二
塾の入っている雑居ビルの出口から、子供たちはそれぞれの帰り道へ勢いよく散っていった。
いちばん最後に出てきた隆太は、教材の入ったリュックサックを右手に提げて、だらだらとした足取りで夕暮れの道を歩き始めた。粗暴な彼は他の子供たちから距離を置かれていて、一緒に帰ってくれるような友達はいなかった。
隆太はさほど勉強が好きではない。小学三年生から学習塾に通わされているのは、父親の帰宅が毎晩遅いからだ。
二年生までは放課後を学童クラブで過ごしていたのだが、昨年からは低学年優先の定員に入れず、その代替のように塾に行かされた。平日は隔日で、今日のような土曜日は月に一度、小学校とは逆方向にある教室で算数と英語の授業を受けていた。
それでも今年の五月まではよかった。面倒を見てくれていた祖母が亡くなった後、父親が前の晩に作り置きしている総菜を冷蔵庫から出して温めて、一人で摂る夕食にももう慣れていた。
しかし今は――隆太は右手のリュックを道端の電信柱にぶつける。
年明け頃からちょくちょくやって来て、手料理を作るようになったあのおばさん。最初はお手伝いさんなのかと思ったが、どうやらあれは自分の新しい母親候補らしいと気づくまで時間はかからなかった。
ニンシンしたとか何とかで、自分の気持ちを無視して六月の初めに再婚した父親のことを、隆太は未だに怒っていた。おまえに弟か妹ができるんだよ、などと言われても喜べるはずもなかった。もちろん再婚相手も大嫌いだった。
「冗談じゃねえよ、ばーか」
隆太は、リュックを今度は歩道の境目のガードレールに叩きつけた。白い塗料で汚れてしまったが、どうせ父親はそんなことには気づかないだろう。
母親のことを――隆太がうんと小さい頃にいなくなってしまった本当の母親のことを一言も教えてくれないくせに、新しいのを宛てがう意味が分からなかった。
あのおばさんの腹が日に日に大きくなってくるのも気持ち悪い。それが生まれてきたら、きっと父親は自分に興味をなくしてしまうのだと思った。
八つ当たりされたリュックの中で、ガサッと乾いた音がする。食べかけのお菓子が入っているのだ。今日の昼間、あのナントカという会社でもらったハロウィンのお土産だった。大人たちに怒られるのが鬱陶しくて、結局一人で離脱して他の家は回らなかった。
みんなあんな鳥一羽で大喜びして、馬鹿じゃねえの――隆太は吐き気を催すほどの憤りを覚える。俺のことなんて誰も気にしないのに!
駅を通り過ぎると、すっかり日が暮れた帰り道は暗くなった。土曜日だからか、帰宅途中の通行人は少ない。
隆太は歩道をジグザグに、わざと時間をかけて歩いた。今日も父親は仕事で、あのおばさんが待つ家に帰りたくなかったのだ。
にゃあ、と声がした。
目をやると、電信柱の後ろからシマ猫が覗いている。いつもこの近所をうろついていて、人懐っこいので子供たちから可愛がられている猫だ。そいつは恐れ気なく隆太に近づいてきて、脚に体を擦りつけた。
隆太は周囲を見回してから、猫の首根っこを掴み上げた。猫はにゃあと鳴いたが、暴れる様子はない。その、自分は傷つけられるはずがないと信頼しきった態度が、隆太には気に入らなかった。
リュックを背負い直し、猫を掴んだままズンズン歩く。
帰路を逸れて少し行くと、川にかかった橋の上に出た。川幅は狭いが、岸は急な角度でコンクリート舗装されており、水面は三メートルも下にある。
殺意かどうかは分からなかった。たが、猫が川に流されるところが見てみたかった。泳げば面白いし、溺れたら溺れたで、死体を他の子供たちが見つけて大騒ぎになるのもワクワクした。
橋の欄干から突き出されても、猫は相変わらずだらんと伸びている。隆太は勢いをつけてそれを放り投げた――いや、投げようとした。
直前に、誰かが隆太の腕を掴んだのだ。
冷たい、と思った。腕から真冬のような冷気が骨まで染み込んでくる。
振り返る前に、その冷気に全身を包まれた。次の瞬間、隆太の足が浮き上がった。
強い力で拘束され、上方へ連れ去られていく。橋も、その上でにゃあと鳴く猫も、みるみる遠ざかった。
あっという間の出来事に、隆太は悲鳴を上げる暇もなかった。
下から吹き上げてくる強い風が、隆太の体を激しく揺らす。踏ん張ろうとしても両脚は空を掻くばかり。その下は底なしの闇だ。
風に混ざった潮の香りで、海なのだと分かる。
