勇太とエリアス
俺は途方に暮れていた。
原因は、目下自分がどこにいるか分からないこと。十八歳にもなって迷子になるなんて情けねえと思うものの、事実そうなんだから仕方がない。
ミルク色をした分厚い霧の壁が、俺を取り囲んでいた。
生まれてこの方初めて経験する濃霧だ。一寸先も見えないとはこのことだった。
「おーい、怜二ぃ!」
俺は口元に手を添えて、ついさっきまで一緒にいたはずの友達の名前を呼んだ。
声は霧に吸い込まれて消えていく。何度呼んでも返事はなかった。
あいつ今頃、血眼になって俺を探してんじゃねえかなあ。いつぞやみたいに、キレ散らかして部下の人たちに八つ当たりしてなけりゃいいんだけど――視界の利かない場所に取り残された不安よりも、そっちが気がかりだった。
それにしても解せなかった。白い世界の中で、俺は溜息をつく。
大学の授業が終わった後、今日は怜二と外で食事をした。ええと、何の記念日だっけ……忘れたけど、一週間も前から約束をしてバイトのシフトも外していた。
怜二は最初、タカゾネグループ系列のホテルレストランを貸し切りにしようとしたのだが、俺は断固拒否した。
そりゃ怜二は見た目通りの大学生ではないし、自分の持ち物をどう使おうが勝手だと思っているのかもしれないけれど……。
俺の幼馴染みで、同級生で、今は恋人……でもある鷹曽根怜二は、実は人間ではない。人間の生命エネルギーを糧に生きる闇の生物、ヴァンピールだ。
しかも、十世紀を超える歳月を生き抜いた個体で、この国の裏で暗躍する一大ヴァンピール組織のボスを張っている。その組織の表向きの顔こそが、巨大コングロマリット、タカゾネグループ。怜二はその総帥。
長い年月をかけて自らの細胞を変化させる方法を身に着けた怜二は、自在にその姿を変え、一人で何役もこなしながら、グループ企業の経営と、ヴァンピールたちの統括を行っているというわけ。
それに対して、俺はしがない人間の若造だ。怜二に言わせれば「めちゃくちゃレアな美味しい血の持ち主」らしいんだが、自分では容姿も性格も頭の出来も平均値だと思っている。九桁の金額をポケットマネー扱いできる怜二とは違い、バイトに精を出す毎日だ。
俺たちが付き合うに至るまでには、俺の人生観が根っこから引っ繰り返っちまうような大騒動があった。ま、今はその話はいい。
ともあれ俺は、高級レストランの料理やハイブランドの洋服を、臆面もなく受け取れるほど思い上がってはいなかった。
あいつの財力や政治力に乗っかっていては、何というか、人間として駄目になっちまう気がする。自分でちゃんと稼いで、できる範囲でたまに贅沢するのが丁度いいのだ。
結局今夜は、俺の好みでごく庶民的なビストロを選んだ。
怜二のやつ、相変わらず食が細かった。あとでゆっくり君からもらうよ、とか言ってニコニコして、俺が食うのを眺めている。食事を残すことに関して厳しめに躾けられた俺は、いつも二人分平らげる羽目になっちまう。怜二と付き合うようになってから、俺ちょっと太ったかもしれない。
お値段そこそこ、でも味は大満足の洋食コースを堪能して、俺たちは店を出た。
怜二が楽しそうに俺の手に指を絡めてきて、俺はちょっと周囲を見回して、まあいいかとその手を握り返した。ひんやりとした感触はむしろ心地よかった。
もう少し夜の散策を楽しみたくて、コーヒーでも飲んで帰ろうか、という話になった。
あと一、二時間待つように、怜二が専属の運転手にメールを送っている間、俺たちの手が離れた。
足元に流れてきた白い靄。
霧だよ――と怜二を見やった時、その姿はなかった。あいつだけじゃない。見慣れた街並みもそこを行き交う人々も、一切合切が霧に巻かれて消え失せていた。
いや――消えたのは周囲ではなく、たぶん俺の方なんだろう。俺は細かな水の粒子の中に立ち尽くし、自分の置かれた状況について考えを巡らしていた。
どう考えても異常な展開。誰かが俺と怜二を引き離そうとしてるみたいだ。
そんな悪意のある企みを、しかもあの怜二を出し抜いて実行できるやつなんて、俺は一人しか思いつかない。口に出すのも汚らわしい、あの名前。
いやぁな、背中に虫が這うような不快感を覚えて、俺は両腕をさすった。細胞レベルにまで分解されたはずのあの男が、今にも霧の中から飛び出してきそうな気がした。
だから、影の塊が霧の中を横切った時、思わずひいっと声を上げてしまったんだ。
何だ何だ!? 俺は身を竦めて周囲を見回す。
視覚が利かないぶん敏感になった鼓膜が、ごくわずかな羽音を捕らえる。鳥?
