか?」
「なんと、明日、あの比叡山で修業を積み、数多の怪異をたちどころに晴らしたと都でも有名な修験者、道玄様が、お弟子を連れて祓いに来てくれるのさ!」
赤ら顔の男は、さも得意げに言いながら旅の男の肩を叩いた。
「だぁら、おめぇさんも、山を越えるなら、三、四日はここにいた方が身のためだぜぇ」
「…なるほどな。ご忠告ありがとよ」
旅の男はグイッと酒を飲み干すと、勘定を店の娘に手渡して、自分の荷物を背負い、店を出た。
外は暗い。月明かりがほんのりと俎板平のある山を映し出す。あのてっぺんに…天狗が、ねぇ?男はふ、と口元を緩ませて今宵の宿へと向かった。
旅の男は、化粧師を生業として、諸国を歩いていた。名を、九三郎と名乗った。
まだ明けきらぬ早朝、うつらうつらと浅い眠りから目を覚ました九三郎は、安宿の布団の上で二度寝を決め込もうとした時だった。
ぎゃぁぁーー、という、叫び声に似た断末魔のような音が空から降ってきた。何事か、と二度寝しようとしていた九三郎は飛び起きた。すると、町のあちこちで人が騒ぎ出した。
「大天狗様だ!」
その声を聞いた九三郎は、宿の障子戸を開け、通りの方から山を見上げた。まだ薄暗い。俎板平の方角をみんなが見ている。遠く離れたこの場所からでさえ、その姿を見ることが出来た。大きな黒い羽。真っ黒だ。明けきらぬ空の群青さえも塗り替えてしまいそうな、闇の色をした、羽。
(あれが、大天狗…?)
九三郎は目を瞑るとゆっくりと開く。そこには真っ赤に燃え盛るような両の眼。本当に、あの天狗が悪事に染まっているのか、真の姿を…見通す。
しかし、大天狗は何かを察知したように、九三郎が目を完全に開く前にその場から姿を消していた。
早朝からの大天狗騒動で叩き起された九三郎は、不機嫌面で朝飯の目刺しを頬張っていた。ろくに眠っていないせいか、いつもよりも目尻が下がって今にも目を瞑ってしまいそうだ。
町はどうにも落ち着きがない。二膳目の飯をお代わりして、腹に収めていると、店の女将がバタバタと台所から出てきた。
「道玄様だよ!来てくださったんだ!」
昨晩、酒場で男が言っていた、件の修験者の話を思い出し、九三郎はちら、と店先に出た女将の背中に視線をやった。
店の外の通りは、人が溢れているようだ。九三郎は立ち上がると、朝飯の代金を置いてふらりと店先に出てみた。
「道玄様のお通りだ!」
シャン!シャン!と鉄製の錫杖を鳴らしている一同が目にはいった。身の丈は、一本歯の高下駄を履いているせいで、六尺ほどに見える。山伏の格好で弟子らしき者達三人を引き連れ、堂々と道の真ん中を歩いてゆく。
(随分と仰々しい…)
九三郎はあまり関心を示した様子はなく、その場を立ち去ろうとした。どん、と腿の辺りに鈍い衝撃があり、足を止める。
足元で「ぎゃっ!」という声が聞こえた。九三郎が目を向けると、そこには、丈の短い赤い着物に白い長足袋と草履姿の、真っ黒なおかっぱ頭が尻もちをついていた。
「悪い悪い、お嬢ちゃん。怪我しなかったかい?」
鈍い衝撃がその童女だと分かると、慌ててしゃがみこんで起こしてやる。おかっぱ頭の童女は、怪訝な顔で九三郎の手を握り返し立ち上がった。
「デカい図体で、ボケっとしてるんじゃない!危ないだろ!」
童女は怪訝な顔はどこへやら、立ち上がるなり、仁王立ちして九三郎をキッ!と睨んでくる。しかも、なんとも可愛い容姿にそぐわぬ、気の強さだ。
「あーあー、すまねぇな。お嬢ちゃんが小さすぎて気づかなんだ」
「小さいとはなんだ!お前!生意気だそ!」
小童に生意気、と言われるとはねぇ…。九三郎は苦笑した。
そんな九三郎に、童女が喧喧囂囂とまくし立て始めようとした矢先、腹の虫がぐぁうううーー、と、けたたましく鳴り響いた。それには九三郎も驚いた。
