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羊飼いの休日  作者: 橘 塔子
第一話 バレンタインズ・スウィート
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九十九里の場合

 彼のシルエットは遠くからでもすぐに分かった。

 背が高いことに加えて、上から糸で釣られたように姿勢がいいのだ。

 今シーズン新調したチェスターコートが抜群に似合っている。黒にするかダークグレーにするか迷ったけれど、グレーを選んで正解だった。そのままモデルになれそうな彼の佇まいを見て、私は自分の見立てに自信を持った。

 地下鉄駅へ降りる階段の脇に立った彼は、しかし、人目を引く容姿にも拘わらず所在なげな風情だった。スマホをいじるわけでも腕時計を見るわけでもなく、かといって歩道を行き交う人々を観察するでもなく、漫然と視線を彷徨わせている。何も考えてないふうな、ちょっとぼんやりした彼の表情が、実は私は好きだった。家庭でも職場でも滅多に見られない。


九十九里つくもりくん、お待たせ」


 十分に近づいてから、私は大きめの声をかけた。九十九里くんは勢いよく振り向いて、それから慌てて地下鉄の表示を見上げる。


「あれ、環希たまきさんこっちの出口から出てくるとばかり……」

「改札間違えちゃって、二ブロックも歩いたの」


 君の姿を遠くから眺めたかったからよ、とは言わずにおいた。


 午後七時の街は明るくて、寒い。帰宅時間帯で通りには人が溢れているのに、乾いた北風が熱気も湿度も吹き飛ばしていく。真っ直ぐ家に帰る人も一杯やっていく人も、一様に身を竦めて足早に歩いていた。


「寒いわね」


 私は手に息を吹きかけて、襟元のファーに頬を埋めた。九十九里くんは鞄を左手に持ち替えると、右手で私の左手を握り、自分のコートのポケットに収めた。彼の手も冷え切っていたけれど、二人分の体温ですぐに温まりそう。


「手袋持ってきてないの?」

「持ってますよ。行きましょうか」


 彼は横顔で笑って、私の歩幅に合わせて歩き出した。

 目的地は最近オープンした鉄板焼きのお店。何でもラムステーキが絶品らしい。今日は定例の連絡会で都庁へ出向いていたので、帰りに九十九里くんと落ち合って食べに行くことにしたのだ。


「お腹空いたでしょう。予約してないから少し待つかもしれませんね」

「大丈夫よ、今日おやつにきぬちゃんのブラウニー食べたから。あれ結構ボリュームあったわよね」

「美味しかったです。甘さ控えめで食べやすくて」


 屈託なく感想を言う彼の腕に、私は肩をぶつけた。


「ごめんねえ、チョコのひとつも手作りできない女で」

「環希さんは他のことがたくさんできるからいいんです。それに、イベントに乗っかるのあんまり好きじゃないでしょ」

「ま、まあね……今さらね……」


 そう誤魔化してみたが、実のところ私がバレンタインを黙殺しているのはもっとくだらない理由のためだ。

 結婚前、私は手作りチョコで九十九里くんを食中毒にしたことがある。トリュフに入れた生クリームの保管状態がよくなかったらしい。数日間苦しんだ彼が私を責めたことは一度もないが、私の中では結構なトラウマとなった。

 それ以来バレンタインは鬼門で、お菓子を手作りするのにも懲りた。当の九十九里くんはさほど気に留めておらず、今でも平気でチョコレートを口にするのだけど。


 もともと料理は苦手なのだ。実家で暮らしていた頃は、家事全般ほとんどやる必要がなかった。海外留学中も仕送りをたっぷり貰っていたので、面倒なことはアウトソーシングに頼っていた。

 結婚してからもそれはあまり変わっていない。仕事が忙しいこともあるが、九十九里くんが料理も掃除も洗濯もささっとこなしてくれるからだ。


「こんなもの、得意な方が受け持てばいいんです。環希さんは環希さんにしかできないことをやって下さい」


 呆れるでもなく恩に着せるでもなく、彼はいつも淡々と言ってくれる。


「まあでも、できるに越したことはないですけどね。一緒にやってみます?」


 そんなわけで、彼に教わって多少は家事を覚えた。それでも料理はまだまだ初心者だ。冷蔵庫の中の材料を見てアドリブで作るのが苦手。後片付けも嫌い。

 だから、ごく普通に仕事と家事をこなし、余力でお菓子まで作ってしまう絹ちゃんには尊敬の気持ちしかなかった。とはいえ、自立せざるを得なかった彼女の生い立ちを考えれば、軽々しく羨ましいなんて言えない。


「ねえ、彼女、日下くさかくんに本命用のチョコレート渡してた?」


 夕方から外出していた私は、興味津々で尋ねた。九十九里くんは素っ気なく首を振った。


「さあ……ただ今日は日下くん、自転車を置いて帰ったようです。たぶん蓮村はすむらさんと出かけたんじゃないかな」

「へーえ、隅に置けないわね。あの二人付き合ってるのかしら」

「どうでしょうね。彼らのプライベートですから」


 小学生の頃から面倒を見ている弟子の恋愛事情に対し、九十九里くんは意外と冷淡だ。気にしていないはずはないのに。


「応援してあげないの? 凄くお似合いのカップルじゃない」

「順調なうちはいいんですが、上司としては、破綻して辞められるのが心配です。二人とも私生活と仕事を切り分けられるタイプとは思えませんし。どちらを失ってもSCには大きな痛手ですよ」