直感を裏付けるように、上方からふわふわと黒いものが舞い降りてきた。俺の鼻先に降ってきたのは、柔らかい羽毛だ。こんな霧の中で鳥が飛んでるのか?
「冬馬!」
「ぎゃあっ!」
背後からどんと肩を突かれて、俺は今度こそ悲鳴を上げた。
飛び上がりながら振り返ると、いったいいつの間に近づいてきたんだ? 見知らぬ男が立っていた。
黒い上着に黒いシャツ、黒いズボン。長身を包む黒一色の服装は、霧の中で影法師のように見えた。しかし不思議と背景に滲むことなく、その存在感を鮮やかに示している。
そして――うわ、これはすごい。
男の顔を正視して、俺は息を飲んだ。俺が今まで目にしたいちばんのイケメンはもちろん怜二だが、この男はあいつに勝るとも劣らなかった。でもタイプは全然違う。普段の怜二が柔らかな水彩で描かれた天使だとしたら、この男は大理石の彫刻だった。血の気も生命感もない美貌の中で、翡翠みたいな両眼が不気味に光っている。髪の毛は真っ白だ。
明らかに日本人ではない容姿に、俺は戸惑った。
ええと、どちら様ですかは「Who are you?」でよかったっけ? いやいや、その前にはじめましての挨拶か……。
ドギマギする俺をよそに、その男は眉間に皺を寄せた。
「何だ、おまえ冬馬じゃないのか。あいつどこいった? 誰だよおまえ」
流暢すぎる日本語に呆気に取られた。それにずいぶん尊大な物言いだ。
「は? あ、あんたこそ誰だよ?」
「何で俺はこんな所にいるんだ? この気持ちの悪い場所はどこだ? 仕事の途中なのに、絹に叱られるじゃないか」
「知らねえよ! 俺の方が訊きたいわ」
一方的に問いを押しつけてくるもんだから、俺はキレ気味に吐き捨ててしまった。
男は鬱陶しそうに、しきりと四方に視線を飛ばしている。髪の毛に指を突っ込んで掻く仕草はひどく人間臭いが、それでも人間には見えなかった。
もしかして……。
「あ、あんたもしかして……ヴァンピール?」
恐る恐る尋ねると、男は唇を嘲笑の形に歪めた。造形がいいだけに、ものすっごく嫌味っぽい。
そしてその口元には尖った牙が――。
「vampireと言いたいのか? 半端に発音するくらいなら吸血鬼と呼べ」
やっぱり!
俺はもう脊髄反射的に身を翻した。一目散に駆け出す。
姿こそ違え、あの男がまたもや復活したんだ! 俺も怜二も油断してた。こんなにあっさりと罠に掛かってしまうなんて。
視界はゼロに近かったが、俺は死に物狂いで走った。サッカーで鍛えた足腰が今は心許ない。どれだけ速く駆けても十分ではない気がした。とにかく遠くへ、あいつから離れないと!
いきなり脛が何かにぶつかった。慣性の法則に従って、俺の上半身は前方へつんのめる。受け身も取れずにすっ転んだ。
「クソガキ、何で逃げる?」
足を引っかけた黒衣の男は、腕組みをして見下ろしていた。いつ追いつかれた!?
