二
ああくそ、謀られた――エリアスは自らの迂闊さを呪ったが、もう遅かった。
乱暴に咬み破られた皮膚から、血がどくどくと流れ出している。花弁みたいな唇が、それを旨そうに吸い取った。
抵抗しても無駄なことはよく分かっていた。下手に抗えば、平気で腕を折ったり肉を引きちぎったりする相手だ。満足するまで与えておくしかない。
「アーウィン、よくも俺を賄賂にしたな」
殺意さえ籠もった視線を、アーウィンは受け流した。しかしその口元は今にも笑い出しそうだ。
「人聞きの悪い。私は『レガリア』の命令に従っただけだよ」
「それだけ狡賢ければ、長老になっても長生きできるだろうよ」
悪態は徐々に掠れた。エリアスは頭の奥が痺れ、四肢の力が抜けてくるのを感じた。単なる失血による目眩ではない。命そのものが吸い取られていく気がする。
そして喪失と引き換えに与えられるのは、甘やかな充足感――奪われて満たされる、その矛盾した感覚は確かに快楽を伴った。非常にいまいましく思いながらも、エリアスはそれを嫌ってはいなかった。
優しい手つきでエリアスの髪を梳きながら、彼女は無遠慮に彼の血を吸飲した。小動物を嬲ってその苦痛を愉しんでいるような、実に残酷な手際である。
エリアスの呼吸が浅くなり、ただでさえ白い皮膚が紙の色になってきた頃、ようやく楔が抜けた。
「ああ美味しかった!」
吸血鬼社会の頂点に立つ個体、ユーディット・レガリアは、赤く濡れた唇をぺろりと舐めた。
ごく年若い、人間に当てはめると十六、七歳くらいの姿。だが、美しさはもとより存在感の面でも、二人のクラウストルムを大きく凌駕していた。いつの間に服装まで変化させたのか、フリルたっぷりのワンピースがこの上なく似合っている、
長い、長い間、闇の宮殿で微睡んでいた女王が、何故ここに? エリアスは混乱してユーディットを見詰める。彼女は子供っぽく笑った。
「あなたが全然帰ってきてくれないから、来ちゃった」
「来ちゃったって、おまえな……」
文句を言おうとするエリアスの唇に、ユーディットはちゅっと口づけた。仲睦まじい恋人の再会シーンそのものである。漂う濃厚な血の匂いを除けば。
この女なら退屈しのぎにフラフラ出てくるだろうな――エリアスはげんなりした。ついでに、放し飼いにしている愛玩物をからかうことを思いついたのだ。
人目も憚らず――人間の客は相変わらず彼らを気にしていないが――べたべたと抱きついてくるユーディットをいなしつつ、彼は声を潜めた。
「アーウィン、こいつが暴走したら、あんた責任取れるのか」
「君がついていれば大丈夫だろ。それに、ほら、侍従が二十人ほど同行している」
エリアスは目を細めた。感覚を拡散させると、周囲数十メートル範囲に相当数の吸血鬼の気配が感じ取れた。なぜ今まで気づかなかったのかと、再び自らの不注意を恥じる。
「外に行きましょ、エリアス。エスコートしてちょうだい。こっち側に来るのは久し振りなの!」
ユーディットは椅子から下りて、エリアスの手を引っ張る。彼は塞がりつつある首の傷を大袈裟にさすって、そっぽを向いた。
「い、や、だ!」
「じゃあ私一人で行くわ。ワガママ変態女が野放しになるけど、いいの?」
ユーディットは小首を傾げる。誰もが微笑みを返したくなる可愛らしい脅しだが、彼女の性格を思い知っているエリアスは頬を引き攣らせた。
「この辺りで大量に人間が襲われたら、君の居候先はずいぶん忙しくなるだろうねえ」
のんびりと煽ってくるアーウィンを、エリアスは睨んだ。
「あんたは高みの見物かよ」
「私はもう少しここで生きている人間を観察していくよ。ユーディット、朝日には気をつけて」
