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羊飼いの休日  作者: 橘 塔子
第五話 ミスティ・カルテット(コラボレーション作品)
17/21

エリアスと怜二

 私の耳には囁き程度にしか聞こえなかった。彼はどうだったのだろう。

 怜二れいじと名乗った少年は、稲妻にでも撃たれたみたいに体を震わせ、次の瞬間には私を突き放していた。ようやく解放された喉を押さえて、私は激しく咳き込んだ。

 少年はもう私の存在など忘れてしまった様子で、血相を変えて霧の中に踏み出そうとしている。


勇太ゆうた! そこにいるの!?」

「怜二!」


 応答はさっきよりずっと近い場所で聞こえた。そして同時に――。


きぬ!?」


 ものすごく耳に馴染んだ声もまた、近かった。たまにうんざりする腐れ縁の相手だが、今は安堵のあまり涙が出そうだった。


 霧の壁が渦を巻いた。いったん白が濃くなった後、すうっと解けていく。

 いくぶんクリアになった紗幕の向こうから、黒い影が飛び出して来た。

 同じタイミングで少年もまた走り出す。二人は擦れ違いざまに視線を交わしたが、そのままそれぞれの目的地に駆けつけた。


 エリアスは、青白い顔に驚きの表情を浮かべていた。


「絹、おまえも来てたのか」

「エ、エリアスも……?」

「喉をどうした?」


 おそらく手指の跡が残った私の喉を、めざとく見つける。正直に答えたものかどうか迷っているうちに、犯人を察したみたいだ。

 緑色の瞳の中に、赤い炎が燃える。エリアスの纏った黒がいっそう深くなった気がした。

 彼が振り返った先では、怜二がもう一人の少年に飛びついていた。


「勇太、会えてよかった! 探したんだよ!」

「俺も……ああやべぇ、泣けてきた……」

「ちょっと……どうしたの、そんな襟元はだけて」


 周囲の霧が晴れてきたので、彼らの姿がはっきりと見える。

 怜二はせかせかと少年の肩や腕をさすって、怪我がないか確かめているみたいだ。その口調も仕草も、私と相対していた時とは別人のよう。


「……何かされたんだね?」

「いやあの……ちっと匂い嗅がれたっていうか」


 急に気温が下がった気がした。ゆっくりこちらを振り向いた怜二は仮面めいた無表情だったが、その黒髪は逆立っているように思えた。

 エリアスはすでに彼をロックオンしている。お互いがお互いを敵認定したのが分かって、私は肌がびりびりするような緊張感を覚えた。


 落ち着いて、となだめる前に、エリアスは飛び出した。怜二もほぼ同時に動く。


 仕掛けたのは怜二の方が先。すごい勢いで突き出された貫手ぬきてを、エリアスは正面から止めようとした。が、ギリギリでかわす。華奢な少年の攻撃は、彼の想定した威力を遥かに上回っていたのだ。

 怜二はそんなエリアスの動きを予測していた模様。時間差で彼の避けた位置に蹴りを繰り出す。エリアスの目が見開かれた。

 有り得ない体重移動で上体を反らした彼は、そのまま宙返りを切って距離を取った。

 怜二は息ひとつ乱さす、冷酷にエリアスを見据えている。その両眼は赤い爬虫類の目だ。


「君、どこの刺客? ちょっと前に潰した北欧の組織の残党か? それともこないだ揉めた南米の……?」

「は?」


 エリアスも血色に染まった目で怜二を睨む。


「おまえこそ何だよ。結構年いってるな? 長老クラスが俺に何の用だ。さてはおまえも堕ちたか」

「は?」


 今度は怜二の方が怪訝な顔をする番だった。

 噛み合わない会話に、二人とも意思疎通を諦めたらしく、再び戦闘態勢に入る。


 突き、蹴り、投げ――強靱な身体と桁外れの運動能力を駆使した、人外の格闘である。二人がどう動いているのか、実際私の目では追いきれなかった。ただ、現時点で実力が拮抗しているのは分かった。

 いや、エリアスはまだ本気にはなってない。怜二の方も、どんな隠し球を持っているか分からない。


「あの、お姉さん……」


 こそっと声をかけられ、我に返ると、さっきの少年が傍にいた。ドツキ合う二人を迂回して近寄って来たみたいだ。


「何か、怜二のやつが迷惑かけちゃったみたいでごめんなさい。俺、渡海とかい勇太ゆうたといいます」


 礼儀正しくペコリと頭を下げる。

 引き締まった体つきも、日に焼けた頬も、ワックスでツンツンさせた髪も、運動部の人気者という印象の少年だ。スポーツブランドの青いポロシャツに、グレーのアンクルパンツを合わせている。屈託のない表情に、私はちょっと弟を思い出してしまった。

