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羊飼いの休日  作者: 橘 塔子
第六話 スノーホワイト・メヌエット
20/21

 幸いなことに、インフルエンザではなかった。


 自宅の最寄駅前のクリニックを受診し、扁桃腺が腫れているものの、ウイルス検査は陰性だったと告げられてホッとした。会計を待っている間に、SCの皆に取り急ぎその旨メッセージを入れておく。

 とはいえ熱は上がってきたようで、寒気に加えて喉の痛みがひどくなってきた。季節柄クリニックは混んでおり、待合室の人いきれが今の私にはしんどかった。


 隣接の調剤薬局で薬を受け取って、私はふらふらした足取りで帰路についた。

 駅前の雪道はだいぶ踏み固められている。そのぶん氷に近いから、油断すると足を取られそうだった。今転倒したら起き上がれそうにない。

 やっぱり日下くさかくんに家まで送ってもらえばよかった、なんて甘ったれた考えが頭をよぎる。オフィスから駅までの道行きは、彼ががっちり腕を掴んでいてくれたおかげで危なげがなかった。病院まで付き合うと言ってくれたのだけど、さすがに遠慮した。病人に囲まれて風邪を感染うつされたら大変だ。


 コンビニでスポーツ飲料を買って、アパートに辿り着いた頃にはもう夕暮れになっていた。 

 食欲はなかったが薬を飲まなくてはいけないので、昨夜の夕食の残りのおでんを温め直した。エアコンをつけても寒気は取れない。皮膚だけが熱せられて体の芯は冷え切っている感じだ。熱を測ると三十八度六分。いよいよ悪化してきたなあ。

 メイクを落としてパジャマに着替えるだけで大変な気力を使った。喉の痛みをこらえて卵と大根をお腹に入れた後、薬を飲んで、私は寝室のベッドに倒れ込んだ。

 あ、エアコン止めないと――電気代を気にしながら、しかしもう疲労と熱に抗えず、私は眠りの淵に墜落した。

   




 目の前にドアがあった。

 周囲はひどく暗い。斜め上にある筒型のポーチライトが、ドアと足下を柔らかく照らしている。ドアには磨りガラスのスリットが入っていて、内側からも暖かな光が漏れていた。

 よく知っている、懐かしい光景だ。

 それなのに、私はそこから一歩も進みたくない。ドアを、開けたくない。


 ああまたこの夢だ――私は自分の頬を叩こうとした。だが、手は勝手にドアハンドルへと伸びる。


 体調が悪い時、あるいはストレスを感じた時、高い確率で見る夢。きっと熱が上がっているのだろう。この向こうに何があるか、私は知っている。だから開けられない。開けたくない――。

 ほとんど重さを感じさせず、ドアは開いた。


 家族三人分の靴が並べられた三和土たたき。その先に敷かれたぺルシャ絨毯風の玄関マットは、母が気に入って買った物だ。高かったんだから汚さないでよ、なんて理不尽な要求をしてきていた母本人が、今、マットを盛大に汚していた。

 こちらに頭を向けて倒れ伏した母を中心に、マットが異様な色に染まっている。打ち捨てられたマネキンのような彼女は、その胸にしっかりと息子を抱えていた。私の弟だ。


 これは夢だ早く覚めろ。先に進むな。見るな。


 叫ぼうとするも、声が出ない。足が玄関を上がる。いつの間にか靴を脱いでいて、ソックスにべたりとした液体が染みた。

 床に赤黒い足跡をつけながら廊下を進む。何度も再放送された映画を観ているような気分だった。もう展開は知っているからいいよ。チャンネルを替えてよ。


 ほらそこに、リビングの入口に、父が――胸や腹をめった刺しにされて。

 目を覆うことも立ち止まることもできなかった。リビングに入り、私の誕生日パーティーの準備が調えられたテーブルに近寄って、そこで犯人の死体を見つけるところまで、これは続くのだ。


 苦しくも悲しくもなく、ただただ虚しい気持ちで、私は歩を進めた。

 単なる記憶の再生だと分かっている。今さら傷つかない。平気だ――そう、何十回目か分からないラストシーンに向かって覚悟を決めたのに。


 いきなり頭上から()()()()()()()()()