「なんだ、お前さん、朝飯もくってねぇのかい?その腹の虫の音じゃぁ、晩飯も食ってなさそうだな?」
「っ!う、う、うるさい!」
「…そうさな、朝飯くらいは奢ってやろう。転ばせた詫びだ」
真っ赤になって腹をさする童女の頭をわしゃ、と撫でると連れ立って蕎麦屋に入った。
「い、いいのか?!」
童女は、先程までの怒りをすっかり忘れ、入った先の蕎麦屋で好きなものを頼めと言われ目をらんらんと輝かせている。よほど腹が減っていたのだろう。
「じゃあ、これだ!狐饂飩、お揚げが二枚のやつ!」
「なんだ、お揚げが好きなのか?」
「甘くって、うまいだろ!」
子供だな、と口をついて出そうになるが曖昧に頷くだけにして、店主に狐饂飩と熱燗を一本注文した。
「なぁ、お前、さっきの騒ぎがなにか知っているか?」
童女はソワソワと狐饂飩を待ちながら、気になっていたことを尋ねた。
「ん?あぁ、…なんでも、山の天狗を退治する…たしか…どう…道山?道玄…?とかいう修験者らしいぞ」
そう話してやると、すぐに饂飩と酒が運ばれてきた。店主は二人を怪訝な顔で見ながら引っ込んでいく。
(親子、にはみえねぇか?)
「……そうか、天狗退治に来たのか」
童女は少し難しそうな顔をしていたが、すぐに目の前の饂飩に夢中になった。
「美味そうに食うねぇ」
ズルズルーっとうどんを勢いよく啜り上げ満足そうな童女は、見ている方が幸せになれそうな程だった。
「お前、いいやつだな!」
「あのな、俺は、九三郎。歳上なんだからちゃんと敬って九三郎さんって呼べよ」
酒を傾けながら、どうでもいい話をしながら酒を飲むのは、いつぶりだろう、と思わず笑みが零れた。
「九三郎…?長い名前だな…俺が新しいの考えてやる。お前は、今日からくさだ!つんつんしてる髪の毛が山に生えてるくさみたいだしな!」
童女はいい名前を付けてやったぞ、感謝しろとばかりに得意顔でお揚げを頬張っている。
「あのな、人の名前を勝手に縮めるんじゃぁ、ないよ」
やれやれ、と肩を竦めた九三郎は、まだざわついている町の様子を気にしていた。
狐饂飩をたらふく食べた童女は、綺麗に汁まで平らげて満足そうにひょいっと椅子から土間に飛び降りた。
「じゃあな、くさ!狐饂飩うまかったぞ!」
そういうなり、賑やかな通りへと飛び出してあっという間にいなくなった。
「えっ、おい!」
名前も聞いてはいなかったが、もう会うこともないだろう、と苦笑した。久方ぶりに誰かと向かい合って座卓に座った気がした。もうずっと、ひとりで旅をしてきた九三郎には、悪くない一日の始まりだった。
蕎麦屋を出ると、通りは先程より人が溢れていた。
「道玄様が悪い天狗を退治してくれる!」
「これで、この宿場も平和になる!」
まったく、人というものは、手のひらを返すのがなんと巧妙なことか。
その昔、天狗は神と同等、崇められこそしたものだ。今では、妖もの扱い…。
人々の喧騒を引き裂くような声が、響く。宿場の長の屋敷からあの修験者が弟子達と共に出てきた。
「如何に悪運強し天狗といえど、この道玄の敵ではない!たちどころに、この怪異を収めてみせよう!!」
すると、人々は歓声を上げた。その熱狂に異常さを感じているのは、どうやら九三郎だけのようだ。
(まるで民衆を煽動している…)
「そして、ここに、さらなるご利益のある札がある!この札を持ち歩けば、たちどころに病は治り、滅入っている気持ちも晴れる!道玄様直々にお示しになったもの!一枚、金一両になるが、高いと思う心には悪しき魔物が巣食うであろう!」
弟子が声高にそう言いながら他のふたりが札を掲げている。
「ぜひ!ぜひ一枚!」
二間ほどの幅の道には、人があちこちから溢れだし、あっという間に道玄の周りには札を買い求めるものが我先と争って人集りができた。
(あの札は…?)