「はーい。行こ!」
エリアスに狡猾な同僚を罵倒する暇を与えず、ユーディットは彼の手を掴んで店の外に向かった。
夜の街はこの時期らしい活気に溢れていた。
街路樹は青いLEDで煌びやかに着飾り、店舗のショーウィンドウの中では大小のツリーが競うように並んでいた。
二十二時近いが、まだまだ人通りは多い。仕事帰りらしいサラリーマン、手を繋いだカップル、クリスマスパーティの二次会に向かうグループなど、様々な人間が様々な足取りで行き交っている。
どことなく浮ついた、わざとらしいほどきらきらした通りを、ユーディットは楽しげに歩いた。
黒いワンピースの上にクラシカルなインバネスコートを羽織った装いは、意外と人波に紛れていた。
「これ気に入ったわ」
ぱくぱくと頬張っているのは、ラズベリーソースのかかったドーナツ。さっきのカフェを出る時に見かけて、食べたい食べたいとエリアスにねだり倒したものだ。
「三つも買ってやったのに、もう食ったのか。一つくらいよこせ」
「やだ」
ユーディットはドーナツの残りを口に押し込んで、至福の表情を浮かべた。
「ま、こんなに美味しいものがあるんなら、あなたが人間を獲らないのも納得ね」
暢気に指先を舐める彼女を尻目に、エリアスは『レガリア』の侍従たちの気配を気にしていた。距離を保ちながらこちらを見張る、二十余人の視線を。彼らが警戒しているのはユーディットではなく自分の方だと分かっていたから、なおさら不愉快だった。
当のユーディットは監視の目など気にも留めていないらしく、実にのびのびと振る舞った。
ビルの壁に投影されたプロジェクションマッピングに見入ったかと思えば、細い路地をしげしげと覗き込む。ビストロから漂ってくるローストチキンの匂いに鼻を鳴らしたり、角でギターを掻き鳴らす若者の前で足を止めたり――ユーディットにとっては街のすべてが珍しく、興味を引かれているようだった。
その無邪気さは残虐性と同義だと分かってはいても、子供っぽく目を輝かせる彼女を眺めていると、エリアスは気負いが抜けた。
人間の手で作られた光は冷たく平坦で、吸血鬼を傷つけない。闇の淵を住処とする女の目に、この明るい夜はどう映るのだろうか――。
ユーディットの腕がエリアスの腕に絡んだ。温め合うように身を寄せて歩くカップルを見て、真似をしたくなったらしい。
「歩きにくい」
彼はそっけなく言ったが、払いのけはしなかった。ユーディットはうふふと笑って、彼の肩口に頭をくっつけた。柔らかな体からは花と血の香りがした。
ご機嫌なのは結構だが、大人しく帰ってくれるだろうか――そう、エリアスが一抹の不安を覚えた時、
「あっ、あれは何?」
ユーディットがいきなり駆け出した。軽く突き飛ばされる形になって、エリアスがよろめく。
ショートブーツを履いた足は、人混みの中をすいすいと擦り抜けて行った。それどころか、歩道を飛び出して堂々と車道を渡り始めたので、エリアスは慌てて後を追った。
幸いにも自動車にぶつかったりクラクションを鳴らされることはなかった。彼らの動きは非常に速く、普通の人間にはその動きを認識することすらできなかったのだ。
向かいの歩道で、ユーディットは百貨店の入口のショーウィンドウを覗き込んでいた。閉店時刻を過ぎても、ディスプレイは遅くまで点灯しているらしい。
ガラスの向こうでは、アンティーク風の自動オルガンがクリスマスソングを奏で、サンタクロースを模したからくり人形がぴょこぴょこと踊っていた。赤と緑のリボンが賑やかに飾り付けられている。
「楽しいわね。生きているみたい!」
