絹と怜二
つづれ しういち様の作品キャラクターをにゲストにお迎えしたコラボ作品です。
私は途方に暮れていた。
ここ、どこだろ――忙しなく周囲を見回すも、視界は白く霞んでいる。いや、白一色に塗り込められていると表現する方が正しかった。
濃密な、霧。
私は信じられないくらい濃い霧の中に佇んでいた。
比喩ではなく自分の掌すら見えない。細かな水の粒子が肌の上で露を結び、髪の毛を湿らせる。肺が湿って呼吸さえ苦しい気がした。
ほんの二十分前まで、私は郊外の住宅地にいた。SCの仕事、つまり『特種害獣』の捕獲作業中だったのだ。
とはいえ、最近正社員になったばかりの私は専らサポート役である。今夜も、習性により被害者の居処にやってきた吸血鬼を、エリアスが追い立て、待ち伏せた日下くんが仕留める手筈だった。私は彼らの中間地点で進行を見守っていた。
何だか靄が掛かってきたな、と星の消えた空を見上げたのを覚えている。天気予報では今夜は快晴のはずだった。早く切り上げないとこっちが不利になるわよ――そう、頭に装着したインカムのマイクに告げて。
日下くんからの返事が聞こえる前に、私は霧に巻かれていた。
ブロック塀や生垣や電柱や標識や、そういった人工物に囲まれていたはずなのに、手の届く範囲には何もなくなっていた。視界を塞がれただけでなく、まったく違う場所に出てしまったような感覚。上方に光源があるらしく、白い空間は薄ぼんやりと明るい。そのことがまた異様さを際立たせていた。
闇雲に動くと危ないとは分かっていたが、私はその場にじっとしていることができず、そろそろと手探りで移動した。
当然何度もインカムに呼びかけ、スマートフォンでの通信も試みた。しかしイヤホンからはザーと乾いたホワイトノイズが聞こえてくるだけで、スマホの画面は虚しく圏外を示していた。
「日下くん! どこなの!? 日下くーん!」
何度目かの名前を呼んでみる。声は反響することなく拡散し、霧に吸収された。私は屋外の、おそらく広い場所にいるようだ。
続けて、心の中で強くエリアスに呼びかける。高感度センサーを持っているはずの相棒から、しかし返答はなかった。
「参ったなあ……どうしようこれ……」
もう一度スマホを確認して、状況が変わっていないことに大きく溜息をついた。
そもそもここは現実の世界なのか――ふいに脳裏をよぎった埓もない考えが、私の背筋を冷やした。捕獲作業の最中に事故にでも遭って、現実の私は生死の境を彷徨っているのかもしれない。
私は勢いよく頭を振る。足元からはアスファルト舗装と思しき硬質な感触が伝わってくる。現実感を手放すまいと一歩一歩踏みしめ、慎重に進んだ。
風はまったくなく、霧の壁はその場に留まり続けている。ドクドクと跳ねる自分の鼓動を感じながら、私はさらに嫌な予感に囚われかけていた。
あいつらの中には、擬似的な夜を作る技を身につけた奴がいた。霧による空間の遮蔽なんてもっと簡単なんじゃないだろうか。電波ばかりか、エリアスとのリンクまで妨害されるなんて、どうしても超自然的な力を疑ってしまう。
あ、やばい、パニくりそう。私は立ち止まって、大きく深呼吸をした。
その時、わずかな風が頬を撫でた。白い粒子が波のように動くのが見える。
霧のレースカーテンの向こうから、黒っぽい人影が姿を現した。
「日下く……」
ん、と呼びかける前に、それが別人だと気づいた。
そこにいたのは、SCの同僚でも、はたまた腐れ縁で結びついた吸血鬼でもなかった。
霧に溶けるような白い顔。優しい卵形の輪郭の中に、大きな目とすらりと高い鼻と薄い唇が実に品良く配置されている。そして、湿度を含んでもさらさらした黒い髪。
うわあ、綺麗な子――私は状況も忘れて見惚れてしまった。
高校生か……もう少し上かもしれないが、十代には間違いない。アイドルの誰それに似ているというよりは、宗教画に出てくる天使みたいな美少女だった。
軽く瞬きをするその子に、私は慌てて掌を振った。
「あ、ごめんなさい、人違いでした。この霧で迷ってしまって。あなたも?」
「ええ、僕も迷子です。視界が悪くて困っていたところ」
夕顔の花が開くような微笑みだった。その声音は柔らかなテノール。男の子だったのか……!