遠巻きにそれを見ては、掲げられた札に異様なものを感じた。見たことの無い文様だ。
「あー、ありがたや、ありがたや」
蕎麦屋の店主が金一両と引き換えに頂いた札を大事に拝んでいる。
「すまんが、見せてくれないか?」
そう九三郎が頼むと、蕎麦屋の店主はものすごい形相で九三郎を睨みつけた。
「他所に行きな!これは道玄様がワシのために下さった、ありがたーーい御札なんだ!」
「っ…そ、そうか」
先程まで、無口で無愛想そうにはみえたが、こんなにまくし立てるとは、九三郎も驚いた。仕方ない、と、ほかを当たろうとしたが、誰も彼もが大事に札を抱えていて、文様が見えない。
(これはどういう事だ…)
「ありゃぁ、傀儡の札だね」
ふ、と声のした方を見ると先程の童女が九三郎のすぐ側に佇んで腕組みしながらまちの人々を見ていた。
「傀儡?」
「お前は、不思議なやつだな?あの者の力が及んでいないようだ」
童女はじっ、と金色の目で九三郎を見上げている。しかし、すぐに目をそらすと騒ぎの渦中で仁王立ちする道玄へと視線を移した。
「あの男は、傀儡師さ」
妙に大人びた話しぶりの童女を訝しみながら、童女に倣うように視線の先に道玄を見据える。
「傀儡…人心を操るということか?」
「人心も、その身体も操るよきっとそのうち、大きな事が起こるよ。糸が張り巡らされてる」
身も心も操る、とは…?糸?
九三郎が問いかけようと視線を童女へ向けると、既にその姿はなかった。
九三郎は見失った童女を探すものの、見つからず、彼女の言った言葉を思い出していた。
(傀儡…糸…)
張り巡らされてるとはどういうことか…。すっかり日が暮れはじめ、道玄は村長の屋敷でもてなされているようだ。通りは閑散としている。道玄が山に向かうのは今宵夜更けなのだろう。仕方なく九三郎も宿に戻った。
宿の女将も旦那も、例の札を買い求めたようで、互いに一枚の紙切れを大切に懐にしまっていた。
「女将、銚子を二本頼む」
九三郎が商売道具を背負ったまま部屋に入る前に声をかける。しかし、気さくな女将はどこかぼんやりとしていて、声が聞こえていないようだった。
妙な具合だ。
九三郎は宿の女将と旦那を見ながら、どこか心がざわつくのを覚えた。二人は心做し…、と言った具合だ。
「女将!」
少し声を大きく呼んでみても、無反応。
(おかしい…)
九三郎はすっと目を瞑り、ゆっくりと開く。真っ赤に燃える両眼が二人の姿を捉える。
(!これは?!)