 実にドライな意見を言ってくれるけど、建前だってことは分かっている。要するに日下くんと絹ちゃんが心配なのだ。

 彼ら二人は背負った過去も残った傷もよく似ている。惹かれ合う力も強いだろうが、壊れる時にはお互いに深手を負うだろう。

 でも私は心配していなかった。


「大丈夫よ。あの子たち絶対に上手くいく。私が言うんだから間違いないわ」


 断言すると、九十九里くんはちょっと目を見開いて、だといいですねと言った。


 日下くんと絹ちゃんは信頼し合っているけれど、決して依存してはいない。相手にしがみつくのはなく、手を取り合って前へ進もうとしている。そんな気がするからだ。

 庇い合い、補い合い、それでいて停滞しない関係――いくつかの事件を通して二人を見てきて、私は羨望すら感じていた。


 広い幹線道路との交差点で信号が赤に変わり、私たちは立ち止まった。お店はここを渡ってすぐの所にある。


「どうかしました?」


 九十九里くんは私の様子を気にした。沈黙が続いたので奇妙に思ったらしい。こういう時は隠し立てしても無駄だ。


「私は……どうかしら。君とフェアな付き合いができてるのかな」

「ああ……」

「九十九里くん、仕事以外でさ、私と結婚してメリットあった? 私はもうめちゃくちゃ助けられてるけど、君には同じだけのものを返せてないような気がするの」


 彼は天を仰いだ。うんざりさせてしまっただろうか。

 定期的にやってくる自己嫌悪だ。私にはどうしてもやりたいことがあって、九十九里くんは賛同してくれて、ここまで一緒にやってきた。その方向は間違っていないと胸を張って言える。でも――私から見た正しい方向が、彼にとっても正しいとは限らない。

 せめて彼に居心地の良さを、ほっとできる温かい場所を提供できていればよいのだけど、とてもそんな自信はなく……私の方に不満がないだけに、考え始めると不安になってしまう。


 ポケットの中で、ぎゅっ、と手が握り締められた。

 私を見る九十九里くんは、怒っても悲しんでもいなかった。


「環希さんのそういうネガティブなところ、僕は大好きです。もっと弱音を吐いて、好きなだけ迷って下さいね。僕の前だけで」

「……何その嬉しそうな顔」

「あなたの気弱さがしょっちゅう見られて、それだけで結婚した意味がありました」


 信号が青になって、人々がいっせいに横断歩道を渡り始める。私たちも手を繋いだまま歩いた。


「めんどくさい女だと思ってるんでしょ」

「前から知ってますよー。強靭に見えて、実は繊細で甘えんぼなんですよね。自信を保つために、時々僕を試すようなことを言う。まあ……今日はちょうどよかったかな」


 交差点を渡り切ってすぐに、九十九里くんは私を歩道の端に寄せて歩みを止めた。

 後にしようと思ってたんですけど、と言いつつ、鞄の蓋を開ける。中から出てきたのは細長い箱だった。紺色の包装紙と金色のリボンで華やかに飾られている。


「何……えっ……?」

「別に男の方が贈ったっていいですよね」


 包装紙のデザインに見覚えがあった。昨年の暮れに東京に初出店したベルギーのチョコレートショップ。何年か前のブリュッセル出張の時に、九十九里くんと現地で食べた覚えがある。

 九十九里くんはそれを差し出して、真顔になった。通行人を気にしてか、私の耳元に口を寄せる。


「環希さん、愛しています。これからも傍にいて下さい」 

「……いつ買ってたの? 凄い行列だったでしょう」

「先週末です。女性ばかりで恥ずかしかったです――って、今の聞いてましたか?」

「あ、うん、聞いてた。あ……ありがと」


 私はチョコレートの箱を抱えて俯いた。たぶん顔が真っ赤になっている。いい年をしているのに、結婚して五年も経っているのに、馬鹿みたいにドキドキした。


 九十九里くんの言う通りだ。甘やかしてくれるのを期待して試すように絡んだくせに、真っ直ぐに愛情を返されると言葉が出なくなる。不安に揺れていた気持ちがいきなり包まれて、温かく満たされて、何を迷っていたのかさえ瞬時に忘れてしまう。我ながら単純な女だ。

 そして九十九里くんは、そんな私の反応が楽しくて仕方ないようだ。優しい笑顔は、ほんの少しだけ意地悪だった。悔しいが――素直に嬉しい。


「さ、行きましょうか。すぐそこですよ」

「ラムステーキはまた今度にしない?」


 促した彼を、私は引き止めた。チョコレートの箱を軽く振って、


「帰ってこれ食べたい。九十九里くんの淹れるコーヒーに合いそう。夕食は、冷凍庫にラザニアがあったでしょ」

「あれ、先週環希さんが食べちゃったじゃないですか」

「……早く二人になりたいの。お礼(・・)もしたいしね」


 腕を絡めて身を寄せると、九十九里くんは仕方がないなあと呟いた。

 わざとらしく困った顔をしているけれど、冷蔵庫の残り物で手早く美味しい物を作って、私を喜ばせてくれるに違いないのだ。


 私たちは来た時よりも少し足早に、駅への道を引き返した。

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