表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
羊飼いの休日  作者: 橘 塔子
第五話 ミスティ・カルテット(コラボレーション作品)
15/21

絹と怜二

つづれ しういち様の作品キャラクターをにゲストにお迎えしたコラボ作品です。

 私は途方に暮れていた。

 ここ、どこだろ――忙しなく周囲を見回すも、視界は白く霞んでいる。いや、白一色に塗り込められていると表現する方が正しかった。


 濃密な、霧。

 私は信じられないくらい濃い霧の中に佇んでいた。


 比喩ではなく自分の掌すら見えない。細かな水の粒子が肌の上で露を結び、髪の毛を湿らせる。肺が湿って呼吸さえ苦しい気がした。


 ほんの二十分前まで、私は郊外の住宅地にいた。SCシェパーズ・クルークの仕事、つまり『特種害獣』の捕獲作業中だったのだ。

 とはいえ、最近正社員になったばかりの私は専らサポート役である。今夜も、習性により被害者の居処にやってきた吸血鬼を、エリアスが追い立て、待ち伏せた日下くさかくんが仕留める手筈だった。私は彼らの中間地点で進行を見守っていた。

 何だか靄が掛かってきたな、と星の消えた空を見上げたのを覚えている。天気予報では今夜は快晴のはずだった。早く切り上げないとこっちが不利になるわよ――そう、頭に装着したインカムのマイクに告げて。

 日下くんからの返事が聞こえる前に、私は霧に巻かれていた。


 ブロック塀や生垣や電柱や標識や、そういった人工物に囲まれていたはずなのに、手の届く範囲には何もなくなっていた。視界を塞がれただけでなく、まったく違う場所に出てしまったような感覚。上方に光源があるらしく、白い空間は薄ぼんやりと明るい。そのことがまた異様さを際立たせていた。

 闇雲に動くと危ないとは分かっていたが、私はその場にじっとしていることができず、そろそろと手探りで移動した。

 当然何度もインカムに呼びかけ、スマートフォンでの通信も試みた。しかしイヤホンからはザーと乾いたホワイトノイズが聞こえてくるだけで、スマホの画面は虚しく圏外を示していた。


「日下くん! どこなの!? 日下くーん!」


 何度目かの名前を呼んでみる。声は反響することなく拡散し、霧に吸収された。私は屋外の、おそらく広い場所にいるようだ。

 続けて、心の中で強くエリアスに呼びかける。高感度センサーを持っているはずの相棒から、しかし返答はなかった。


「参ったなあ……どうしようこれ……」


 もう一度スマホを確認して、状況が変わっていないことに大きく溜息をついた。

 そもそもここは現実の世界なのか――ふいに脳裏をよぎったらちもない考えが、私の背筋を冷やした。捕獲作業の最中に事故にでも遭って、現実の私は生死の境を彷徨っているのかもしれない。

 私は勢いよく頭を振る。足元からはアスファルト舗装とおぼしき硬質な感触が伝わってくる。現実感を手放すまいと一歩一歩踏みしめ、慎重に進んだ。


 風はまったくなく、霧の壁はその場に留まり続けている。ドクドクと跳ねる自分の鼓動を感じながら、私はさらに嫌な予感に囚われかけていた。

 ()()()()の中には、擬似的な夜を作る技を身につけた奴がいた。霧による空間の遮蔽なんてもっと簡単なんじゃないだろうか。電波ばかりか、エリアスとのリンクまで妨害されるなんて、どうしても超自然的な力を疑ってしまう。