女将と旦那の体には、目に見えない虹色の糸が絡まっている。その糸は家の外へと伸びていく。まるで生きているかのように蠢く糸は、不気味に見えた。
(張り巡らされてる…とは、この糸のことか)
九三郎はキュッと眉間にシワを寄せ、宿の外へ出た。すると、通りには無数の糸が這いずり回っている。屋敷や店から伸びているそれは、うねり、絡まりながら、村長の屋敷の方へ伸びていた。
「傀儡師…」
この糸で人々を操るのか!と、九三郎は糸を辿っていく。村長の屋敷まで来ると、その糸は意に反して村長の屋敷の前を通り過ぎ、あの山の入口へと伸びていた。
(これは…天狗などではなさそうだな)
山で起きていると言われた怪現象は、天狗の仕業ではない。虹色に輝く不気味に動く糸を手に取り九三郎は思った。
(牛鬼…土蜘蛛…だ)
名よりも見るは恐ろし…と称されたことのある妖怪、牛鬼(うしおに、または、ぎゅうき)と呼ばれた。
牛頭に鬼の体と言うものもあり、またあるものは、牛頭に大蜘蛛の体…とも言った。一方で土蜘蛛とは、「天皇に従わぬ豪族の蔑称」としても使われていた。彼らは、切り立った岩山に住んでいたとされる。それがいつしか、同じもののように扱われ、牛頭に大蜘蛛の体を持つ、岩穴に巣食う人喰いの妖怪のことを土蜘蛛、と呼んだ。
源某が、その昔退治したとされたが、腹を割いた際に、大量の髑髏と、人の子供ほどの大きさの数百もの子蜘蛛が飛び出してきたと言われる。退治したはずの土蜘蛛の子が、逃げおおせていたとしても、不思議はない。
この虹色の糸は、土蜘蛛が餌を引き寄せるための糸なのかもしれない。となると、傀儡師と言われたあの道玄…もしかしたら、あの一味も…人ならざる者…。
九三郎はひとまずまだ町で大きな騒ぎにはなっていなさそうだと道玄たちが山に向かうのを、そっと隠れて待った。
四半時も待った頃、村長の屋敷の戸が開いた。咄嗟に物陰に身を隠す。すると中から道玄と弟子二人が表に出てきた。何やら相談事をしている。手には提灯と、皆に売り渡していた札を持っている。
(傀儡の、札…)
三人は、あたりを警戒しながら村長の屋敷から使用人を二人、まだ幼い娘二人を連れ出した。村長の孫だろう。連れ出された四人は別段抵抗するわけでもなく、三人のあとに続いて歩いていく。九三郎が眼を使うとその理由は一目瞭然だった。四人はまるで蚕のように虹色の糸でその体をぐるぐる巻きにされていた。己の意思を失くしたもののように、四人が歩いていく。九三郎は荷物を下ろすと、筆を二本と真っ赤な紅をひとつ、懐に入れ、道具箱は薪小屋に隠し、彼らの後を追った。
彼らは、旅の者が通る山の入口から外れて、腰の丈ほどの熊笹が茂っている獣道を歩いていく。がさがさ、と音を立てて歩いていくのは、後を追う九三郎にとって好条件だった。木立が月明かりを遮って、目の前の背中を追うので精一杯な暗さだ。後ろをついてきているなどとはゆめゆめ思うまい。
笹の背丈は徐々に高くなる。足場は悪く、大きな岩があちこちに転がっている。黙々と歩く彼らは、草を掻き分け、掻き分け、奥へ奥へと歩いていく。ふ、と九三郎はあたりを見回した。街道とは違う景色。やがて拓けた場所に出るようだ。九三郎は少し歩みを止め、隠れられそうな大木に身を隠す。
道玄は大きな切り立った岩山の前に立ち、シャン、と錫杖を鳴らした。すると、岩山がゴゴゴ、と重い音を立てて動いた。
岩山と思っていたそれは、大きな大きな岩の戸になっていたようだ。木陰から覗くと、虹色の糸は、その中へと続いていた。
(土蜘蛛…牛鬼の住処か…)
岩戸が開くと、中はポッカリとくり抜かれたような洞穴になっていた。その中から丸太のようなものが、ぐぐ、っと出てきた。太いそれは真っ黒で、よく見ると太い毛のようなものに覆われている。それが、一本、また一本、と出てくる。少しすると、洞穴から大きな頭が出てきた。それはまさに、魔物のそれで、足とおなじ真っ黒な角の生えた牛に似ている。よだれを垂らしながら、牛頭は鋭い牙をカチカチと鳴らし始める。
道玄たちは、その姿を見て頭を低く下げ、そろそろと後ずさる。連れてこられた娘と、童女を置き去りにして。
(これは、生贄…?)
