一
都心の複合ビルの一階にあるカフェには、古いクリスマスソングがゆったりしたテンポで流れていた。
二十一時を過ぎても半分ほど席が埋まっている。コーヒーの香りが漂う店内には、会食帰りらしく陽気にお喋りを楽しむグループもいれば、スマホを眺めながらデニッシュを頬張る若い女も、コーヒーの傍らでパソコン作業に没頭する学生もいた。
ツリーが飾られたカウンターで、エリアスは、百年にも等しい時間を待っていた。
明るい緑色の目が追うのは、テキパキと動く店員の手元。淹れたてのエスプレッソに、泡立ったミルクがたっぷりと注がれていく。
「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」
獲物でも狙うような剣呑な眼差しが、ラージサイズのカップを前にようやく和らいだ。コーヒーをこんもりと覆うホイップクリーム、レースのようなキャラメルソース、そして香ばしく焼かれたナッツの匂いは、否応なしに彼の空腹を刺激する。
ホワイトチョコでデコレーションされた季節限定のコーヒーにも心惹かれたが、それよりも今夜はコクのある甘さを楽しみたい気分だった。
一緒に注文したローストビーフサンドをトレイに乗せて、エリアスは客席の方へ身を翻した。
昼の間糖分が摂取できない彼にとって、欲望を満たせる貴重な時間である。
支払いの方はICカードを使った。思い遣りというよりも、腹を空かせた彼の反社会的行動を危惧した雇用主によって、そこにはいつも小腹を満たせる程度の金額がチャージされている。そのことについて屈辱や負い目を感じる繊細さなど、彼は持ち合わせていなかった。
トレイを手に、エリアスは滑るように座席の間を擦り抜けた。
何人かの客がちらりと視線を上げる。彼の突出した容貌に気づかないはずはないのに、すぐに興味もなさげに目を逸らした。都会のコーヒーショップにはそんな奴もやってくるさ、とでも納得したように。
エリアスの足は、真っ直ぐに奥のソファ席へと向かった。
そいつがそこにいるのは、入店してすぐに把握していた。と言うより、そいつに会うためにここにやって来たのだ。
「久しぶりだな、エリアス」
この国のものとは異なる言語で再会の挨拶をしたのは、彼とおそろいのような男だった。
黒ずくめの痩躯が長い脚を組んでソファに腰掛けている、青白く整った面貌に嵌め込まれた両眼は翡翠の色。見事な銀髪は長く、首の後ろで束ねられていた。
容姿は確かに異なっているのに、全体として同じに見える――そんな印象だった。エリアスと同じ、番人の称号を持つ吸血鬼だ。
そして、男の傍らにもう一人いた。栗色の髪をした、若い女だ。顔立ちは十分に美しいが、この二人に挟まれるとひどく凡庸に見えた。遠慮がちに、身を縮こまらせるようにして座っている。
エリアスは一瞬だけ女を見て、すぐに男に向き直った。
「アーウィン、あんたがお出ましになるとは珍しい。待たせたか?」
「いや、退屈しなかったよ」
男はテーブルのカップを手に取った。中身のブレンドに口はつけず、その温度だけを楽しんでいるようだった。
数ヶ月前の事件をきっかけに、エリアスは晴れて追放処分を解かれた。
にも拘らず自由意志で人間社会に残留している彼を、向こう側はさすがに野放しにはしておけなかったらしい。本来の職務を免除する条件として、定期的な面会を義務づけた。情報交換という建前の生存確認である。
以来、一ヶ月に一度ほどの頻度で、エリアスはクラウストルムたちと会うようになった。この面倒な条件を飲んだのは、エリアスの方にとってもメリットがあったからだ。
アーウィンと呼ばれた吸血鬼は、穏やかにエリアスを眺めた。外見上は同年代に見えるが、エリアスの三倍以上の歳月を生きている。クラウストルムの中では最年長の個体であった。
「仕事以外で来るこちら側は楽しい。君が帰りたがらないのも分かるよ」
「今日だって仕事だろ」
エリアスは向かいの席にどっかりと腰を下ろして、自分のカフェラテを啜った。高い鼻の下にクリームの泡がつく。アーウィンが苦笑すると、その口元からわずかに牙が覗いた。
「ずいぶん馴染んだものだなあ、ここの社会にも生活にも。そうやっていると人間にしか見えない」