 あの子が生きてたらこんなふうに育ってたかな、なんて……。


「あ、こちらこそ……うちのエリアスが失礼なことしたんでしょ? 私は蓮村はすむらきぬです。あいつの……まあ、相棒みたいなもの」

「あの人エリアスっていうんだ。強いですね。怜二と互角にやり合えるなんてすごい」


 勇太くんは心から感心したように言って、二人の競り合いを眺めている。


「怜二……くんて、吸血鬼なの? やっぱり越境者?」

「越境者って? 怜二は確かにヴァンピールだけど、俺の幼馴染みです。今夜一緒にメシ食ってて、はぐれちまって、んでこんなことに」


 私は、あら? と当惑した。だとしたら、怜二が言っていた恋人というのがこの子? 性別のことはさておき、吸血鬼が人間と恋仲になるなんてちょっと信じられない。

 咬まれてるんじゃないかと勘繰って、つい首筋をチェックしてしまう。私の視線を感じてか、勇太くんはポロシャツの襟元を直した。


「確認しますけど、絹さんもあの人も、怜二を狙ってやって来たわけじゃないんですね?」

「もちろんよ。あなたのお友達も人間を襲ったりはしないのね?」


 勇太くんは強く肯いた。まあお姉さんは殺されかけたけどな!

 私たちの間には、齟齬と誤解があったみたいだ。だったら早くあの二人を止めないと。


「あ、怜二のやつマジになりそう」


 勇太くんが小さく舌打ちした。

 エリアスの胸倉を掴み上げた怜二の髪が、銀色に変わっていくところだった。





 紅玉の瞳と銀糸の髪――怜二はヴァンピールとしての本性を表した。それだけあのエリアスって男が強敵だということだろう。

 エリアスは一瞬眉をひそめたが、すぐにニヤリと笑って怜二の攻撃を迎え撃つ。奴の方もギアを上げる気だ。


「絹さん、止められる?」


 尋ねると、彼女は曖昧に肯いた。

 絹さんは俺よりいくつか年上、たぶん二十二、三歳だと思う。スレンダーな体つきとショートボブヘアが凜々しい。化粧は控えめだが、顔立ちは綺麗だなあ――あ、こんなこと考えてたら怜二にどやされる。

 ただ彼女の格好は奇妙で、分厚いベストは防刃仕様か? 足元はごついワークブーツだし、サバゲの途中で抜け出してきたみたい。ヴァンピールの喧嘩を前に動じないあたり、彼女もまた訳ありっぽい。エリアスが言っていた「越境者を狩る」とやらに関係があるのだろうか。


 いやいや、悠長に推理している場合じゃない。

 怜二はふわりと宙に浮かび、落下速度を利用しながら鋼鉄の貫手を突き出す。エリアスは避けずに一歩踏み出した。カウンターを狙ってる!

 タイミングは素人目にも完璧だった。しかし怜二の突きはさらに加速した。

 杭となってエリアスの胸を貫く――かのように見えた彼の手刀は、寸前で躱された。エリアスは体軸をずらし、脇で怜二の腕を挟み止めると、反対側から強烈なフックを繰り出す。長い鉤爪が鈍く光った。

 首の肉をえぐり取られる怜二を想像して、俺の全身の血が引いた。

 が、血飛沫は上がらなかった。エリアスの攻撃が当たるより先に、怜二は彼に体当たりして地面に押し倒したのだ。


「あ」


 絹さんの唇が溜息のような声を漏らした。急に痛みを覚えたように、自分の首を触る。


 怜二はエリアスにのし掛かり、その喉笛に食らいついていた。

 俺にするような優しい口づけではなくて、肉食動物が獲物を窒息させる時の、凶悪で迷いのない吸血だ。血管も筋肉も関係なく咬み破る勢いだった。


 なのに、怜二はすぐに身を離した。汚れた口元を押さえ、呆然とエリアスを見る。その肩口は大きくシャツが破れており、みるみる血が染み出してきた。


「この、味……君……君も原初の血か!?」


 エリアスもまた起き上がった。喉から滴る血を気にするふうもなく、指先を口に持っていく。彼もただではやられていない。急所こそ外したが、その爪は怜二の肩を引き裂いていたのである。