九三郎が考えあぐねいていると、その娘達の上をなにか大きなものが通過していく。
「?!」
真っ黒な羽、漆黒の髪、その頭には真っ白な耳。
「おい、お前!ここはもともと俺のしまだぞ。お前が妙なことをするから、旅人の数も減って退屈になってしまっただろう!」
身の丈は6尺6寸ほどありそうな、羽根を生やした男が、娘達の前に立ち塞がり、牛頭を目掛けて文句を連ね始めた。
「道玄さま、あれは、天狗では?!」
「まさに。あれこそ大天狗…なんでも狐と天狗の間の子と言われた…半端者だ」
道玄はその青年の後ろ姿を見て鎖鎌を袂から取り出した。大天狗は牛鬼に説教をたれている。
「あやつの首を取り、妖ものに触れ回れば、またひと稼ぎできる」
それを聞いた九三郎は咄嗟に飛び出し、後ろから襲いかかる。驚いた道玄は鎖鎌を取り落とした。
「貴様!何やつ!」
「おまえさんは、この土蜘蛛に怪異を装わせ、札を高値で売り歩いていたんだな」
大天狗はその騒ぎに気づき、九三郎と道玄たちを見て、驚いた。
「!お前はくさじゃないか!どうしてこんな所に…」
一瞬気を取られた大天狗の後ろで、土蜘蛛が大きな足を振り上げた。そして、今朝方聞いた、耳を劈くようなぎゃぁ!という声が響き渡る。町の方で聞いていた時よりも、鼓膜を直撃するその悲鳴に思わず耳を塞いだ。その隙に、道玄は九三郎の腕から逃れ、生贄の娘を一人連れてその場から消えた。
「!危ない!」
土蜘蛛が振り上げた丸太のような足が、大天狗の狐に振り落とされる直前で、九三郎は左手のひらに筆で『止』と書き、両の手をパン!と合わせると、大きな土蜘蛛の動きを止めた。
何事が起こったのかわからず、大天狗はキョトン、としていたものの、すぐにその場から空へと逃げた。術はそのすぐあとに解け、大蜘蛛の脚は地面に叩きつけられた。
(なんていう力だ)
大蜘蛛は獲物を仕留め損ねたと血走った目をぎょろぎょろとさせ、未だ操られ佇む娘を見つけた。九三郎は娘を庇い大蜘蛛の前に出る。娘と童女たちの術をとかねば、と、両の眼の力を解放し、糸の元を探った。すると、袂に入れてある札から糸が伸びている。九三郎は三人の札を奪い、筆に紅を付けると、『裁』と手早く印す。すると、札は細かく裁断され、操られていた娘達は正気を取り戻した。自分の置かれている立場が全く理解出来ていない様子だった。
「……きゃぁぁぁぁ!!!」
正気に戻った娘が、九三郎の後ろににじり寄る大蜘蛛を見て大きな声を上げた。
「すぐに逃げろ!子供らを連れて、できるだけ遠くに!」
九三郎の言葉に、娘が慌てて童女を二人連れてその場から転がり落ちるように逃げてゆく。
九三郎はそれを見るや、振り向きざまに再び眼を使う。
九三郎の眼は、この世ならざるものを視る力と、そのものの本質、真の心を見透かす力が備わっていた。
大蜘蛛は恐ろしい顔で丸太のような脚を振り上げる。
「真の心を現せ」
真っ赤な眼で妖を見上げる。
妖には妖の心がある。
なぜ今まで眠っていたものが、再び悪さをしだしたのか…。それを見極める必要があった。
大蜘蛛は、九三郎の眼力に、金縛りにあったように動かなくなる。そうして、ゆっくりと眼の中に妖の心が流れてくる。
大蜘蛛は、まだ体も小さく、この岩の洞穴の奥で眠りについていた。ただ、その命が終わるのを、眠って待っていた。
