四
冬の大気は、夜明け前になって一段と冷え込んだ。
明るい夜は終わりを迎え、都会はようやく眠りにつきつつある。寂しくなった夜景を、エリアスとユーディットは街でいちばん高い場所から見下ろしていた。
川沿いに建てられた、巨大な塔の頂上。日付が変わるまでは塔全体が青く光り、天に掲げられたキャンドルのようだったのが、この時刻は航空障害灯の点滅を残すのみである。目の眩むような高さのこの円柱の天辺で、二人は夜を見送っていた。
眼下に広がる市街地は大半の灯りが消え、黒い絨毯に変わっている。遠くに見えるビル群の輪郭も暗く曖昧で、雲ひとつない夜空が光も賑わいも全部吸い取ってしまったような風景だった。
「静かね」
鉄骨に腰掛けたユーディットは、地上六百メートルの強風に白い髪を靡かせながら呟いた。
黒いフリルワンピースの美少女ではなく、今は成熟した女の姿を取っている。古代の女神像を思わせる冷ややかな美貌だ。青い両眼は聡明そうな切れ長で、眉は鋭く、鼻筋は細い。身に着けているのは肩を出した真珠色のドレス一枚だが、少しも寒そうな素振りはなかった。
少し離れた場所にエリアスが立っている。上着の裾をはためかせる彼は、うっすらと白み始めた東の方角に目をやった。
「日の出が近い。そろそろ帰った方がいいぞ」
「もうちょっとだけ」
「ユーディット、何でこっちに来た?」
今さらながらの問いに、ユーディットの唇が笑った。
確かめたいことがあるの、と答えてから膝を抱える。ドレスの裾から白い素足が覗いた。
「私も、今より身軽だった頃は、よくこっち側に遊びにきていたのよ。その時の人間の世界がどんなだったか……あまり覚えていないのだけど」
当時の彼女の遊びのためにどれだけの人間の血が流れたか、想像するとエリアスは頭が痛くなった。『レガリア』の過去の乱行は、半ば伝説的に語り継がれている。当人がほとんど記憶していないとは。
「久々に出てきて、どうだった?」
「粗野で騒がしくて目まぐるしくて――人間は元気ね。楽しいわ。あなたが戻りたがらないのも分かる」
ユーディットの頬にふわりと赤みが差した。だが、その眼差しはすぐに沈む。
「でも覚えておきなさい。人間はすぐに死ぬわよ。瞬きをする間にいなくなってしまう。あなたはこの世界では異物なのよ」
至極当然の指摘は、エリアスを動揺させはしなかった。あの『厄災の声』の持ち主に囚われてから、何度も考え噛み砕き、飲み込んできた事実だ。
「……知っている。この縁は、放っておいてもいずれ切れる――瞬きをする間にな。だから、今はここにいることにした」
端的な答えに、ユーディットは表情を緩めた。変わり始めた空の色のせいか、少しだけ寂しげに見えた。
それきり沈黙が流れた。
しばし風の音を聞いた後、エリアスは天を振り仰ぐ。
「さ、帰るぞ。タイムリミットだ」
「確かめたいことがあると言ったでしょ」
差し延べられた手から、ユーディットはそっぽを向いた。また駄々を捏ねて――エリアスは苛立ったが、突然湧き上がった嫌な予感がそれを凌いだ。
端整な顔立ちに戯れの気配はない。東の空に向けて身を乗り出す横顔に、好奇心と呼ぶにはあまりに強固な、欲望に近い感情を認めて、エリアスは戦慄した。
「おまえまさか……」
太陽を見るつもりか――。
向こう側では絶対に見られない、死の凶星。その光と熱と力は、夜を飾る人工の光になど比べるべくもない。ユーディットはその姿を直に眺めようというのか。
エリアスは首を振った。夜の遮光幕は薄くなり、天球は加速度的に明るくなっている。黎明のグラデーションは消えて、空の底がオレンジ色に染め変えられていく。
「ふざけるのはよせ。陽光を浴びたいのなら鳥にでも蛇にでも化けろ。ほら行くぞ」
エリアスが強引に肩を掴むと、死とは最も遠い場所にいるはずの女は、静かに彼を見返した。
「エリアスこそ死ぬわよ。さっさと逃げて」
「『レガリア』が灰になるのを見過ごせるか。絶対に俺のせいにされるじゃないか!」
「ほんとにあなた変わったわね。そんなに真面目だったかしら」
ユーディットはエリアスの手に手を重ねた。骨まで染み入る冷気を覚え、エリアスは指一本動かせなくなる。
「じゃあ、ここにいて。一緒に灰になるのも悪くないわ」
「ユーディット……!」
「ほら、来るわよ」
冬の日の出は北寄りの東からやってきた。海のある方角だ。焼けた空を引き裂くように、鋭い曙光が真っ直ぐに伸びる。
エリアスには、光を遮断する『蝕』を生成する余裕はおろか、動物に変身する暇もなかった。軽く握られた手が、彼からすべての自由を奪っていた。
光の塊がぬっと顔を出すと同時に、凄まじい熱と光がエリアスを襲った。
エリアスは反射的に空いた腕で目を覆う。瞼を閉じても視界が白く爆ぜた。叫ぼうとしても声が出ない。喉も肺も熱に焼かれているのだ。皮膚が炎を噴き上げるのを感じた。
熱すぎて痛いのかどうか分からない。痛みを感じる前に消滅するのだろうと、エリアスはどこか他人事のように考えた。
せめてあのバカ女の最期を見てやろうと、必死で目を開ける。
風に吹き乱される灰は、彼自身の肉体の破片だろう。黒い雪が舞うような景色の中で、しかし、ユーディットには何も起きていなかった。傷ひとつない美しい姿で、残酷な陽光を浴びている。
