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羊飼いの休日  作者: 橘 塔子
第四話 ブライトナイト・ポリフォニー
13/21

 エリアスは大きく横へ跳んで避けた。

 アスファルトの路面に黒い槍が突き刺さる。一撃目とは軌跡が違った。投槍手は複数いるのだ。

 続けて二本、三本――人間たちがわあっと声を上げて逃げ惑った。


「おいっ、止めるように言え!」

「……鬱陶しいわね」


 何本目かの槍は、ユーディットに阻止された。パフスリーブから伸びる華奢な手が、飛来する凶器をいともたやすく掴んだのである。

 彼女はそれを逆手に持ち替えると、面倒くさそうに放り投げた。槍は同じ軌跡を逆に戻っていく――さっきとは倍のスピードで。

 数十メートル先のビルの屋上で、一人の吸血鬼が自らの武器に胸を貫かれた。一瞬でその男が灰になるのを、エリアスは感じた。


 風の唸りだけを立てて、エリアスの眼前に別の男が着地した。目深に被った黒いフードで顔は見えないが、刃物のような敵意は分かった。ほぼ予備動作なしで手にした槍を突き出してくる。

 エリアスは滑らかな体重移動で身をかわす。その背を別の男が襲った。左脇にももう一人――ビルの壁面の凹凸に潜んでいたのか、フードの侍従たちは次々と舞い降りてくる。多方向からタイミングをずらして突き出される穂先は、エリアスを手こずらせた。

 個体のレベルとしてはエリアスに遠く及ばない。しかし、数の多さと強力な武器が厄介だった。


「落ち着け。俺は何も……」


 鋭い突きを掻い潜るエリアスと侍従たちの間に、ユーディットが割り込んできた。

 この場を収められるはずの絶対君主は、制止も威嚇もしなかった。白い手が薙ぐと、男の喉元から血が噴き出す。彼女は何のためらいもなく、自分を守ろうとする侍従を引き裂いたのだ。

 弧を描いた腕は、そのまま次の男の喉元を掴んだ。フードから覗く口がぽかんと開く。嫌な音を立てて、男の首は有り得ない方向に捻じ曲がった。

 さらに三人目――ユーディットは反対の手でその胸倉を貫いた。


「せっかく楽しく遊んでいたのに、邪魔しないでよね」


 引き抜かれた拳は、どくどくと痙攣する肉塊を掴んでいる。ユーディットは血塗れのそれをぺろりと舐めてから、地面に投げ捨てた。

 ほとんど同時に、三人の侍従の輪郭が崩れた。肢体が爆ぜるように灰に変わり、煙になって流れた。


 おおお、というどよめきが周囲から上がった。遠巻きに眺めていた人間たちはパフォーマンスか何かだと思ったのだろう。スマホを構えている奴が大勢いた。

 エリアスはユーディットの腕を掴んだ。


「簡単に殺すな! 止めろと命じればいいだけだろうが」

「だって、めんどくさいじゃない」

「そういうところだぞおまえは!」


 彼の苛立ちは、次なる襲撃の気配で断ち切られた。ユーディットの凶行をどう取ったのか、新手が続々とやって来たのだ。


 きぬに叱られる――エリアスの脳裏をよぎったのはそれだった。

 街に被害が出ようが巻き添えで人間が死のうが知ったことではないが、騒ぎを起こしたのがバレたら、あの女は問答無用で自分を叱責するだろう。どんな屈辱的な罰を科されるか分かったものではない。


 エリアスは、くそ、と嘆息して、ユーディットを横抱きにする。

 そしてそのまま、見物人の輪を飛び越えて逃走したのだった。





 個性的な外観の商業ビルが多いエリアだったので、凹凸に足をかけて壁面を進むのはたやすかった。

 テラスの縁をステップに、隣のビルの非常階段へ、さらに窓枠のわずかな突起を踏み越えて跳躍する。侍従たちの追撃を振り切ろうと、エリアスは密林の猿のようにビルの間を進んだ。眼下ではイルミネーションが別世界のように輝いている。


