一
街はきらきらした光に溢れていた。
街路樹はイルミネーションで眩く飾りつけられ、ショーウィンドはわざとらしいくらいに華やかだ。通りを楽しげに歩いているのは、カップルか家族連れがほとんど。きっとみんな、この先の広場の巨大ツリーを見に行くのだろう。手にしているのはケーキだろうかプレゼントだろうか。
十二月二十四日――一年でいちばん都会がそわそわする夜だ。
そこを行き交う人を含めて、巨大なデコレーションが街を包んでいるようだった。様々にアレンジされたクリスマスソングが途切れることなく聞こえてきている。
楽しそうな人の波を、しかし、私は全力で逆走していた。
「通ります、すみません! あっごめんなさい! 通して!」
声をかけながら人の隙間をすり抜けていく。邪魔そうに睨まれても気にしている余裕はなかった。
ちらりと空を見上げると、LEDライトの電飾の向こうを黒い影が横切るのが見えた。巨大な鳥のようなシルエットのそれは、雑居ビルの看板を踏み切って、デパートの壁面を足場に、一気に通りを飛び越える。
あんなんについて行けるか!
「蓮村! 今どこだ!?」
耳元で日下くんの声が呼びかけてきた。私は走りながらインカムのマイクを引き寄せ、答える。
「もうすぐ国道の交差点。すごく混んでて進みにくい。エリアスが上で追っかけてる」
「よし、その先の公園に追い込め。俺は反対側から向かってる……おい息上がってんぞ」
「だ、大丈夫……このくらい……」
「頑張れよ、もと陸上部」
激励だか揶揄だが分からない笑いとともに通信は切れた。いくら陸上部出身でも五年のブランクがある。二キロ近い疾走はさすがに堪えた、
その上――私は今日の自分の格好を恨めしく思った。ダウンコートの下は膝丈のワンピース。スカート部分がタイトなので走りにくくてしょうがない。ちょっとお洒落して来たのが仇になった。会社にスニーカーを置いていて本当によかった。
――この先の公園だな。
鼓膜にまた別の声が響いた。正確に言うと空気の振動ではない。脳内で直接再生される感じ。仕事中、私と彼の意思疎通はこれで事足りる。
――先に行くぞ、のろま。
誰がのろまだ、この下等生物! 私は頭の中で罵ったが無視された。気配が遠ざかって行くのを感じる。彼もさっさと済ませたいのだろう。
私はちょっと立ち止まって、両膝に手を当てた姿勢で呼吸を整えた。
この業界、いつ何が起こるか分かったもんじゃない。これからは会社のロッカーに動きやすい着替えを常備しておかなくちゃ。日下くんや九十九里さんに倣って。
ああ本当なら今頃、オフィスで美味しい料理とお酒とケーキを堪能していたはずなのに!
ケーキの箱を傾けないように持ち帰るのはなかなか骨が折れた。
中身は有名パティスリーのブッシュドノエル。二週間前に予約して、電車で三十分もかけて買いに行ったのだ。箱を開けたら潰れてたなんて洒落にならないから、私は慎重に慎重に、玉串を運ぶ巫女さんの気持ちでオフィスまで戻ってきた。
すでに暗くなった外はしんしんと冷えていた。暖房の効いたオフィスの空気にほっとした。
「ただいま帰りました! 遅くなってすいません」
「ああ、お疲れ様ー。わ、思ったより大きいわね」
環希さんは私の抱えた箱を見て歓声を上げる。
「冷蔵庫に入りますかね……」
「すぐに食べるから外に出しておいていいわよ。ちょうど料理が届いたところなの」
私はコートをロッカーにしまってから、オフィスの奥のドアを潜った。
役員室ではほとんど準備が調っていた。ソファとローテーブルが脇によけられ、かわりに折り畳み式の広いテーブルが設えられている。
赤いクロスの上には、大皿に盛られたオードブル、色鮮やかなサラダ、湯気を立てるお肉料理、そして特大のローストターキー! 環希さん御用達のケータリングサービスの品だから、美味しいに決まっている。
九十九里さんがお皿とグラスを並べているところだった。日下くんはオフィスのキッチンスペースからお酒類を運んで来ている。今日の役回りは、私がケーキの受け取り係、日下くんはお酒の買い出し係だった。
「遅ぇぞ、蓮村。ケーキがないと始まんねえじゃん」
「混んでたんだもの。お店の外まで並んだのよ」
「お疲れ様でした。領収書もらってきました?」
「あ、はい、これお願いします」
私は九十九里さんにケーキの領収書を渡した。福利厚生費で処理するんだろう。ケーキだけじゃない。今日は料理もお酒もSC持ちだ。
十二月二十四日の今日、業務を早めに切り上げて、クリスマスパーティーという名の忘年会である。
