三
しかし――男はすぐに動きを止めた。
頭痛に襲われたようにこめかみに手を当てている。
「くっそ……見つかった」
舌打ちをした後、盛大に顔を顰めた。
「何だよ、どこにいようと勝手だろ。は? 見えてるって?」
男が急に一人で喋り出したので、隆太は唖然とした。スマホのイヤホンでもつけているのか、見えない相手と会話をしている。
「俺はただ悪ガキを懲らしめようと……こ、殺すわけないだろう! おまえの指図は受けないぞ。だいたい、直接声が届かなければおまえの支配権は……いや、腕に怪我をさせたのは悪かったが……はあ? 脅してるのかそれは! か、唐揚げだと……!?」
声にあからさまな動揺が混ざった。
彼はしばし無言になり、低い声で分かったよと答えた。
隆太の体が大きく揺れた。ひいっと悲鳴を上げた隆太のリュックを掴み片手で引き上げた男は、不機嫌極まりない表情になっていた。
「いいところだったのに、クソ真面目な女に邪魔された。命拾いしたな」
腕一本で目の高さに吊り上げられ、翡翠の瞳に捕らえられる。
近くで見ると、明らかに異質だった。姿形は人間と同じだが、纏っている空気が、臭いが、子供でも分かるほどに違う。これはヒトなんかじゃない、ケダモノだ――。
咬まれる、と隆太は身を竦めたが、男は興味もなさげに彼を手放した。隆太は慌てて行桁の鉄骨にしがみついた。
助かった、助かったんだ――安堵のあまり新しい涙が零れた。体中が痛いことも、ハーフパンツの股間が生温かく湿っていることも、今は気にならなかった。
男はフンと鼻を鳴らして、あっさりと踵を返した。横風をものともせずに、悠々と歩み去って行く。
呆然と見送っていた隆太は、ふと我に返った。
「ね、ねえ! こんな所に置いてくなよ! 下に下ろしてよ!」
一人で下りられるわけがない。朝になって誰か来るまで待つなんて耐えられなかったし、この港から家までの帰り道も分からなかった。目下の不安が、吸血鬼の機嫌を損ねたらまた酷い目に遭わされるかも、などという現実的な判断力に勝っていた。
「下ろしてってば! 吸血鬼のお兄さん!」
ヤケクソ気味に叫んだら、黒衣の背中が立ち止まった。
「……ああもう、最後まで面倒見ればいいんだろ」
心底うんざりした返答は、隆太ではなく別の誰かに向けられていた。いたずらが露見し、説教された上に後片付けを命じられた悪童のようだった。
そいつが振り向いた、と思った瞬間に体が浮いていた。隆太を荷物みたいに腕に抱えると、男はいきなり虚空へ身を躍らせる。
隆太は再び絶叫した。
帰路はお世辞にも快適とは言えなかった。
クレーンから舞い降りた男は支柱を滑り降り、途中で別のクレーンに飛び移って、信じられない跳躍力で港の上空を渡った。その後も、鉄道の高架やらビルの屋上やら鉄塔の先端やらを経由し、まるで翼のない鳥のように最短距離を進んでいった。
凄い勢いで流れていく街の夜景を楽しむ余裕など、隆太にはなかった。振り落とされないように男の首にしがみつき、ひたすら歯を食い縛っていた。
「お兄さん、きゅ、吸血鬼なんだろ? 俺の血を吸うの……?」
隆太が蚊の鳴くような声でそう訊くと、男はひときわ大きく跳ね、高層ビルの壁に沿って有り得ない高さを落下した。絶対にわざとだ嫌がらせだと思った。
「小便臭いガキの血など、口に合うか」
「……もしかして……昼間の、と、鳥?」
恐る恐る尋ねてみる。根拠はなかったが、印象的な目の色と自分に向けられた悪意が、少年にそんな突拍子もない想像をさせたのだ。
男は答えず、逆に質問を返してきた。
「さっきなぜ母親を呼ばなかった? 人間の子供はああいう時、たいてい母親に助けを求める」
助けてお父さん――隆太がそう叫んだことを言っているのだ。妙なところに引っかかる吸血鬼だなと訝しみながら、
「俺、母ちゃんいねえもん。俺がちっちゃい時にリコンして出てったんだって」
「捨てられたのか」
「しっ、知らねえよ! 誰も何も教えてくれねえし! 父ちゃんは他の女連れてくるし! 赤んぼも生まれるんだってよ!」
淡々とした口ぶりにかえって腹が立って、隆太は声を荒らげた。男は横顔でくすりと笑った。
「なるほど、それでおまえは父親を盗られた気になって、自分を憐れんで、周囲の気を引きたかったんだな。人間の面倒臭い習性だ」
隆太への嫌味というより、人間全体を馬鹿にしたような口調だった。
「そんなに親や家族が気に入らないのなら、さっさと出て行けばいいだろう。首輪でもつけられてるのか、おまえは」
「子供にそんなことできるかよ!」
「だったら他人に八つ当たりせずに大人しくしとくんだな。弱いくせに。羊が吠えたって狼に食われるだけだ」