自分が、いかに恐ろしく、生きてはいけない存在か、大蜘蛛の子は知っていた。だから、何も見ず、何も食わず、ただ、終わるのを待っていた。
ある日、子どもがこの山に迷い込んだ。激しい雷雨が轟き始め、咄嗟に岩窪の影に身を隠した。大蜘蛛の子は、初めてヒトに出会った。やせ細って、子犬ほどの大蜘蛛の子は、雨宿りをする子どもに興味を示した。なんだろう、とても甘い匂いだ。とても温かい。ふさふさの足を出してみる。すると子どもは、びっくりしたものの、そのふさふさの毛に、なにか小さな獣の足だろうと安心したようだった。
「お前も雨宿りか?迷子になったのか?」
子どもは優しく優しく大蜘蛛の子の足を撫でた。その優しさが、この妖に体温と優しさを教えてくれた。
「友達と喧嘩をした」というその子どもの話を聞くのが、とても新鮮で、自分にも「友達」が欲しいと思った。
「なんだ?お前友達がいないのか?それならオレがなってやるよ」
大蜘蛛の子は嬉しかった。それから、その子どもは無事に村に帰ったが、数日後、また現れた。現れては、雨宿りした洞穴に座り、大蜘蛛の子に話しかけていた。
時折持ってくる木の実や野菜は、あまり美味しくはなかったが、それでも食べた。子どもは『一太』と名乗った。
「お前にも名前をやらなきゃな。名前っていうのは、呼ぶ人がいるから付けるんだ。お前のことは、俺が呼ぶから、とても重要だぞ」
一太は足しか分からぬ存在に、臆することもなく、名前を真剣に考える。
「黒いから…黒獣にしよう。強そうだろう?」
その日から、黒獣と呼ばれた。なんだか、とても誇らしかった。土蜘蛛はそれまで生きたいと思ったことは無かった。しかし、名を与えられると、もっと、もっと、一太に名を読んでほしいと願った。
しかし、長い間何も食わず飲まず、挙句に木の実や野菜では、大蜘蛛の体が持つわけがなかった。ある夜、それは突然訪れた。
もう、このまま一太には会えぬのか、最期の力を出し切って岩穴から出る。
一太には、一度も姿を見せたことは無い…こんな姿を見たら、もしかしたら恐ろしくなって二度とやって来てはくれないだろう。だからこれでいいんだ。このまま朽ちて逝けばいい。そう思ったその時、遠くから人が近づく気配がした。
そのもの達は錫杖を鳴らしながら近付いてくる。大蜘蛛には、その音が不快で仕方なかった。暴れだしそうになるのをこらえながら、その男達を見た。修験者の格好をした、恰幅のいい男達だ。
「こんなところに、思いがけぬ物の怪がおったとは。しかし随分と噂とは違うな…食うものも食わずに来たのだろう…」
すぐに腹いっぱい食わせてやる。男達はそう言って、錫杖を打ち鳴らす。頭が割れそうだ!大蜘蛛はのたうち回り、そのうちに正気を失っていく。一太、たすけて!そう叫んでいた。
一太との出会いで、ただ悪だった大蜘蛛には、優しさが芽生えていた。生きたいと思い願う反面、何れは別れねばならぬことも。その芽生えていた優しさを、容赦なく錫杖の音が摘み取っていく。楽しかった思い出も、理性も、何もかも。
錫杖の音に気づいたのか、虫の知らせか、一太が駆けつけてきた。一太は男達に囲まれた大蜘蛛の子を見て、それがすぐに黒獣だと分かった。
「お前達、黒獣に何をした!!」
大人に食ってかかる一太。それをやすやすと捕まえた男達は、大蜘蛛の前に突き出した。