立案は環希さん、幹事は九十九里さん。十一月の下旬に日取りを決める時、予定があれば他の日にするわよと気を遣ってくれたけれど、悲しいことに私も日下くんもクリスマスイブのスケジュールは真っ白だった。環希さん、呆れたような眼差しで私たちを眺めていたっけ……。
「もう食えるのか?」
いきなり肩に重みがかかった。斜め後ろを振り向くと、象牙細工みたいに白い顔がテーブルを覗き込んでいる。馴れ馴れしく私の肩に肘を乗せるのはエリアスだった。ついさっきまでミミズクの姿で居眠りをしていたはずなのに、料理の匂いを嗅ぎつけて目を覚ましたのか。
「手伝いをしない子には食べさせません」
「ブッシュドノエルか……イチゴショートの方が好みなんだが、まあいいか」
「あっこら、摘まみ食いするな!」
「蓮村、そいつ窓から叩き出せ。自分でネズミでも獲ってりゃいいんだ」
「よく言う。俺の助けなしではネズミ一匹捕まえられないくせに。よし、勝負して勝った奴がケーキを総取りするというのはどうだ」
「おまえの頭には食欲しかねえのか。この無駄飯食らい!」
「仲が良いねえ、君たちは」
日下くんとエリアスが低次元の悪口を飛ばし合い、九十九里さんがほのぼのと笑った時、環希さんが入ってきた。ワインレッドのワンピースがとっても素敵だ。手にしているのは、お高そうなシャンパン。
「盛り上がってるみたいだし、ちょっと早いけれど始めましょうか」
待ってました、と素直に思った。実は今日、夕食を期待してお昼を控えめにしたのでお腹がぺこぺこなのだ。エリアスの食い意地を笑えない。
テーブルの周りに集まった私たちを見渡し、代表理事の環希さんはにっこりと笑う。人形めいた甘い美貌の下で、一粒ダイヤのネックレスが輝いていた。たぶん九十九里さんのプレゼントなんだろうなあ、なんて羨ましく思ってしまった。もしかして、今朝それを首につけてあげてたりして……。
不埒な妄想は、無機質な電子音で遮られた。電話が鳴ったのだ。
私は小走りにオフィスに戻って、受話器を取った。
パーティーが始まる直前、かかってきた電話は警察からだった。
特種害獣被害の連絡……はいつもと同じだったが、違っていたのは今まさに第一接触が現認されたばかりだということ。空き巣の多い住宅街を巡回中の警察官が、塀を乗り越える怪しい人影を見かけ、声をかけたら吸血鬼だったというのだ。
そいつはその警察官に襲いかかって喉に咬みつき、ついでにパトカーを破壊して逃げた。
十分に人間の血を摂取した後なら、満足して『向こう側』に戻っていただろう。しかし幸いなことに――と言っていいのかどうか分からないが、そいつは吸い足りなかったらしく、他の警察官の追跡をかわしながら逃亡を続けているという。
初回の接触時に出動要請がかかるなんて、レアケースだった。私は一度しか経験がない。
もちろん断ることもできた。十分な準備ができない状態での捕獲作業は危険だし、成功率も低い。通常通り罠を張って第二接触を待つ選択肢もあった。
しかし、環希さんは受諾を即答した。私たちにも異存はなかった。
クリスマスイブに警邏業務に就き、被害に遭った警察官のことを考えると、後にしろとは言えなかった。それに、自宅外での被害は再襲撃がないことが多い。今捕まえないと、被害者は一生催眠症に苦しむ。唯一エリアスだけがぶうぶう言っていたが、私の命令が必要なほどの抵抗はしなかった。
「ちゃちゃっと始末してケーキを食うぞ」
エリアスは私たちに先行して加害個体の気配を追って行った。
住宅街から人の多い繁華街へ紛れ込もうと、クラウストルムの嗅覚を振り切れるものではない。問題は、私たち人間が彼に追いつけないことだ。
私、来る必要なかったんじゃないだろうか。再び走り出した私は思った。エリアスと日下くんが直接連絡取りつつ挟撃すればよかったんじゃ?
「腹を減らしたエリアスは非常に危ない。暴走しないように見張って下さいね」
気持ちを見透かしたようなタイミングで、九十九里さんからの通信が入った。彼は今回は裏方だ。警察と連携を取りつつ、加害個体の納入先である防疫機関に搬送車の要請を入れてくれている。
エリアスはそんなことしません、と否定できないのが情けないところ。平素はともかく、大好物のお預けを食らっている状態では理性が鈍るかもしれない。勢い余って加害個体を殺してしまったら、被害者を救う抗生剤は永遠に作れないのだ。
「勝手なことするんじゃないわよ、人食い狼……!」
私は呟いて、遙か先を進むエリアスを追った。