 彼は指についた怜二の血を舐めたのは、仕返しというよりカロリー補給に思えた。まだ戦う気満々なのだろう。

 好戦的にギラつく目が、なぜか急に曇る。


「何だおまえ……一回死んでるのか? 気持ち悪い……」


 胸焼けでも起こしたように、鳩尾みぞおちを押さえて顔をしかめた。よく分からないが、お互いの血液から何かを読み取ったのだろうか。


「やはり放ってはおけないね」

「気持ち悪いから殺す」


 状況はまったく好転していなかった。殺意はさらに増している。

 俺はもう居ても立ってもいられなくなって――気がつくと二人の間に飛び出していた。


「やめろ怜二!」

「うわ」


 俺に飛びつかれた怜二は、不意を突かれてバランスを崩した。全体重をかけて、俺は怜二を押さえつける。


「もうやめろって。この人は敵じゃない」

「どいて勇太。君に不埒な真似をした男だよ! 八つ裂きにしてやる!」

「おまえだって絹さんに何かしたろ! なあ落ち着け、怜二……おまえちょっと変になってるぞ。いつももっと冷静じゃん」


 怜二の赤い目が見開かれた。俺じゃなく、俺の肩越しに何かを見ている。

 背後で空気が動くのを感じた。首をねじ曲げると、エリアスが無表情に腕を振り上げている。先端には血に濡れた鉤爪が――。

 俺の体ごと串刺しにする気か! こいつもマトモじゃねえ!


「エリアス・クラウストルム!」


 涼やかな、凜とした声が響き渡った。

 それは名前であり、呪文でもあったのだろうか。エリアスはぴたりとその動きを止めた。


「戻りなさい、エリアス」


 絹さんが、一歩も動かずに命じた。すらりとしたその姿がひどく神々しく見える。

 エリアスが唸った。彼の中で何かがせめぎ合っている様子。牙を剥いた葛藤の表情は一瞬で、すぐにぷいっと顔を背けた。

 おいで、と絹さんが優しく言うと、エリアスは上着の裾を翻した。


 信じられないことに、次の瞬間その姿が黒い煙に変わった。煙はぱっと拡散した後、もとの大きさよりずっと小さい形に密集した。時間にして呼吸二つ分――エリアスのいた空間に、まったく別のものが現れた。

 それは一羽の黒い鳥だった。

 分厚く生え揃った羽毛と、ずんぐりした体、鉤爪を備えた脚はフクロウだ。いや……頭に耳のような羽根が立っているからミミズクか。


 黒いミミズクはほとんど音を立てずに、滑らかに絹さんの腕にとまった。絹さんが喉を撫でると、抗議するみたいにホウホウと鳴いた。丸い瞳は澄んだ翡翠色だ。

 怜二が他の人間に化けるところはもちろん、人狼の変容シーンも、俺は見たことがある。でも今目の前で起きたのは、それよりずっと不思議で優雅な変身メタモルフォーゼだった。

 しかも、ああ、しかもっ……!


「かっ、かっ、かわいいぃぃ」


 がくんと下顎を落とす怜二を押しのけて、俺は絹さんに駆け寄った。もう辛抱たまらん!


「ね、ねえねえ、触っていい?」

「い、いいけど……」


 腕を差し出す絹さんは、若干引き気味だ。構わず、俺はそこにとまったミミズクを撫で回した。


「ああ、すっげえモフモフ、フカフカ……うおう、指が沈む。気持ちいい……あ、こら噛むなよこいつぅ」


 湾曲したくちばしでつつかれたが、そんなもん気にもならなかった。こんな機会めったにない。犬や猫とはレア度が違う。ミミズクは明らかに嫌そうな顔をして、絹さんの方に身を擦り寄せた。

 怜二が喚きながら歩み寄ってくる。


「ちょっとなに懐柔されちゃってんの!? 今までの展開忘れた!? モフモフ好きもいい加減にしな!」

「うるせえ! 動物を苛めるな!」


 俺はミミズクを抱き締めるようにして庇った。怜二は絶句して、口をぱくぱくさせた。

 絹さんは気まずげに苦笑いをする。


「んーと……仕切り直しましょうか。たぶん私たち誤解をしているみたい。いったん落ち着いて話をしよう。ね?」


 話、つっても……俺は周囲を見回した。


 俺たちを取り巻く霧はいつの間にか薄くなり、現実感のある風景が戻ってきていた。

 見覚えのある街角――ファミレスの看板が、場違いにポップな光を放っていた。

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