日下の場合
土鍋の蓋を取ると、白い湯気とともに食欲をそそる匂いが立ち上った。ぶくぶくと沸騰する味噌仕立てのスープの中で、野菜と肉が柔らかく煮えている。
「おー、いい感じじゃない。食べよ食べよ」
鍋と揃いの模様が入った取り皿を、蓮村は俺の前に置いた。箸はすでにセッティング済み。
俺は冷蔵庫を開けて缶ビールを二本取り出した。明日も仕事だから、アルコールはこのくらいに抑えておいた方がいいだろう。
「じゃ、今日もお疲れ様」
「かんぱーい」
冷たいビールを喉に流し込んでから、俺たちは鍋に取り掛かった。小ぢんまりしたダイニングキッチンは、卓上コンロの炎と湯気のせいで暑いくらいだった。シンクの向こうの窓ガラスが露を結んでいる。
月に二、三回くらいの頻度で、俺は蓮村の手料理をご馳走になっている。俺の食生活を気にした彼女の方から誘ってくれて、緩やかな習慣になった食事会だ。
蓮村の住んでいるアパートは1DKで、建物は古めだが余裕のある作りだった。寝室に繋がるドアは今は閉められている。そこにある家族の位牌に手を合わせる時以外、俺はそのドアを潜ったことはなかった。
時々一緒に食事をする同僚――俺と彼女の関係はそれだけだった、今のところ。食器棚に俺専用の茶碗や汁椀や箸が常備されるようになっても。
今日のメニューは寄せ鍋だった。小ぶりな土鍋いっぱいに白菜や白ネギ、大根、人参などの野菜が煮込まれている。蛋白質は豚肉と、生姜の効いた鶏つくね。蓮村は牡蠣も入れたかったらしいが、スーパーで値段を見て諦めた。お互いに給料日前である。
「日下くんの作った鶏団子、形が揃ってるねえ」
「俺、きっちりやらねえと気が済まないの。その方が均一に火が通るだろ。お、この豆腐……大きさバラバラだなあ」
「豆腐なんか生でも食べられるんだから、平気平気」
当然、材料費と光熱費を計算して俺も半額を負担している。とはいえ、調理を蓮村に丸投げするのは気が引けた。で、かなり早い段階で俺も手伝うようになった。おかげでエプロンまで買う羽目になったが、蓮村の指導で包丁捌きはかなり上達してきたと思う。切ったり剥いたりは、もうたぶん彼女よりも上手い。
味噌仕立てのスープは蓮村のオリジナルだった。今回は時間がなくて顆粒出汁を使っているが、醤油とみりんで味を調え、味噌を溶き入れて仕上げた。少し薄味に思えたのに、煮込むとちょうどいい濃さになった。この辺の匙加減は、まだ俺には分からない。
以前に味付けを任され、べらぼうに甘い肉じゃがを作ってしまったことがある。
「日下くん、途中で味見しすぎなのよ。何度も何度も味を確かめるもんだから、味覚が混乱してくるんでしょ」
蓮村に爆笑されて、ぐうの音も出なかった。毎日の家庭料理には、どうやらある程度の大雑把さが必要らしい。
シメのうどんまで食べ終わったら、もう腹いっぱいになった。
汗を掻くほど暑くなってシャツの襟元を扇いでいると、蓮村は冷凍庫を開けた。
「アイスクリームあるよ」
「今日はもういいや。入るところがない」
「少し休めばお腹に余裕ができるんじゃない?」
「そんなに待ってたら電車なくなっちまう」
「泊っていけば?」
すぐに返事ができなかったのはまずかった。意志の強そうな蓮村の眼差しが、一瞬宙を彷徨う。
手にしたアイスのカップを冷凍庫に戻しながら、
「なーんてね……明日も仕事だもんね。遅くならないうちにお開きにしようか」
うなじに掛かる髪を撫でつけた。
後片付けはサクサク進んだ。
二人で並べるほど広いシンクではないので、蓮村が食器や鍋を洗い、俺が布巾で拭く。もう手慣れた作業なのに、会話だけが上滑りしている気がした。
全部終わって時計を見ると、十一時前。お茶入れようかと言ってくれたが、俺は断った。何というかここは居心地が良くて――人が生活している場所の温かさがあって、離れがたい気がしたのだ。椅子に座ってしまえば、本当に朝まで居残ってしまいそうだ。
「あ、あのさ、日下くんこれ……」
俺のエプロンを受け取った蓮村は、いったん寝室の方に消えて、小さい紙袋を持って出てきた。
中に入っているのは、セロファンと赤いリボンで綺麗に包装された――。
「あ、ありがと……でも今朝もらったよな……」
「これは日下くんだけに。職場じゃ渡しにくくて……」
これも手作りなのだろうか……四角形のチョコレートに、カラフルなドライフルーツやナッツがたっぷり埋め込まれている。甘い匂いが鼻先を擽った。
俺のためだけに、蓮村はこれを作ってくれた。
朝のオフィスでもらったあれで終わりだと思い込んでいた俺は、バレンタインなんかではしゃぐほど子供ではないつもりだったのに、物凄く嬉しくなった。