気遣いの欠片もない言葉は隆太の胸に突き刺さった。今までそんなストレートな真実を突きつけられたことはなかった。
弱い、自分は弱い――ピンチの時にすぐに親を頼ってしまうくらい。泣きながら助けてと懇願するしかないくらい。
そんな自分がこれまで傷つけられずに済んだのは、単に周囲が手加減していたからだ。弱い子供だから。
恥ずかしくて堪らなくなった。同時に、この吸血鬼はずいぶん殺伐とした世界で生きているのだと戦慄する。
やっぱりこいつ、人間じゃない。
隆太は改めてその事実を思い知って、自分が生き延びた幸運を噛み締めた。
橋の所で下ろしてと頼んだが、おまえを無事に帰さないと俺が油で揚げられるんだと言って、男は隆太を自宅まで送り届けた。
隆太の家は賃貸アパートの二階である。男は屋根を蹴って、共有部分の廊下に舞い降りた。
ぽいっと投げ捨てられるように解放された隆太は、脚の力が萎えて玄関ドアの前にへたり込んでしまった。びっくりするほど安心している。嫌で嫌で仕方がなかった自宅に帰り着けたことが、今はこんなにも嬉しい。また涙が出そうになった。
「あ……ありがとう……ございまし……た」
釈然としない思いを抱えながらも、とりあえず礼を言っておいた。時刻はもう九時近いが、こんなに遅くなって叱られるかもしれないと考える余裕はなかった。とにかく、早く帰りたい。
男は面白くもなさげに腕を組んでいたが――ふと視線を宙に彷徨わせた。隆太にはその様子が、野生の狼が耳をそばだてているように見えた。
「あ、えっと、お兄さんのことは誰にも言わないので……じゃ、じゃあね!」
何とか立ち上がり、ドア横のインターフォンを押した。以前は自宅の鍵を持たされていたが、今は家にいる義母が開けてくれることになっている。自分を待つ人がいるということが死ぬほど嬉しかった。
早く行って、という意味で手を払う仕草をしたが、男はそのまま佇んでいる。ドアはまだ開かない。再度ボタンを押す。反応はない。
バン、とドアが鳴った。
いつ間合いを詰めたのか、ドアに片手をついた男が隆太を見下ろしていた。寿命の近い廊下の蛍光灯が瞬き、ぞっとするほど整った白い顔に陰影を刻んだ。
ごくりと唾を飲み込んだ隆太に、
「おまえ、千載一遇のチャンスだぞ」
そう、低い声で囁く。
「本当に継母とその腹の子が邪魔だと思うなら、今夜は家に帰るな。そうすれば、父親はまたおまえ一人のものだ」
「何それ、どういう意味?」
とてつもなく不吉な何かを感じながら隆太は訊いたが、男は答えず、微笑んだ。隆太の背中を氷の塊が滑っていった。
無事に帰り着いたと思った。だが、ゴールの手前にとてつもなく深い穴が見えるような気がした。罠なのか警告なのか分からない。隆太の足が震えたが、帰りたい気持ちが何よりも先に立った。
隆太は目を瞑って激しく首を振った。
「嫌だ! 俺は家に帰る! あの人は母ちゃんじゃないけどっ……でも俺を待っててくれてんだ! 帰るっ!」
「急に殊勝になったな。気に食わないんだろ? 継母も、そいつを連れてきた父親も。自由になったらどうだ」
「まだそんなに強くねえもん! 帰して……お願いだから帰してようっ……」
最後の方は言葉にならなかった。堪えていた涙が溢れだして、わあわあと号泣してしまう。
男が小さく溜息をついた。
「……弱虫め」
臆病な子供を揶揄する口ぶりは、しかし、とても人間臭かった。
男は隆太を押しのけ、改めてドアに向き直る。
握った拳で軽く触れたようにしか見えなかったのに、ハンマーで殴りつけたような鈍い音が響いた。驚きの余り嗚咽が引っ込んだ隆太の前で、安普請の合板ドアに呆気なく穴が開いた。
黒い腕がその穴に突っ込まれると同時に、蝶番が弾け飛んだ。ギシギシバリバリと悲壮な音を立て、ドアはチェーンごと引き剥がされた。
「急げ」
あんぐりと口を開けた隆太の背中を、男は軽く叩いた。
ドアの取れた玄関を潜ってから我に返り、何てことするんだよと文句を言おうと振り返って、隆太は目を瞬いた。黒い姿はもう夢のように消え失せていたのだ。
遅い帰りと併せて、ドアの破損も父と義母に根掘り葉掘り問い詰められるだろう。どう誤魔化そうかと途方に暮れた。次に、あんな大きな音を立てたのに誰も出てこないことを不審に感じた。
「た、ただいま……」
靴を脱ぎつつ小さく声をかけたが、返答はなかった。突き当たりのリビングから灯りが漏れていて、テレビの音も聞こえてくるのに、人の気配だけが感じられない。
隆太は短い廊下を駆けて、リビングに飛び込んだ。
こんな時間までどこにいたの、と隆太を叱るはずの女は、ダイニングテーブルの脇に倒れ伏していた。