俺は尻餅をついた姿勢のまま後ずさった。
「お、おお俺に何かしようたって無駄だかんな!? 怜二が絶対に助けに来るから!」
「レイジ? 何だそれ」
男は呆れ顔で尋ねた。その気の抜けた口調に演技めいたところはない。あの原初の血の男が持っていた粘着性や残虐性は感じられなくて。
あ、あれ……何か様子が……。
男は大きく息をつき、俺の腕を掴んで軽々と立ち上がらせた。その手は骨まで凍るほどに冷たい。
「何を警戒しているのか知らんが、俺は、越境者を狩っていたら突然ここに出たんだ。元いた場所への帰り道が分からなくて困っている。周囲五百メートルほど飛んでみたが、霧ばかりだ。おまえはどこから来た?」
「俺は……普通に街を歩いてて……気がついたらここに……」
「ふうん」
緑色の目が検分するように俺を見詰めている。腕を掴んだ手は離してもらえない。
「今夜の越境者には黒幕がついていたのかもしれん。前例がある」
「黒幕って……ほんとにあんた怜二とは関係ないの?」
「だから誰だよそれは」
男の視線がふっと緩んだ。優しく、ではなく、愉しげに――。
「いい匂いがするな、おまえ、ガキのくせに」
男の声に、初めてひどく禍々しいものが混ざった。やべえ。
「ガキって呼ぶんじゃねえよ。渡海勇太だっ!」
「まさか、俺を釣り上げるための撒き餌か?」
「ひゃあ!」
俺は三度声を上げた。男がいきなり俺を引き寄せ、ポロシャツの襟元をぐいっと押し開いたのである。デートだから新品を下ろしてきたのに、生地が伸びたらどうしてくれるんだ!
押しのけようとしたが、男の腕力は凄まじい。右手で俺の腕をホールドして、左手で首筋を撫で回す。その冷たさと無遠慮さに、俺は背筋がぞわぞわした。
「おかしい、傷がない。他の場所を咬まれてるのか?」
「やめろやめろ、くすぐったい!」
こいつ、俺の方を罠だと疑ってやがる。
ヴァンピールに支配されているんじゃないかと傷を探してるみたいだけど、残念、そんなもんはない。なぜって、怜二くらい高位になると、血なんか媒体にしなくても人間のエネルギーが吸収できるからだ。あいつは俺にかすり傷ひとつつけることなく、いつも美味しく頂いている。
ま、まあ、たまにはノリと勢いで直に吸っちゃうこともあるけども、その時のアフターケアも万全。長時間歯型を残すなんてヘマはしない。
「ないから! 傷ないから! もうやーめーろぉ!」
首どころか肩や胸まで触られて、俺は身を捩った。
男は何を思ったのか、俺の耳の下に顔を近づけた。咬まれる! と一瞬いろんなモノが縮こまったが、男はフンフンと匂いを嗅いでいる。まるででっかい犬みたい……親友の顔がチラリと頭に浮かんだ。
ほっとしたのも束の間、うっとりした声が俺を我に返らせる。
「本当にいい匂いだ……ずいぶん高級な餌を奮発したな。罠と承知で引っかかってみるのもいいか……」
「えええ、ちょちょちょっ……!」
冷たい吐息が皮膚を擽り、唇がわずかに触れたり離れたりする。
あーっ、自分の体質が呪わしい!
思い出したくもないが、あの男に魂どころか貞操まで奪われかけた時とは違い、情欲のようなものは感じられなかった。そのかわりもっと単純で原始的な――そう、美味しいものに対する食欲がひしひしと伝わってきて、俺は恐れ戦いた。
もう限界だった。
「怜二ぃーっ! 助けてーっ!」
俺の声に、霧の向こうから響いてきたもうひとつの叫びが重なった。
渡海勇太
ごく平凡な大学生だが、その実、ヴァンピールを惹きつける匂い(フェロモン)を撒き散らすという業を背負っている。怜二にぞっこん惚れられている。