もちろんこの言葉は冗談だ。ほとんど無意識に発動している強烈な暗示がなければ、彼らの異質さはたちまち衆目を集めるだろう。この芸当ができない個体は、本来こちら側には渡ってこられない。
ちょっとした揶揄の響きを聞き取って、エリアスは顔を顰めた。
「無駄口叩いてないでさっさと情報交換だ。今日は何が聞きたいんだ?」
「別に、何も――あの一件以来、越境者の数も落ち着いている。今回は本当に仕事ではなく、観光のようなものさ。こちら側に渡るのもこれが最後になるだろうから」
アーウィンは店内をぐるりと見渡し、それからガラス越しに外の風景に目をやった。年齢も性別も様々な人間たちが、乾いた冬のビル風に身を竦めながら夜の街を行き交っている。
同僚の感慨になど無関心な様子で、エリアスはサンドイッチにかぶりついた。
「長老に出世か」
「ああ、一人欠員が出た」
「おめでとう――気をつけろよ。あそこは伏魔殿だ」
「他人事じゃないよ。君だっていずれは……」
「俺はごめんだね。あんなワガママ変態女に顎で使われるくらいなら、陽光に焼き殺された方がマシだ」
サンドイッチを平らげ、カフェラテを飲み干した彼は、小さくゲップをした。
とりあえず食欲は満たされたが、まだ足りなかった。
「……今日は一人だけか」
エリアスは、アーウィンの隣に座る女を初めて正面から見据えた。この場に彼の相棒――『厄災の声』の持ち主がいたら、確実に眉を潜めるような眼差しで。
「足りなかったら、私からどうぞ」
「あんたのは強すぎて口に合わない」
素っ気ないその言葉が合図だったように、黙りこくったままの女が立ち上がった。テーブルの脇を通ってエリアスに近寄り、すっと膝を折る。
二杯目のコーヒーを注ぐように自然な手つきで、エリアスは女を引き寄せた。
顎を掴まれて上向かされても、女は抗わなかった。正絹みたいに白くきめ細かな首筋が、無防備に晒される。
吸血鬼の冷たい体からは、同じく冷たい血の匂いがした。熱く沸騰するような人間のそれとは別物であったが、エリアスの本能を刺激するには十分だった。
定期面会に応じるエリアス側のメリットとはこれである。
慢性的な飢餓状態の彼に対し、クラウストルムたちはこうして同胞の血液を供給している。面会の度に彼の好みそうな下位個体を連れてきて、その血を与えているのだった。
「君は人気者だね。毎回志願者が多くて、選定に苦労するほどだ」
ソファに身を沈めて軽口を叩くアーウィンに、エリアスはフンと鼻を鳴らした。
「面倒見のいいことだな。俺を餌付けするのは楽しいか」
「我々の取りこぼしを始末してくれている君への謝礼だよ。万が一にも人間に手を出して、堕ちないように」
「よく言う」
自分にあちら側への帰属を断ち切らせないための策略だとは知りつつ、エリアスは目の前の誘惑を拒絶できなかった。女の皮膚の下に静脈が浮いている。
面白いものを見物するようなアーウィンの視線は不愉快だったが、周囲の客は相変わらず彼らの存在を意識の埒外に追いやっている。エリアスは女の頭を仰け反らせるように抱えて、その首筋に口を近づけた。鋭く尖った犬歯は、牙というより針のようだった。
その時、強い力がエリアスの肩を掴んだ。
人間であったなら骨が砕けているほどの強さだ。彼に小さな呻き声を上げさせたのは、血を吸われかけていた女の腕だった。
エリアスは反射的に女を払いのけようとした。しかし細い腕はびくともしない。彼の背中に手を回し、強固に拘束している。
「おまえ……」
「騙されるの、これで何度目?」
至近距離でクスクスと笑うのは、従順な下位個体の顔ではなかった。
世にも愛くるしい、人形のような美貌。大きな二つの瞳は薄い水色で、白い頬と唇にはほんのりと薔薇の色が差している。ふわふわとカールした白い髪がエリアスの腕に降りかかっていた。
その女はひらりと身を躍らせ、一瞬でエリアスの膝の上に跨がった。椅子が軋まないのは、彼女が羽のように軽いからかもしれない。
「ユーディット……!」
怨嗟混じりの呼び声を心地よさげに聞いて、思わず抱き締めたくなるような美少女は、その牙でエリアスの喉元に食らいついた。