三
一歩通りに出ると、そこは平和な日常だった。
さっきの騒ぎなど知らない人たちが賑やかに行き交っている。再びクリスマスソングが聞こえ始め、店舗からの明かりとイルミネーションが煌々しく視界を縁取った。
「ええと……駅こっちだっけ?」
「地下鉄の方が早いよ。こっち」
日下くんは逆方向を指差して歩き始めた。
人が多いから、そう速くは進めない。ずいぶんのろのろとした歩みだったが、日下くんは別に急いではいないみたいだった。イルミネーションを見上げる横顔は、ちょっと楽しそうでもある。
「……今日は大変だったね」
「だな。でもうまく行って良かった」
「私まだ全然役に立ててないよね。撃っても当たらないし……」
「蓮村の役目は捕獲じゃないだろ」
日下くんは溜息とともに笑って、すぐに真面目な表情になった。
「おまえが現場にいると、あいつが安定する。さっきだって、以前ならあんな簡単に言うことを聞かなかった。俺はめちゃくちゃ助かってんぞ」
「そうかな……」
一応褒めてもらえたようなので嬉しかったが、エリアス絡みなのは複雑だ。私の努力の結果というわけじゃないからねえ……。
「あ、ツリー」
通りの先にひときわきらきらした電飾が見えてきた。デパートの正面玄関に設えられた巨大なクリスマスツリーである。モミの木を象った円錐形のモニュメントに金色のリボンがかけられ、赤いポインセチアや銀色の星や白い天使や、様々なオーナメントで彩られている。数百個のLEDライトは目が眩みそうなほど華やかだった。
みんな周囲に集まって写真を撮っている。私たちも足を止めて見上げた。
「俺こういうの見たの久しぶりだわ」
日下くんは目を細めて呟いた。
「クリスマスとかあんま関係ねえ仕事だし、わざわざ人混みに出かけようって気にもならなかったし」
「でもあの……誰かと一緒に見に来たことはあるでしょ。彼女とか」
つい訊いてしまって、自分でびっくりした。
九ヶ月も一緒に働いた同僚で、しかも何度か手料理を振る舞ったこともある。けれどそういう質問をする機会はこれまでなかった。捕り物を終えた直後にきらびやかな雰囲気の街を歩いて、ちょっと気持ちが浮ついているのかもしれない。
「ん……まあそういうことはあったけど」
さらっと答えられたので拍子抜けした。
そうか、そうだよな。日下くんだって私と同じ二十三歳、過去に恋人の一人や二人いて当然だ。頭では理解できても、なかなか想像がつかなかった。
学生時代の彼女だろうか。どんなお付き合いだったんだろう。日下くん、その人にあの話はしたのかな……。
問う勇気も必要性もないことを、次々と考えてしまう自分が嫌になった。
日下くんはツリーを囲む手摺りに肘をついた。点滅するライトに照らされた顔はひどく子供っぽい。吸血鬼と対峙する時の厳しさが別人のようだ。
「就職してからはそれどころじゃなかったよ。身に着けなくちゃならない知識や技術がありすぎてさ……九十九里さん、師匠としてはかなりスパルタだかんな」
「へ、へえ」
「仕事に自信が持て始めたの、俺だってつい最近だよ」
独り言みたいな声は優しかった。
あれ、物凄く遠回しだけど、励ましてくれてる……?
ぼうっとしていると、肩に何かがぶつかってきた。きゃーごめんなさいと、自撮りをしていた女性グループが謝る。イベントか何かが始まるらしく、ますます人が増えてきたみたいだ。
「そろそろ行くか」
日下くんはさりげなく私の手を引っ張って、集まってくる人の流れとは逆方向に歩き出した。相変わらず冷たい手は、掌が触れ合うとすぐに温かくなった。
通りに戻っても、私たちは何となく手を繋いでいた。
人混みの中をはぐれずに歩くには都合がよかったから、離すタイミングが見つからなかった。本当に理由はそれだけで、だから恥ずかしくも気まずくもなかったのだけれど。
私たちは駅に着くまで一言も喋れなかった。
パスケースを取り出すためにようやく手を離した時、自分の体温が半分になった気がした。日下くんは寒そうに肩をすくめて、いそいそと改札を通った。
パーティーは約四時間遅れのスタートとなった。
「えーでは、だいぶ遅くなってしまいましたが、これよりSCの忘年会を始めます」
環希さんがそう言った時、すでに時計は夜の十時を回っていた。
オフィスに残った環希さんが先行して事務作業をしてくれたおかげで、明日からの後始末がだいぶ楽になる。現場に出る人、調整する人、残って補助する人――少人数だからこそ業務分担に無駄がない。
温め直した料理が湯気を立てるテーブルの周りには、五人のスタッフ全員が集まっていた。環希さんと、スーツに着替え直した九十九里さん、シャワーを浴びてさっぱりした日下くん、私たちが戻るまでお預けを食らっていたエリアス、そして急いでタイツを穿き替えた私。
環希さんはシャンパングラスを片手に、華やかな笑顔で私たちを見渡した。
「すぐに乾杯といきたいところだけど、日下くんと絹ちゃんには先に渡しておくものがあります。酔っ払わないうちにね……九十九里くん、あれ」
「はいはい」
九十九里さんが環希さんのデスクの抽斗から取り出し、私たちに配ってくれたのは『冬季賞与』と印字された明細!
「どうも……」
「ありがとうございます!」
「二人とも頑張ってくれたからね。ちょっとだけ色つけといたわ」
可愛らしくウィンクする環希さんが天使に見える。さらに中身の数字を確認すると、女神に見えた。
社会人としてはまだまだ未熟な私だけど、戦力になっているなんて胸を張って言えないけれど、それでも評価してくれている人がいる。期待してくれている人がいる。
私ここで頑張ればいいんだな――そう、改めて思った。
奨学金の返済に充てる分、調子の悪い掃除機を買い換える分、貯金に回す分……とさっそく頭の中で電卓を叩き始める私を、エリアスが気味悪そうに眺めていた。それから不服を隠さない口調で、
「俺は? 俺には何もないのか?」
「ああ、君にはね」
九十九里さんが答えた。
「年明けになるけれど、スマホを貸与しようと思う。前々から欲しがってただろ?」
「何!」
「こちらとしても、夜間の君との連絡手段が欲しいからね」
そうか、エリアスはたいてい夜はふらふら外出しているから、いざって時に呼び出す方法が九十九里さんたちにはないんだ。
エリアスはにんまり笑っている。私たちが使っているのを見て羨ましがっていたのは知っていたけれど、でもいいのかな、スマホなんて渡して……碌なことに使わないような気がする……。
若干の不安を感じていると、
「大丈夫、フィルタリング機能付きのキッズスマホです」
と、九十九里さんが小さな声で教えてくれた。日下くんが吹き出す。素直に喜んでいるエリアスが、何だか可哀想な子に思えてきた。
「では改めて!」
環希さんがグラスを掲げた。
「皆さん、今夜はお疲れ様でした。そして今年一年ありがとう。メリークリスマス!」
かちんと合わさったグラスの中で金色のシャンパンが揺れた。
縁のできた人と場所、私の仕事。
来年もよろしくお願いします。
「ホーリーナイト・ラプソディ」完