ありがとう、嬉しい、美味しそうだ――思いが次々と胸に湧き上がる。だが、ひとつも言葉にできなかった。何かを言ったら、俺と彼女の関係が決定的に変わってしまいそうで、怖かったのだ。情けないことに。
馬鹿みたいに突っ立ったままの俺を前に、蓮村はその凛とした顔立ちを鋭くした。苛立っているようにも、焦れているようにも見えた。
「私こういうはっきりしない状態が苦手なんだけど……日下くん、私とどうなりたい? たまにごはん食べる同僚のままでいいの?」
とんでもないことを言わせてしまっていると、ようやく気づいた。息を飲んで見返すと、彼女は急に慌てたみたいに目を逸らした。額を掻きながら体ごと横へ向いて、
「いや、私が初動を失敗したのよね……日下くんだけのせいじゃない。でも、どうでもいいと思ってる人を家に上げて、こんな夜遅くまで一緒にいないよ。あなたは違うの?」
再びこちらを向いた表情は悲しげだった。どんな時でもぐっと堪えて、歯を食い縛って、笑顔で前へ進む――そんな彼女しか知らない俺はいたたまれなくなった。
だから俺も、誤魔化すことはできなかった。
「俺は……俺も蓮村は特別だと思ってる。おまえが他の男とこうやって飯食ってたら、たぶんめちゃくちゃ腹が立つ」
そう、本心を告げた。蓮村の頬が朱を帯びる。
「だったら……好きって言ってよ」
「好きだけど、付き合えない」
これもまた本心だった。絶句する彼女を前に、俺は続けた。
「蓮村のことは尊敬してるんだ。辛い目に遭っても自分を見失わずに、真面目にしっかり生きてる――ほんとすげぇと思ってるから、軽々しく扱いたくない。いい加減な気持ちで付き合って、適当に遊んだりとか……そういう相手じゃないんだ」
言い訳じみていると、自分でも分かる。おまえのためだ、誠実に考えた結果だと、態のいい弁解だと、恥ずかしくなる。
でも他にどう伝えればいいんだ?
「俺はこんな体で、今は何とか持ってるけど、いつ症状が進んでもおかしくない。人並みの寿命は望めないだろうから、伴侶となる人に将来物凄い負担をかけてしまうかもしれない。蓮村にこれ以上辛い思いを押し付けるのは嫌だ」
「押し付けるだなんて……日下くんの催眠症は必ずよくなるよ。そのために今、戦ってるんじゃない」
「完治の可能性は低いってことくらい、俺だって弁えてるよ。蓮村は……もっとまともな男と付き合って幸せになるべきだ」
「狡いなぁ……」
蓮村はぽつりと呟いて、唇を歪めた。欲しかった玩具を目の前で取り上げられた子供のような表情。でも彼女は子供ではなかったので、泣き喚いて駄々を捏ねたりはしなかった。
「そっか……だったら仕方ないね。困らせてごめんね」
穏やかな声は少し震えていて、俺は彼女の顔を見ることができなかった。
「また明日、職場でな」
「うん、また明日」
何事もなかったかのように、俺たちは別れた。
分厚いダウンコートを着込んで彼女の部屋を出る。深夜の大気は信じられないほど冷たかった。
刃物のような乾いた風が吹きすさび、俺の体はあっという間に冷えていった。
改札を通る前にICカードのチャージが減っているのに気づき、券売機に寄った。
この時刻、電車から降りてくる人間はちらほらいても、逆に改札に入って行く客はほとんどいなかった。一杯やって来たらしい中年のサラリーマンがチョコレートショップの紙袋を提げているの見て、俺はくすっと笑った。
同時に自分が手にした紙袋の中を見て、そこに入った蓮村の気持ちを意識して、大きな溜息が出た。
俺――本当に何をしてるんだ? こんなに真っ直ぐに想いを贈られておいて、他の男と幸せになれとか、何て馬鹿なことを口走ってしまったんだろう。
俺はもう自分が嫌になって、券売機の隣の壁に頭をぶつけた。馬鹿だ、まぬけだ、最低だ――自己嫌悪の思いが止めどなく溢れる。でも。
いつか、俺の症状が進んで、抗生剤も効かなくなって、眠る時間が長くなって、体が動かなくなって。
彼女を見ることができなくなったら。彼女の声が聞こえなくなったら。彼女の体温が分からなくなったら――。
俺の形をした抜け殻を前に、彼女はどれだけ泣くだろう。それを想像するだけで恐ろしかった。
傷つけてしまうのならば、最初から踏み込まない方が百倍はマシだった。
発券機の吐き出したICカードを定期入れに収めて、俺はゆっくり改札に向かう。
その視界が、一瞬陰った。ほんのわずかな羽音とともに。
「……まったく、こんなグズのどこがいいんだ」
ぶつくさ呟く声に振り返ると、予想通り黒づくめの男が立っていた。今夜は特に見たくない顔である。