目を凝らせば、オレンジ色の照明に照らされた貨物船や陸に積み上げられたコンテナが見えた。どこかの埠頭らしい。まだ荷下ろし作業をしている船もあって、フォークリフトやトラックが忙しなく動いている様子も窺える。
何でこんな所にいるのか、彼は激しく混乱していた。
自宅近くの橋の上から突然何かに攫われて、まるでジェットコースターに乗っているような浮遊感と風圧を味わわされた後、気づくとここにいた。
隆太は、リュックサックを背負った状態で、巨大なクレーンの先に吊り上げられていた。
貨物用の、いわゆるガントリークレーンだ。海上へと突き出した行桁の先端に、リュックの肩ベルトで引っかかっているのだ。リュックから体が抜ければ真っ逆さまに落下して、三十メートル下の海面に叩きつけられてしまうだろう。
肩と脇がギリギリと痛んだが、隆太は必死に肩ベルトにしがみついた。
「暴れると落ちるぞ」
場違いに暢気な声は、頭上から降ってきた。
軽やかな足音がして、その主が行桁の上を移動しているのが分かった。やがて、陸側を向いて吊り下げられた隆太の視界にそいつの姿が入ってきた。
襟元から爪先まで黒一色の男だった。長い上着の裾が激しくはためいている。対照的に、首から上は象牙でできているように白い。皮膚はもちろん、風に乱される髪まで真っ白だ。そしてその顔立ちは、隆太が一瞬状況を忘れて見惚れるほど美しかった。
狭い足場、目の眩むような高所にも拘わらず、その男はごく自然な足取りで動き、ひょいとしゃがみ込んだ。なぜかポテトチップの袋を手に持っている。
「まあ下は水だ。運が良ければ助かる」
「たっ、助けて!」
日本語が通じると分かり、隆太は救いを求めた。自分を攫ったのはこの男なのだと直感したが、今は他に縋る相手がいなかった。
「助けて! お願いしますっ……助けて下さい!」
「嫌だね」
男はあっさり撥ねつけて、ポテトチップをひとつかみ口に放り込んだ。リュックに入れていたハロウィンのお菓子だと、隆太は初めて気づいた。
「おまえがそのベルトから滑り落ちるのを待つか、蹴り落としてやるか、考えていたところだ。どっちがいい?」
菓子泥棒はバリバリと咀嚼しながら冷酷に尋ねる。薄い緑色をした両目が実に楽しそうに、怯えた子供を映していた。その色に隆太は見覚えがあったが、パニックに陥った頭は正常に働かなかった。
「い、嫌だよっ、絶対嫌だ! お願い助けて、助けてよう!」
「そうやって喚かれると、ますます面白くなってくるな」
男は隆太の肩ベルトを掴んで押しやった。
片方のベルトが鉄骨から半分ほど外れ、隆太の体ががくんと傾ぐ。彼は悲鳴を上げた。汗と涙が噴き出して、頭痛とともに視界が霞んだ。
「やめてやめてやめて! お願い許して! ごめんなさいごめんなさいぃ」
泣きながら必死に詫びた。他に言葉が思いつかなかった。相手の正体や目的を探るとか、隙を見て脱出するとか、漫画やアニメのヒーローのような機転は何ひとつ利かない。
男は菓子を頬張りながら隆太の醜態を見物し、空になったアルミ袋をぽいと風に流した。粉のついた指先を舐める時、白い唇の端に牙が覗いた。
吸血鬼――その名称が隆太の心臓を凍りつかせた。
人間を襲って生き血を啜る、恐ろしい生き物だ。
「謝ったって無駄だぞ。俺は弱い者いじめが大好きなんだからな。おまえだって分かるだろ? 楽しいよなあ」
男の表情には悪意と愉悦しかなかった。いたずらっ子を懲らしめて反省を促すというような、教育的な意図は微塵も感じられなかった。言葉通り本当に楽しんでいる。相手が子供だろうが何だろうが、いたぶって泣き喚かせて飽きたら突き落とすのだろう。
その感情は隆太にも理解できた。そして、立場が逆になった時の絶望感、恐怖感を、骨の髄まで思い知った。
ごめんなさいごめんなさいと隆太は繰り返した。何に対して謝っているのか自分でも分からなかったが、喋るのを止めた瞬間に落とされるような気がしたのだ。
「ははは、人間の分際で舐めた真似をするからこうなるんだ」
「うわあああ助けてええ、お父さあああん!」
「言い残すことはそれだけか。ほら」
もう一方の肩ベルトがずらされる。体がずるっと下に滑る。しがみつきたいが、少しでもバランスを崩すとベルトが外れそうだった。もう声も上げられなくて、隆太はひいひいと嗚咽を漏らすしかかなった。
「じゃあな、クソガキ」
男は酷薄な笑みを浮かべて立ち上がった。ベルトを踏みつけ、一息に蹴り出そうとする。
隆太は絶叫した。