 自分の体が派手に痙攣したのが分かった。

 浅い眠りから覚醒する時にしばしば起きる、あのビクッとなるやつ。

 ヒイッとか何とか声が出たかもしれない。睡眠が中断されていきなり明るくなった視界で、翡翠色の目が私を見詰めていた。


 今度こそ声を上げて、私は跳ね起きた。

 彫刻めいて整った容貌、雪を被ったみたいに白い髪、黒一色の服装――見知った男だったが、今ここにいる理由がとっさに分からない。軽くパニックになった。


「な、何で、あんたっ……ここここっ……」


 ここにいるのかと訊きたいのに声帯が機能しない。喉が腫れ上がってカラカラに乾いていた。

 ベッドの脇から覗き込んでいたエリアスは、私の額からその白い手をどけた。落雪となって悪夢を強制終了したのは、彼の冷たい掌だったのだろう。

 エリアスは自分の手に目を落としてぼそりと呟いた。


「……熱い」

「当たり前でしょ、熱があるんだから。そんなことより何でここにいるのよ。勝手に入ってくんなとあれほど……」

「おまえの意識がない間は命令は無効だ」


 彼には取り繕う素振りもない。たぶん窓からの不法侵入だろう。クレセント錠などものともしない男はまた、プライバシーとかデリカシーとかいう言葉にも縁がない。


 じゃあ改めて叩き出さないと。私は図々しい相棒に退去命令を出そうと腹に力を込めたが、目眩がして再び枕に身を預けた。

 頭が熱くて重い。反対に首から下はゾクゾクと寒かった。高めの室温に設定されたエアコンが稼働し、分厚い寝具にくるまっているにもかかわらずだ。そして唾を飲み込むだけで痛む喉。

 私はサイドテーブルに手を伸ばしてペットボトルを取り、扁桃腺の痛みに顔をしかめながらスポーツドリンクを飲んだ。

 時計を見ると午後六時。一時間ほど寝ていたみたいだ。


 風邪っ引きの人間が珍しいのか、エリアスは不躾に私を観察している。日没後は本来の姿で出歩ける貴重な時間なのに、何しに来た?

 私が再度意図を問いただす前に、エリアスは小さく溜息をついた。


「弱ってるな」

「どっかのバカ犬に雪の中引っ張り回されたからよ」


 倍の大きさの溜息とともに答えてやったら。エリアスは口をつぐんで白い睫毛を伏せた。表情筋はほとんど動いていないのに、私はそこに感情の揺らぎを感じ取った。

 あれ、こいつ、落ち込んでる……?

 悔恨とか反省に集約する前の、言ってみればもっと幼稚な情動。動揺しているというのがいちばん近いかもしれない。いたずらがバレてしまって、飼い主の叱責を待つ大型犬みたいな風情だ。

 もしかして、純粋に私の容態が気になって覗きにきたのだろうか。


「……ま、今思えば朝から調子悪かったんだけどね」


 悪態を吐く気が失せてしまった。彼にしては殊勝な態度に毒気を抜かれたのと、腹を立て続けるには体力が足りなかったのだ。倦怠感と悪寒で体が震えている。

 私は布団の中で体を丸めた。


「外、雪は止んでる?」

「また少し降り出した」

「吸血鬼があんなに雪が好きとは知らなかったわ。楽しかった?」


 ちょっと皮肉交じりの言葉だったが、エリアスは悪びれもせずに頷いた。


「『こちら側』は環境変化の振り幅が大きくて飽きない」

「そうね、私だって赤い雪が降る国に行ったら、珍しがって大騒ぎするかも」

「ただ今考えれば、走り回ったのは馬鹿っぽかった。姿を似せると、どうやら感性まで似てきてしまうみたいだな」

「今度ボール投げるから取ってきてよ」

「そんなことはやらない」


 これは絶対やるなと確信して、私はふふっと笑った。


「私が風邪引いたのはあんたのせいじゃないから、謝ってもらわなくていいわよ」

「何で俺が謝るんだ」


 不愉快そうな物言いは気まずさをごまかすためだろう。罪悪感を覚え、知らん顔できなくなっただけでも大した成長だ。他人の――()()()気持ちを慮れるのは、社会性の萌芽に相違ない。

 吸血鬼であるエリアスにとって、それが良いことかどうかは分からないけれど――。


 私は目を閉じた。


「……あんたにできることはないから、もう帰んなさい、エリアス」


 ぽつぽつと会話をするだけで疲れる。そろそろ限界だった。眠い。

 ヒヤリとした冷気を額に感じた。瞼を半分ほど開けると、役立たず呼ばわりされて不服そうなエリアスが再びその手を触れていた。

 熱で火照った頭蓋に、彼の冷たい掌は心地よい。氷嚢みたいだ。


「こんなに熱いのに、寒いのか? まったく……太陽光を浴びて平気でいるくせに、ちょっと異物に侵入されただけで機能不全を起こすんだな、おまえたちの肉体は」

「余計なお世話よ。も……喋るのしんどい……」


 私は何もかも面倒くさくなってきて、眠気に身を任せた。

 寒いけど、押入れからもう一枚布団を引っ張り出す気力は残っていなかった。このまま寝てしまおう。エリアスのことはもういいや。勝手に出て行くだろう。

 ああ、でも、この手は気持ちいい……手首から先だけ置いてってくれないかしら。

 埒もないことを考えつつ、私はうつらうつらとし始めた。


「おい、きぬ、おーい」


 困惑したエリアスの声も遠い。

 あんまりありがたくないお見舞いだったけど、まあ、彼なりの気配りには感謝しておこう。それと、悪い夢をシャットダウンしてくれたことにも。

 悪寒に震えながら、それでも額を冷やしてくれる掌の感触にほっとして、私は二度目の眠りに嵌まっていった。


 不思議と、暖かくふわふわしたものに包まれる感触がする。今度は夢も見なかった。

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