ユーディットはガラスに額を押しつけ、人形の動きを夢中で追っている。その様は獲物を狙う猫のようだ。吸血鬼の視覚は色彩に関する感度が鈍いのだが、動体視力は人間の比ではない。動くものに反応してしまうのは本能だろう。
彼女は軽やかな音楽に合わせて身を揺すっている。小さな鼻歌さえ聞こえてきて、エリアスは苦笑してしまった。
こうしてはしゃいでいると、人間の小娘に見えなくもない。雑然とした街の背景は彼女を違和感なく取り込み、気儘で無慈悲な暴君の面影は鳴りを潜めていた。
「ねえ、お腹空かない?」
ユーディットはエリアスに身を擦り寄せて、大きな瞳で彼を見上げた。
「さっき食ったばかりだろ」
「今度は違うのがいいわ。ほらあのお店、いい匂いがする」
白い指が指すのは、深夜営業のパティスリーだ。凝ったデコレーションのクリスマスケーキがショーケースに所狭しと並んでいる。
「駄目だ。もう金がない」
「あなたがそんな品行方正だとは思わなかったわ」
ユーディットは唇を尖らせた。彼女が一言命じれば店員は黙ってケーキを差し出すだろうし、そんな手間をかけずともケースをぶち壊して強奪すればよいだけなのだ。
ちょっぴり機嫌を損ねた彼女は、唇の形をへの字に変えて、それからすぐににんまりと笑った。
「じゃ、これにする?」
次の動きは、さしものエリアスも予想がつかなかった。
近くにいた人間の女の首を、いきなり引っ掴んだのである。踊るサンタ人形をスマホのカメラに収めていたその若い女は、うぐっと潰れた声を上げ、されるがままにユーディットに抱き寄せられた。
みるみる血が上ってゆく女の頬を撫でて、
「美味しそう。少しお酒が入ってるのかしら。きっと飲み頃よ」
うっとりと首筋の匂いを嗅ぐ。
女の連れの男が、何すんだこの野郎とユーディットに掴みかかったが――すぐに立ち竦んだ。怒りに歪んでいた表情が陶然と霞み、やがて怯えの影に覆われる。少女の人間離れした美貌に見惚れた後で、その奥にあるものに気づいたように。
こんなものがすぐ傍にいたのに何で俺は逃げなかったんだ――大きく見開かれた両眼はそう物語っていた。
「それともこっちの方が好み? 活きがいいわ」
ユーディットは片手を男の方に伸ばした。
その腕をエリアス払いのける。続けて反対の手を掴んで、今にも窒息しそうな女から引き離した。
「やめろ、ユーディット。ふざけるな――行け!」
最後の一言は日本語だった。男は我に返り、激しく咳き込む恋人に駆け寄った。
縺れる足取りでよろよろと立ち去る二人を、ユーディットは追おうとした。エリアスは素早く彼女の前に出て、その胸を付き飛ばす。腕や肩を掴んでも振り払われると知っているからだ。
「いったーい! 何でそんな意地悪するのよぅ」
「ここは狩り場じゃない。おまえ、ちょっとは弁えろ」
ぷうっと膨れたユーディットをさらに厳しく叱りつけようとして――エリアスはわずかに体軸をずらした。
その耳元数センチのところを、何かが物凄い勢いで掠めた。
彼の背後でショーウィンドウが派手に砕ける。通行人が悲鳴を上げた。
ガラスを粉々にした挙げ句に自動オルガンを貫いていたのは、漆黒の矢。長さが一メートル近くあるので、槍か杭と言った方が近いだろう。
ぎりぎりで串刺しを回避したエリアスは、ちっと舌打ちをした。ユーディットが、あら、と口に掌を当てた。
「おまえのファンクラブだな」
エリアスが無礼を働いたように見えたのだろう。『レガリア』の侍従たちが攻撃をしかけてきたと知り、彼は頭を抱えた。
破壊されたディスプレイを残して、黒い槍は塵のようになって消えた。彼らの操る『暗槍』は数十秒しか形を保てないが、その硬度は鋼鉄に勝る。
野次馬が集まってくる中、エリアスの視覚は二撃目の飛来を捕らえた。