 あ、やばい、パニくりそう。私は立ち止まって、大きく深呼吸をした。


 その時、わずかな風が頬を撫でた。白い粒子が波のように動くのが見える。

 霧のレースカーテンの向こうから、黒っぽい人影が姿を現した。


「日下く……」


 ん、と呼びかける前に、それが別人だと気づいた。

 そこにいたのは、SCの同僚でも、はたまた腐れ縁で結びついた吸血鬼でもなかった。


 霧に溶けるような白い顔。優しい卵形の輪郭の中に、大きな目とすらりと高い鼻と薄い唇が実に品良く配置されている。そして、湿度を含んでもさらさらした黒い髪。

 うわあ、綺麗な子――私は状況も忘れて見惚れてしまった。

 高校生か……もう少し上かもしれないが、十代には間違いない。アイドルの誰それに似ているというよりは、宗教画に出てくる天使みたいな美少女だった。

 軽く瞬きをするその子に、私は慌てて掌を振った。


「あ、ごめんなさい、人違いでした。この霧で迷ってしまって。あなたも?」

「ええ、僕も迷子です。視界が悪くて困っていたところ」


 夕顔の花が開くような微笑みだった。その声音は柔らかなテノール。男の子だったのか……! 

 全身が見えてくると、さすがにもう女性には間違わなかった。細身だが、しっかりした少年の骨格だ。白いリネンシャツに黒いスキニーパンツを合わせ、革のスニーカーを履いている。

 迷子だと言った少年は、私を警戒する素振りもなく近づいてきた。足音を立てない、物静かな身のこなしだった。近くで眺めると、ますます姿形すがたかたちの美しさが際立つ。友好的な笑顔はひどく大人びていた。

 長く見詰めすぎた非礼に気づき、私は視線を逸した。


「変な霧だよね。夜遅いはずなのに、こんなに明るくて。仕事中だったのだけど、ここの住所って、ええと……」


 私は自分が捕獲作業をしていた街の名前を口にした。少年は怪訝な顔をする。


「おかしいな。僕は別の場所にいました」


 反対に、聞かされた地名はずいぶん離れた場所だった。そんなに移動しているはずはないのに。

 しばし沈黙した後、彼は小首を傾げた。


「仕事中って、何のお仕事ですか?」


 色素の薄い、ほとんど褐色に近い目が、興味深げに私を眺めた。初対面で結構不躾な質問だとは思うけれど、嫌な感じはしなかった。

 サポート役とはいえ危険作業には違いないので、今の私は黒い防刃ベストを着用している。腰に巻きつけたカーゴポケットといい、耳に嵌めたイヤホンマイクといい、我ながら怪しいと思う。


「……交通誘導」

「へえ」

「あなたは? 何をしていたの?」

「デート中に、恋人とはぐれてしまったんです」


 少年はごく自然に答えた。

 恋人、という言い回しに私は何だかドキッとしてしまった。日常会話で交際相手をそう称する人はあまりいない。この年頃の男の子ならなおさら、彼女とか友達とか言いそうなものなのに、こうさらっと口にされてしまうと……。

 照れる様子もなく、彼は微笑んでいる。日本で育った子じゃないのかもしれない、と私はチラリと考えた。


「じゃ、じゃあ早く戻ってあげないとね。でも霧が晴れるまで待つしかないか……」

「待ってても晴れないような気がします。この霧、まるで僕たちをここに閉じ込めようとしているみたいだ。誰の仕業だろう」


 腰に手を当てて、彼は周囲を見回した。


「……目的が()()()なら、まだいいのだけれど」


 低い呟きに、初めて感情らしきものが籠もった。困惑なのか焦りなのか怒りなのか計りかねたが、私はなぜか首筋に冷風を感じた。


 この子、何者? 