失われていくエリアスの視力は、ひどく心許なげな彼女の表情を捕らえた。
「……この姿も、違う」
抑揚のない声が聞こえた次の瞬間、エリアスは闇に包まれた。
ついに自分が消滅したのかと思ったが、彼を飲み込んだ闇は造られたものだった。
息苦しいほど濃密で、分厚い。覚えのある手触りの暗闇――これは『蝕』による遮断だ。
しなやかな腕がエリアスを抱いていた。ぼろぼろに焼け爛れ、半ば炭化した体を、優しく抱きかかえている。
何てことしてくれた、と恨み言を言おうとするも、声にならなかった。視神経が焼き切れたのか目も見えないが、おかげで悲惨な状態の体を見ずにすんだ。
おまえ、自分の本当の姿が分からなくなっているのか――エリアスは唇だけを動かした。
ユーディットにとっては、動物だけでなく人型までもが擬態バリエーションのひとつだった。長い歳月で姿を変え続ける間に、本来の姿を見失ってしまったのだろう。
実体を確かめる方法はただひとつ。陽光を浴びて、消滅するかどうか。
命懸けの実験のためにこちら側へやって来たとしても、この女なら納得できる。
人を巻き込むな――出ない声で文句を言うエリアスに、ユーディットはごめんねと謝った。あまり反省している風ではなかった。
唇に冷たいものが触れた。ユーディットの皮膚だ。手首の部分らしく、すでにつけられた傷から蜜が滴っていた。
ほとんど脊髄反射的に、エリアスはそれを啜った。
『レガリア』の血は甘く濃く、後から後から湧き出してきた。彼が味わったどんな血よりも強い。一滴飲むごとに、死にかけていた細胞が息を吹き返す。
身動き取れるようになったエリアスを、ユーディットは抱き起こした。嵌まるとヤバいぞ――そう分かっていても、エリアスは本能のままに彼女の首筋に牙を立てた。
唯一無二の血は、彼の喉に流れ込むと同時に毛細血管の隅々まで浸透し、陽光による損傷を急速に治癒させた。エリアスは痛みに近い高揚感を覚える。
ユーディットに与える時とは逆だった。飲めば飲むほど満たされて――何かが奪われていく気がした。
深みを覗いてはいけない、とエリアスは目を閉じる。
『レガリア』の記憶に、本質に触れたら最後、きっとこの女に囚われる。だがもっと欲しい。もっと、もっと――。
際限のない欲動をねじ伏せられたのは、空恐ろしくなったからだ。押しのけるように口を離した時、エリアスはすっかり元の美しさを取り戻していた。
ユーディットは、彼の唇を拭って微笑む。こちらも元通りの、可憐な美少女の姿を取っていた。
「今夜はありがとう。また遊んでね」
年相応の明るい笑みは、何個目の仮面だろうか。エリアスは返す言葉を思いつかなかった。
SCのオフィスに出勤した蓮村絹は、いつものように役員室のベランダの窓を開け、そこで待っていた黒ミミズクの姿にぎょっとした。
夜の散歩を楽しんだエリーを部屋に入れてやるのは日課である。しかし今朝は、黒い猛禽類の様子は明らかに異様だった。
つやつやフカフカしているはずの羽毛はぼさぼさに乱れ、体が一回り小さく見えた。エアコンの室外機に止まって力なく揺れている。別のミミズクかと思うほど憔悴していたのだ。
エリーは絹を認めると、ホホホホと小刻みに鳴いて、彼女に飛びついた。うまく肩に着地できずに胸元でばたつく鳥を、絹は慌てて抱き上げる。
「どうしたのエリー!? カラスにでもつつかれたの?」
ようやく肩によじ登ったエリーは、しきりと体を擦り寄せ、絹の髪を啄んだ。外で虐められた子供が親に泣きついているような風情だった。
「エリー帰ってきてるか……あーっ、こら!」
珍しく早く出勤してきた日下が役員室に入ってきて、つかつかと歩み寄った。彼の目には、いかがわしい吸血鬼が絹に抱きついているように見えるのだろう。
「どさくさに紛れておまえは! 離れろ!」
「ちょっ……やめてよ日下くん。エリー、何だか弱ってるみたいなの」
引き剥がそうとする日下からエリーを庇って、絹はエリーを腕の位置に乗せた。
エリーは緑色の瞳で彼女を見上げ、ホウと訴える。羽毛を整えるように体を撫でられると、心地よさそうに喉を上げた。一瞬日下を横目で睨んだ後で。
何かあったのだろうかと、絹は昨晩の記憶を辿った。四六時中繋がっているわけではないが、変わったことがあれば、双方向にチャンネルが接続されるのが常だった。
昨晩は――彼の気配は実に静かだった。まるで何かに遮られていたように。
「何があったの?」
尋ねてみたが、エリーは軽く瞬きをしただけだった。
とりあえず水を飲ませて、休ませて――絹はエリーを撫でながら部屋の中へ連れ帰った。エリーは安心したのか、うつらうつらと居眠りを始めていた。
また近いうちに。
「え?」
涼やかな声が聞こえた気がして、絹は振り返る。
ベランダに白いものがふわふわと舞い落ちるところだった。再び窓を開けて手を伸ばすと、それは柔らかな羽根だった。
辺りを見回すも、鳥の影はない。
「日下くん、今……」
「どうした?」
「いや、何でもない。今朝は寒いわね」
絹は身を震わせて窓を閉めた。
手放された羽根は、水晶のような冬の日差しに輝きながら、風に運ばれていった。
「ブライトナイト・ポリフォニー」完