 ユーディットはエリアスの首にしがみついてきゃっきゃと嬌声を上げた。自分のしでかしたことなどすっかり忘れて、今はこの状況を楽しんでいるのだ。


「もっと高い所へ行って! ほらあそこ!」

「あっこら、動くなって」


 エリアスは自分のやっていることが虚しくなった。こんな危険物を押しつけられて、逆恨みを買った挙げ句に逃げる羽目になるとは。しかも奴らが取り戻そうと必死になっている女が、逆に奴らを攻撃している。無茶苦茶だ。

 いっそどこかで待ち伏せて返り討ちにしてやろうかと考える。

 そもそも彼は、『レガリア』の侍従の存在を快くは思っていない。気紛れな主人に使える彼らは、その機嫌ひとつで八つ当たりのようになぶられ、食い殺されることがしょっちゅうだ。

 にも拘らず、彼らがユーディットに盲従する理由はひとつ――彼女が発情した時に真っ先につがえるからだった。


 まったく気色の悪い――エリアスは侍従たちを、そして彼らの生物学的本能を利用した主従システムを軽蔑していた。今こんなに執拗に追いかけてくるのも、ライバルを排除する意図があるに違いなかった。

 でも、だからといって、人間の血に狂ったわけでもない同胞を殺すのは、さすがに躊躇があった。

 もうこいつを放り出して一人で逃げるか、と考え始めた時、


「うわ」


 エリアスは間の抜けた声を上げつつ体を傾けた。脇腹すれすれを黒い槍が掠めていく。

 飛来に気づいて躱したのは見事だったが、足場を踏み外した。


 数階分落下して、どうにか窓枠に手をかけたエリアスの腕から、ユーディットはするりと抜け出した。

 蛇のような動きでビルの壁面に張り付き、平らなガラス窓に足の裏を着ける。地面と()()()立った姿勢は、重力を操っているとしか思えなかった。

 ごく何気ない仕草で、彼女は飛んできた次の槍を引っ掴んだ。それを握ったまま、ガラスの上をスタスタと上って行く。

 追撃者は五人いた。二十階建ての屋上のフェンスに上った彼らに、九十度傾いたユーディットがにっこりと微笑みかける。


 黒い灰が次々と噴き上がるのを、エリアスは唖然として眺めた。

 槍を振るい、それが消えると直接飛びかかっていくユーディットには、慈悲や手加減がいっさいなかった。邪魔者を排除するというより、命を握り潰す行為自体を楽しんでいるようだった。

 四人の侍従が灰になった後、エリアスはようやく屋上まで窓をよじ上り、跳躍した。


「そこまでにしろ!」


 ユーディットを押しのけ、強引に割って入る。

 敵を認識した侍従が、狭い間合いで槍を突き入れた。エリアスは穂先を脇に挟んで止めて、思い切りへし折った。

 前傾姿勢になった侍従の喉を掴み、空調の室外ユニットに押しつける。鉄板が鈍く凹んだ。


「こんな阿呆らしい理由で死ぬな、この雑魚が!」


 牙を剥く侍従を怒鳴りつけて、エリアスはそのフードを剥ぎ取った。露わになった顔はまだ若かった。赤みがかった金髪に青い目は、エリアスよりも遥かに下位の個体だ。多勢に無勢とは言え、クラウストルムをここまで追跡できるまでには相当な訓練が必要だっただろう。


「……ユーディットはすぐに帰す」


 緊張に強張るその侍従から、エリアスは手を離した。侍従はずるずるとその場にへたり込んだ。


「悪いことは言わない。転職しろ」


 溜息混じりに忠告して、彼はなおも掴みかかろうとするユーディットを抱き締めるようにして制止した。


「それ私のよ。勝手に解放しないで」

「ケチなこと言ってんじゃない。おまえ『レガリア』だろ」


 ユーディットは、お気に入りの玩具を没収された子供のような表情になった。

 冷たい風が彼らの頬を打った。黒フードの男が十人以上、フェンスを跳び越えて屋上に舞い降りる。残りの侍従たちが集結したのだ。

 ユーディットの目が爛々と輝き、殺戮の続きを求めているのが分かった。

 エリアスは彼女を抱く腕に力を込め、その顔を自分の方に向かせると、唇に唇を押しつけた。


 この不意討ちを、ユーディットは気に入ったようだった、不機嫌もどこへやら、細い腕を彼の首に回して深くキスを味わう。喉の奥からくぐもった声が漏れた。

 口づけを交わす二人の姿は、夢のように美しかった。事情を知らない者が見れば、その絵画的な麗しさに感動し、羨望しただろう。殺気立った侍従たちですら、一瞬この光景に見惚れたのである。