 ようやくその疑問が浮かぶ。

 この濃霧が誰かの企みかもしれないと疑う発想。にもかかわらず平静を保てる豪胆さ。

 逡巡の末、私は正面から切り出した。


「私は蓮村はすむらきぬといいます。名前を教えてくれる?」

怜二れいじ……鷹曽根たかぞね怜二れいじです。よろしく、蓮村さん」


 そう名乗った少年は右手を差し出した。口元には再び愛想のよい笑み。その美しさを囮に、私の視線を何かから引き離そうとしているように思えた。

 怪しいと分かっていても、私は彼の手を握ってしまう。が、柔らかな皮膚の異様な冷たさが、私の意識を明瞭にした。

 サテン地みたいに滑らかで、大理石みたいに芯から冷たい――この手の感触を、私は嫌というほど知っている。


「とりあえずその、ポーチの中身を出してもらえますか?」


 反射的に引っ込めようとした私の手を離さず、少年は綺麗な顔を近づけて囁いた。


「銀のステーク十字架クロス、それから何だか物騒な機械ですよ」


 今度こそ、私は総毛立った。

 迷うな、撃て――日下くんの言葉が聞こえた。奴らに威嚇も警告も必要ねえ。相手が人間なら無害だ、心配すんな。


 私は渾身の力で彼の手を振り払い、カーゴの外ポケットからUVIを抜いた。小型の、殺傷力は弱いモデルだ。だが護身用にはこれで十分。

 照射孔を喉元に突きつけられても、彼はわずかに細い眉を吊り上げただけだった。

 躊躇せず、私は引き金を引いた。


 噴き上がる炎を予想して後ずさったが、不可視の光線は少年の肉を焼かなかった。

 ただ――どういうことだろう。ゼロ距離で紫外線を照射された彼の顎から首にかけて、熱湯でも浴びたように赤く爛れていたのだ。


「紫外線か……」


 少年は惨たらしい糜爛びらんに左手をやった。熟しすぎたトマトのように皮が破れ、間質液がてらてらと光っている。


「いくら陽光に順応していても、こんなに至近距離で浴びるとさすがにこたえるよ。怖いことをしてくれるね、蓮村絹さん」

「陽光に順応……?」


 私は混乱した。人間なら火傷は負わない。吸血鬼なら火傷では済まない。いったいどっちだ?

 疑念はいきなり断ち切られた。瞬間移動としか思えない動きで間合いを詰めた少年は、私の手からUVIを叩き落とし、喉を鷲掴みにしたのだ。

 華奢な五本の指が鋼の蛇みたいに私の首に絡みく。引き剥がそうともがいてもびくともしない。ギリギリと締めつけられて、私はあっという間に酸欠になった。


「分かってるよ。君、『狩人ル・シャサール』だろ。僕を――僕たちを食い漁る薄汚い簒奪者」


 彼は実に憎々しげに言った。皮肉っぽく歪んだ唇の端から、ああやっぱり、白い牙が覗いている。顎下の火傷はすでに消え失せ、白い皮膚が静脈を浮かせていた。


「僕はね、これまで君たちのお仲間をおおぜい見てきた。同胞を救うためとうそぶきながら、どいつもこいつも僕たちの蓄えた私財が狙いだった。僕たちを灰にした後、召使いの人間たちまで殺して、屋敷に火をかけ……ああそうだ、僕をおびき出すために、僕の恋人を害した奴もいたっけね」


 恨みと嘲りと、わずかな悲しみの籠もった言葉を、私はまともに聞けなかった。息ができない。頭が破裂しそう。

 彼の瞳は、いつの間にか紅玉に変わっていた。血色の光彩の中で、瞳孔が縦長のスリット状に絞られる。蛇を思わせるその形は、冷酷な捕食者の目だ。

 暗くなっていく視界の中で、吸血鬼――らしきモノは天使のように微笑んだ。


「君たちのような害虫、見つけたらすぐに駆除すると決めてるんだよ。でも……一応訊いておこうか」


 誰に雇われたの? と彼は尋ねた。私は口をぱくぱくと動かす。

 どんな答えを予想したのだろう。喉を締めつける指の力が少しだけ緩んだ。

 私は素早く肺に空気を吸い込み、精一杯の声を張り上げた。


「助けて! エリアス!」


 私の声に、霧の向こうから響いてきたもうひとつの叫びが重なった。

鷹曽根怜二

 千年以上を生きる吸血鬼ヴァンピール。長年に渡る研究で陽光を克服し、人間社会に紛れて生活している。吸血鬼たちの組織のリーダー。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