「丁度いい。一番目の餌が来た」
「!」
大蜘蛛は錫杖の音をシャン!と聞くと背中を大きく震わせて、そこから牛の頭をムクリと起き上がらせた。
「黒獣!!お前なんだろう?!俺だ!一太だ!」
一太は、必死に声をかける。
しかし…、運命とは無情…。そこに居たのは、かつての優しさを持った黒獣ではなかった。ただの、腹を空かせた大蜘蛛だった。
その錫杖で大蜘蛛を操った男達こそが、道玄たちだったのだ。
錫杖の音を聞く度、我を忘れ、朝が来れば黒獣だった頃の自分を取り戻す。
一太を食らった…。柔らかな子供の肉の味、滴る血の甘さ、一太の苦悶に歪む顔と、恐れの声…全て、覚えていた。優しかった一太は、自分の醜い姿を見ても、恐れず、すぐに気づいてくれた。自分を守ろうとしてくれたのに……。
その日から、道玄たちに札に糸を結ばれ、操られるようになった。錫杖の音で我を失い、札の力で操られた人間を食らうことになった。妖力も体も大きくなったが、大蜘蛛の心は、空っぽだった。いや、悲しみという心で押しつぶされていた。もう、名を呼ぶ一太はいない。己の名を呼ぶものは、一人もいない…。
『ダレか、殺シテくれ…、モウ、ダレも…食ベタく、ナイ』
「……」
九三郎が眼の力を解くと、大蜘蛛は金縛りから放たれた。しかし、既に襲ってくることは無かった。
「…あぁ、わかったよ」
お前が、黒獣でいる間に…、一太の元に…。
大蜘蛛は少し笑ったように見えた。
九三郎は、筆を取り出し、左手に紅で『封』と記す。
「人ならざるもの…」
九三郎が声を出すと、突然シャン!シャン!と錫杖が打ち鳴らされた。
「!」
それまで大人しかった大蜘蛛は、突然のたうち回り暴れ始めた。太い脚が、辺り一体を薙ぎ払う。九三郎も咄嗟に避けようとするもまともに腹にくらって飛ばされた。
「ほら、餌だ」
道玄たちが戻ってきたのだ。連れて逃げていた娘を大蜘蛛の前に放り出す。我を忘れた大蜘蛛は、ヨダレを垂らしながら女に襲いかかろうとした。
大蜘蛛の前足には、大きな鉤爪がある。その鉤爪がザクッ、と肉に刺さる。しかしそれは、女ではなく、庇うように女に覆いかぶさった九三郎の背中だった。
「おまえさん、…黒獣さんよ。もう、誰も食べたくないんだろ?…っ、もう、…誰も殺したく…ないんだろう…?」
鉤爪を引き抜き、血を吐きながら立ち上がる。
「その想い…、ちゃあんと、聞き届けてやるよ…」
大蜘蛛は、黒獣と名を呼ばれ、たじろいでいる。
「此岸より、彼岸へ…っ、みちび、こう…」
『印!』
九三郎は、両手をパン!と打ち鳴らすと、傷の痛みを受けた時よりも、苦しそうな、悲しそうな顔で大蜘蛛…黒獣を見上げていた。やがて一筋の閃光が放たれる。そうして、目の前の大蜘蛛はまるで光の玉になったように、姿を消した。
「あ、あやつはいったい…!」
それを一部始終見ていたのは、道玄たちだ。
「おめぇさんたちには、はなしが……」
九三郎が意識を保てたのはそこまでだった。
この事の顛末を見ていたのは、道玄たちのほかにもいた。大天狗の狐だ。空に逃げた大天狗は、九三郎がしていたことを一部始終見ていた。
その妖封じをする九三郎を見て、興味が湧いた。だから、気まぐれに降り立った。意識を失った顔の白い男をマジマジと見て、このままでは死ぬな、と冷静に判断する。そして、血の儀式を始めた。