 凶暴な女王の気を逸らせることに成功したエリアスは、そのまま彼女を抱き上げて身を翻した。我に返った侍従たちが身構えた時、彼は反対側のフェンスに飛び乗るところだった。


「ねえ、もっと」

「うるさい」


 甘えるユーディットをぴしゃりと拒んで、エリアスはフェンスを踏み越え、地上七十メートルの夜空に身を躍らせた。

 駆け寄った侍従たちが目にしたのは、抱き合ったまま真っ逆さまに転落していく男女が、別のものに姿を変える瞬間だった。





 都心の上空を、二羽の鳥が飛翔していた。

 どちらもミミズクと呼ばれる猛禽類である。大きさも見た目もほぼ同じであったが、片方は闇を凝縮させたような漆黒、もう片方は月を鏡に映したような純白の体をしていた。

 黒白こくびゃくの鳥は、ビル風に乗って高層建築群の谷間を渡った。翼を広げて滑空し、輝く街路樹の間を擦り抜け、また舞い上がっていく。血のようなテールランプの光が流れる高速道路を飛び越えて、高架を走行する電車に伴走した。

 冬の夜風は二羽の野鳥を運ぶ波であり、街の灯りは道標となった。彼らは寄り添ったり離れたりしながら、明るい夜空を自由自在に飛び回った。





 器用なものだな、と、エリアスはユーディットの飛翔に感心した。

 久しぶりの外出にも拘わらず、水色の目をした白いミミズクは実に巧みに風を捕まえ、思う様に空を渡っていた。時にエリアスが置いて行かれるほどだ。


 うんと高く上昇した彼らの眼下には、街を分割する黒い帯が見えてきた。太い川である。

 ユーディットは一気に降下した。エリアスも急いで追いかける。

 水面ぎりぎりを這うように飛び、何本も橋の下を潜った。電飾をぶら下げた屋形船が行き交っている。人間の街の夜は、水の上すら明るかった。


 川の流れに沿って飛ぶと、やがて広い場所に出た。海だ。月が出ている。

 エリアスにはユーディットの歓声が聞こえた気がした。彼女はますますスピードを上げ、河口から海原へ飛び出した。

 水面はさすがに暗かったが、貨物船や客船が引っ切りなしに航行する賑やかな港湾だった。光を盛り上げたような夜の街が近くに迫り、視線を巡らすと、湾の向こう岸にも別の街の光が見える。上空では航空機の航行灯がいくつも瞬いていた。


 どこもかしこも明るい夜――慣れていてもエリアスは落ち着かない気分になる。しかしユーディットは、その光への執念とも呼べる人工物を楽しんでいるようだった。


 白い翼が海面を叩いた。水飛沫を避けるエリアスを尻目に、彼女は勢いよく水の中に突っ込んで行く。数秒の後、海中から姿を現したのは、真っ白い流線型の生き物だった。

 それはシャチだった。この女はいったい何種類の擬態バリエーションを持っているのだろう。つやつやした皮膚を月光にきらめかせて海面に浮上し、大きな波を立ててまた潜水する。

 小さな青い目が誘うようにエリアスを見たが、彼は遠慮しておいた。クラウストルムといえども、とても真似できない芸当だ。


 その夜、何人もの貨物船のクルーが、湾内に迷い込んだらしい純白のシャチを目撃した。上空を旋回する黒いミミズクに気づく者はいなかったが、この珍客はあちこちのスマホで撮影された。

 しかし不思議なことに、再生された画像や動画はただ夜の海を映しているだけで、大型の海獣の姿などどこにも残ってはいなかった。

 そして同様の現象は、数時間前、街中でおかしな戦闘シーンを撮影したカメラにも起こっていたのだった。

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