「どけよ」
脇を擦り抜けようとする俺の前に、エリアスは立ち塞がった。
「絹、落ち込んでるぞ。先のことばかり心配して、今泣かせてどうするんだ」
押し殺した声に不快感が滲んでいた。蓮村と繋がっているせいで、彼女の気持ちがリアルタイムで分かるのだ。前から知っているその事実が、今は無性に腹立たしかった。
俺はつい声を荒らげた。
「うるっさい、吸血鬼に何が分かるんだ!」
「分かるんだよ。俺はおまえの血を飲んだからな。過去の体験は全部味わった。だから何を恐れているかもだいたい想像がつく――くだらない」
エリアスの口調も表情も冷ややかだ。本当の意味で分かっているはずがない。人間の感情を理解はできても共感はできない奴なのだ。
「どうせ傷つけるんだ。係らない方がいい」
俺は吐き捨てて踵を返した。これ以上絡んでも喧嘩になるだけだ。
しかし、エリアスはぐいと俺の肩を掴んだ。骨が軋むほどの力。生っ白い顔の中で緑色の目だけがギラついている。
「じゃああれか、どうせ腹が減るから食わないのか。どうせ目が覚めるから眠らないのか。吐き出すから息も吸わないのか」
「そんな話してないだろ! 混ぜっ返すな」
「同じことだ。悩んでいる時間が勿体ないわ、短命種のくせに。そんなに先行きが不安なら息するの止めて今すぐ死ね。ほら死ね!」
エリアスは暴論を掲げて詰って、それから急に興味をなくしたように俺を突き放した。
何なんだよ、こいつ――虫ケラを見下ろす視線に、ふつふつと怒りが湧く。
「だいたいな、その恐れはおまえのものだろう? 自分の感情くらい自分で何とかしろ。絹は何ひとつ怖がってないぞ」
「今は……そうかもしれないけど……」
「将来悲しむとしたって、それは絹自身の問題だ。もしあいつが、本当にもうこれ以上生きていたくないと絶望する日が来たら……その時は」
俺が絹を殺してやる――エリアスは暗い声でそう言い切った。諦めの奥にとぐろを巻いているのは陰惨な喜びだ。本心だと直感して、身の毛がよだった。
「んなことさせるかっ……!」
俺は奴に掴みかかった。
大の男が二人、大声で揉めているのに、駅員も乗降客もこちらを気にする素振りはない。奴の目くらましが働いているのかもしれないが、その時の俺には奇異に感じる余裕はなかった。
ひょいと躱したエリアスは、いつも通り人を小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。
「嫌ならせいぜい長生きしてやるんだな」
「……乗せられたわけじゃねえぞ。クソ害獣!」
負け惜しみじみた捨てゼリフを吐いて、俺は改札とは逆方向に走り出した。紙袋の中でチョコレートが踊った。
玄関のドアを開けた蓮村はフリースの部屋着姿で、肩からタオルをかけていた。髪がしっとりと濡れている。風呂に入っていたのだろうか。
間が悪かった、と回れ右をしたくなる気持ちを抑え、
「えっえっ、何? 忘れ物?」
焦る彼女を、俺は真正面から見据えた。
「さっきはちゃんと言えなくてごめん! チョコレートありがとう。すげぇ嬉しかった」
思い切ってそう言ってしまうと、胸が楽になった。心臓が激しく跳ねているのは、駅からアパートまで全力疾走したからだ。
「う……うん」
「俺やっぱり蓮村が好きだ。この体がいつまで動くか分かんねえけど、一日でも長くおまえと一緒に生きていたい。おまえに笑っていてほしい。だからそのために頑張る」
「うん」
「これで……返事になったか?」
蓮村はこくりと肯いた。下睫毛の先が光って、ぽろっと涙が零れた。
揺れる瞳で見詰められて、俺はまたしても言葉に迷う。
「そっ……それだけ言いたかったんだ。じゃあ……な」
身を翻しかけた俺を、蓮村が止めた。
彼女はスリッパのまま玄関の三和土に降りて、俺の手を捕えていた。温かく湿った掌の感触に、俺は自分がどれほど冷えているか実感する。
蓮村は目尻を擦って微笑み、室内の壁時計に目をやった。
「まだ終電まで時間あるでしょ。中であったまって行けば?」
「あ、うん……十五分くらいなら大丈夫だと思う。さっきのアイス……食べて帰ろうかな」
「お茶入れるね」
招かれるまま、俺は暖かくて明るい部屋に戻ってきた。冬の風に凍りついていた皮膚が、血が、心が、柔らかく解れてゆく。安堵のあまり眠気さえ覚える。
駅までまた走れば、二十分は過ごせるかな――やかんを火にかける蓮村を眺めながら、俺はぼんやりと考えた。
俺が乗ったのは、結局、終電ではなくて翌朝の始発だったのだが。
「バレンタインズ・スウィート」完
スウィート(suite)=組曲