相手の了承を得ず、血の誓を交わせば、少なからずとも互いに不便が生じる。だが、それもこの長い命からしたらほんの一瞬、大したことではない。それより、この男のことが、もっと知りたくなった。
「くさ、お前は今日から、俺とともにある」
大天狗は少し高慢な笑顔で、九三郎の血と己の血を混ぜ、呪いをかけた。
九三郎が目を覚ましたのは、三日後のことだった。
宿場町の長の屋敷だった。
「ここ、は?」
「目が覚めましたな、旅のお方」
そこには年老いた長と、あの晩、大蜘蛛の元に連れていかれた娘がいた。
「我々の命をお救いくださいまして…なんとお礼を述べたら良いか…!」
九三郎は胸に巻かれた包帯に気づいた。ゆっくり起き上がるが、あの晩受けた傷の痛みがほとんどない。
「あの道玄という修験者が、我々を操っていたのだと聞きました」
うまく事態が飲み込めない九三郎に、娘が順を追って説明してくれた。あの晩、大蜘蛛が姿を消し、糸の効力がなくなったのか、村人は正気に戻ったという。道玄たちもまた、姿をくらましたが…。怪我をした九三郎を、あの山の大天狗がさらわれた娘達とともに明け方前に降りてきたのだという。その際に、九三郎が道玄たちの悪行を成敗した!と大天狗が言ったそうだ。もうこの街道にあやかしは出ない、とも。もちろん、訝しんだが、長の娘達がどんなに恐ろしい目にあったかを説明すると、皆信用したようだった。
(なるほど、…しかしなぜ、怪我が治っているのかは説明がつかんな…)
ともあれ、皆が無事で何よりです、そう言って九三郎は暇しようとした。その背中にドン!と体当りしてきたのは、いつぞや町で会った童女だった。
「おい、くさ!目が覚めたのか!お前は、ねぼすけだな!」
「あらあら、天孤ちゃん。九三郎さんは怪我をしていたのよ?あまり無茶したら…」
「天孤ちゃん?」
「九三郎様のお連れ子じゃないんですか?」
いつの間にそんな話に?!と慌てた九三郎の耳元に天孤なる童女が耳打ちする。
「お前の命を救ったのは、俺だぞ。大天狗の妖狐、天孤だ。それから、これからはお前は、俺から離れることは出来んぞ。血に呪いをかけた」
ドヤ顔でそういう天孤に、一抹の不安がよぎる。大天狗の妖狐というのは、あの黒い羽根を生やし、道玄たちが半端者、と呼んだあの大天狗の狐だろうか?妖に命を救われた対価は如何程か…。ぐるぐると考えるも、答えには辿り着かず…。
「天孤ちゃん、お昼は何が食べたい?」
「狐饂飩だ!」
あまりに馴染んでいる妖怪に、頭を悩ませることになった。
そして、これからの旅が、賑やかになる反面、面倒事も多くなる予感が拭えなかった。
その後、わかったことだが、あの夜連れ去られた娘のひとりは、一太の姉だった。一太は、あの山に友達が出来たと、喜んでいた…。しかしそれが良くないものだとも分かっていたから、父も私も山に行くのを何度も止めたのだという。
「それでも、たとえ、悪いやつだったとしても、自分といる時のあいつは、心優しいやつなんだ、根っからの悪いやつなわけがない…そう言ってました」
悪いやつか、そうじゃないか…きっと、一太は、黒獣の本当の心を知っていたのだ。
誰も傷つけたくなくて、自ら命を終わらせようとしていた、優しい妖のことを。
二ノ怪 幕
感想をいただけると、嬉しいです。