全身が見えてくると、さすがにもう女性には間違わなかった。細身だが、しっかりした少年の骨格だ。白いリネンシャツに黒いスキニーパンツを合わせ、革のスニーカーを履いている。
迷子だと言った少年は、私を警戒する素振りもなく近づいてきた。足音を立てない、物静かな身のこなしだった。近くで眺めると、ますます姿形の美しさが際立つ。友好的な笑顔はひどく大人びていた。
長く見詰めすぎた非礼に気づき、私は視線を逸した。
「変な霧だよね。夜遅いはずなのに、こんなに明るくて。仕事中だったのだけど、ここの住所って、ええと……」
私は自分が捕獲作業をしていた街の名前を口にした。少年は怪訝な顔をする。
「おかしいな。僕は別の場所にいました」
反対に、聞かされた地名はずいぶん離れた場所だった。そんなに移動しているはずはないのに。
しばし沈黙した後、彼は小首を傾げた。
「仕事中って、何のお仕事ですか?」
色素の薄い、ほとんど褐色に近い目が、興味深げに私を眺めた。初対面で結構不躾な質問だとは思うけれど、嫌な感じはしなかった。
サポート役とはいえ危険作業には違いないので、今の私は黒い防刃ベストを着用している。腰に巻きつけたカーゴポケットといい、耳に嵌めたイヤホンマイクといい、我ながら怪しいと思う。
「……交通誘導」
「へえ」
「あなたは? 何をしていたの?」
「デート中に、恋人とはぐれてしまったんです」
少年はごく自然に答えた。
恋人、という言い回しに私は何だかドキッとしてしまった。日常会話で交際相手をそう称する人はあまりいない。この年頃の男の子ならなおさら、彼女とか友達とか言いそうなものなのに、こうさらっと口にされてしまうと……。
照れる様子もなく、彼は微笑んでいる。日本で育った子じゃないのかもしれない、と私はチラリと考えた。
「じゃ、じゃあ早く戻ってあげないとね。でも霧が晴れるまで待つしかないか……」
「待ってても晴れないような気がします。この霧、まるで僕たちをここに閉じ込めようとしているみたいだ。誰の仕業だろう」
腰に手を当てて、彼は周囲を見回した。
「……目的が僕の方なら、まだいいのだけれど」
低い呟きに、初めて感情らしきものが籠もった。困惑なのか焦りなのか怒りなのか計りかねたが、私はなぜか首筋に冷風を感じた。
この子、何者?
ようやくその疑問が浮かぶ。
この濃霧が誰かの企みかもしれないと疑う発想。にもかかわらず平静を保てる豪胆さ。
逡巡の末、私は正面から切り出した。
「私は蓮村絹といいます。名前を教えてくれる?」
「怜二……鷹曽根怜二です。よろしく、蓮村さん」
そう名乗った少年は右手を差し出した。口元には再び愛想のよい笑み。その美しさを囮に、私の視線を何かから引き離そうとしているように思えた。
怪しいと分かっていても、私は彼の手を握ってしまう。が、柔らかな皮膚の異様な冷たさが、私の意識を明瞭にした。
サテン地みたいに滑らかで、大理石みたいに芯から冷たい――この手の感触を、私は嫌というほど知っている。
「とりあえずその、ポーチの中身を出してもらえますか?」
反射的に引っ込めようとした私の手を離さず、少年は綺麗な顔を近づけて囁いた。
「銀の杭と十字架、それから何だか物騒な機械ですよ」
今度こそ、私は総毛立った。
迷うな、撃て――日下くんの言葉が聞こえた。奴らに威嚇も警告も必要ねえ。相手が人間なら無害だ、心配すんな。
私は渾身の力で彼の手を振り払い、カーゴの外ポケットからUVIを抜いた。小型の、殺傷力は弱いモデルだ。だが護身用にはこれで十分。
照射孔を喉元に突きつけられても、彼はわずかに細い眉を吊り上げただけだった。
躊躇せず、私は引き金を引いた。
噴き上がる炎を予想して後ずさったが、不可視の光線は少年の肉を焼かなかった。
ただ――どういうことだろう。ゼロ距離で紫外線を照射された彼の顎から首にかけて、熱湯でも浴びたように赤く爛れていたのだ。
「紫外線か……」
少年は惨たらしい糜爛に左手をやった。熟しすぎたトマトのように皮が破れ、間質液がてらてらと光っている。
「いくら陽光に順応していても、こんなに至近距離で浴びるとさすがに堪えるよ。怖いことをしてくれるね、蓮村絹さん」
「陽光に順応……?」
私は混乱した。人間なら火傷は負わない。吸血鬼なら火傷では済まない。いったいどっちだ?
疑念はいきなり断ち切られた。瞬間移動としか思えない動きで間合いを詰めた少年は、私の手からUVIを叩き落とし、喉を鷲掴みにしたのだ。
華奢な五本の指が鋼の蛇みたいに私の首に絡みく。引き剥がそうともがいてもびくともしない。ギリギリと締めつけられて、私はあっという間に酸欠になった。
「分かってるよ。君、『狩人』だろ。僕を――僕たちを食い漁る薄汚い簒奪者」
彼は実に憎々しげに言った。皮肉っぽく歪んだ唇の端から、ああやっぱり、白い牙が覗いている。顎下の火傷はすでに消え失せ、白い皮膚が静脈を浮かせていた。
「僕はね、これまで君たちのお仲間をおおぜい見てきた。同胞を救うためと嘯きながら、どいつもこいつも僕たちの蓄えた私財が狙いだった。僕たちを灰にした後、召使いの人間たちまで殺して、屋敷に火をかけ……ああそうだ、僕を誘き出すために、僕の恋人を害した奴もいたっけね」
恨みと嘲りと、わずかな悲しみの籠もった言葉を、私はまともに聞けなかった。息ができない。頭が破裂しそう。
彼の瞳は、いつの間にか紅玉に変わっていた。血色の光彩の中で、瞳孔が縦長のスリット状に絞られる。蛇を思わせるその形は、冷酷な捕食者の目だ。
暗くなっていく視界の中で、吸血鬼――らしきモノは天使のように微笑んだ。
「君たちのような害虫、見つけたらすぐに駆除すると決めてるんだよ。でも……一応訊いておこうか」
誰に雇われたの? と彼は尋ねた。私は口をぱくぱくと動かす。
どんな答えを予想したのだろう。喉を締めつける指の力が少しだけ緩んだ。
私は素早く肺に空気を吸い込み、精一杯の声を張り上げた。
「助けて! エリアス!」
私の声に、霧の向こうから響いてきたもうひとつの叫びが重なった。
鷹曽根怜二
千年以上を生きる吸血鬼。長年に渡る研究で陽光を克服し、人間社会に紛れて生活している。吸血鬼たちの組織のリーダー。