エリアスの場合
「わ、可愛い!」
環希さんは私のささやかなプレゼントに顔を輝かせた。
厚めにスライスしたチョコレートブラウニーを三切れ、透明なセロファンで包んで緑色のリボンを掛けてみた。百円ショップで揃えたラッピング用品だが、まずまずの見栄え。
「美味しそうね。絹ちゃんの手作り?」
「はい。お口に合うかどうか……」
「チョコレートブラウニー大好きよ。ありがとう」
環希さんはピンクの口紅を乗せた唇でにっこりした。朝の役員室がさらにパッと明るくなるような笑顔だ。仕事上では営業スマイルを出し惜しみしないが、身内に対するリアクションは率直な人だから、きっと本当に喜んでくれているのだろう。私はホッとした。
今日は二月十四日、バレンタインデー。
お世話になっている職場の皆さんにお礼チョコをと思い、頑張って手作りに挑戦した。シンプルなブラウニーなのに、いざ作ってみるとこれが結構大変だった。お菓子はどれでもそうなのだろうが、正確に計量し、確実に手順をこなさないと味も形も整わない。大雑把な味付けでも何とかなっちゃう家庭料理とは訳が違った。
私、お菓子を作るには繊細さに欠けるんだわ――昨日の夜十時、焼き過ぎてぼそぼそになった可哀想なブラウニーを前に、私は思い知った。
リトライした二つ目はまあまあの出来。舌の肥えた環希さんに食べてもらうのは気が引けるけど……。
「今日のおやつにするわね」
そう言って環希さんがお菓子をデスクの抽斗にしまおうとした時、彼女の肩に黒い塊が舞い降りた。バサーッと翼を広げてバランスを取っているのは、黒ミミズクのエリーである。
「エリー、こら! ニットに爪が引っ掛かる」
鋭い鉤爪は素敵なカシミヤカーディガンの大敵だ。環希さんに払いのけられ、デスクに飛び乗ったエリーは、私に向かってホウホウホウと鳴いた。
何を言いたいかは分かる。こいつ止まり木で眠ってたはずなのに、匂いを嗅ぎつけて目を覚ましたか。
「はい、あんたはこっち。チョコレート苦手なんでしょ」
私はコンビニの袋をエリーの目の前に置いた。中身は季節限定の苺大福である。コンビニスイーツとはいえ、なかなかどうして味は侮れない。
エリーは袋に首を突っ込んで、大福の丸いパックをつついている。焦っても、ミミズクの胃袋では消化できない代物だろう。
「夜になったら食べなさいね――あの、環希さん」
私はデスク越しの環希さんに向き直った。
「同じものを九十九里さんにもお渡ししてもいいですか?」
「ええ、きっと喜ぶわ。ていうか、そんなこと私に訊かなくてもいいわよ」
笑われてしまった。そう言われるだろうとは思っていたけれど、やっぱり一応、ねえ。
頭を下げて役員室を出ようとすると、呼び止められた。
「お礼に今度、デザートビュッフェに連れてってあげる。お勧めのホテルがあるの。男どもには内緒よ」
やったー! こんなしょぼいお菓子に不相応な……という気後れよりも、嬉しさが先に立った。それに、環希さんが美味しいと勧めてくれるものは絶対に当たりなのだ。
何を勘違いしたのか、エリーが環希さんの手に体を擦り寄せている。環希さんは鬱陶しそうに黒い毛玉を押しやった。
役員室を出ると、私はさっそく残りのお菓子を配った。
「つまらないものですが、これどうぞ」
「ありがとうございます。手作りですか? 凄いですね」
九十九里さんは快く受け取ってくれて、ブラウニーの包みをしげしげと眺めた。社交辞令ではない、感心したような表情である。嬉しくなっちゃうじゃないか。
「日頃の感謝の印です。よかったら食べて下さい……って、チョコレートなんて買った方が美味しいに決まってるんですけどね」
「そんなことないですよ。蓮村さんが時間と手間をかけて作ってくれたんだから、もうそれだけで価値があります」
そう言う九十九里さんの笑みは少し照れを含んでいて、私は十代の女の子みたいに胸がときめいてしまった。
ああ、やっぱり素敵だ。容姿も身だしなみも整っているうえに、冷静で温和な物腰は理想的な大人の男性そのもの。そんな人が気を緩めるところを見てしまったら、女性なら誰でも心を掴まれるだろう。既婚者でも、いや既婚者だからこそ、安心してファンでいられるってものだ。
思わず緩んだ頬に、横からの視線が突き刺さった。パソコンの画面の向こうから、癖のある両眼がこちらを見ている。私が見返すと、日下くんはそそくさと手元に目を落とした。
私は自分の席に戻り、隣の日下くんにブラウニーを差し出した。
「お待たせ。これは日下くんのね」
「お、おう……」
日下くんは素っ気なく受け取って、ありがとな、と小さい声でお礼を言う。彼のだけ少し厚めにスライスしておいたの、気づいてくれただろうか。
でも彼は早々に抽斗の中にしまってしまって、それ以上何も言及しなかった。
私は何だか落胆して、自分のパソコンを立ち上げる。口下手な奴だとは知ってたけど、もうちょっとさあ――そんなことを胸の内で呟いていたのだが、私たちを眺めていた九十九里さんが残念そうな表情をしているのに気づき、もしかして、と思い至る。
他の皆に配ったのと同じものだったから、日下くん、がっかりしたのだろうか。義理チョコの範疇だと思って。
違う違う、君には後でちゃんと……なんてフォローを今この場でできるはずもなく、私は自分の段取りの悪さを呪ったのだった。
立春を過ぎたとはいえ、二月の日の入りはまだまだ早い。
終業時刻の六時にはとっぷりと暮れて、役員室ではエリアスが人型に戻っていた。外出した環希さんが戻ってこないのを知っているから、図々しく彼女の椅子に座っている。デスクの上には、すでに空になった苺大福のパックが。
「美味かった」
美貌の吸血鬼は、満足げに指を舐める。薄い唇の端から尖った犬歯が覗いた。こいつ、虫歯とか大丈夫なんだろうか。
コートを羽織った私は、マフラーとバッグを手に持って帰宅の準備は万端だったのだけど、退社前に彼に要請しておきたいことがあった。まだ仕事をしている九十九里さんと日下くんを気にして、そっとドアを閉める。
「あのさ、お願いがあるんだけど」
「お願い? 命令すればいいだろ」
「うん、拒んだら命令させてもらう」
エリアスは眉を寄せて、デスクに長い両脚を乗せた。環希さんがいたらスリッパではたき回されるに違いない。
私は歩み寄って、彼を見下ろした。
「今夜、絶対に私の家には近づかないでね。あと感情を読むのもなし」
「ああ……冬馬が来るのか」
ずばり言い当てられるのが、私とエリアスが繋がっている証拠だ。伝わってしまうのは感情であって意識そのものではないはずなんだけど、人間の思考パターンに慣れてきた彼は無遠慮に考えを推察してくる。
エリアスの指摘通り、今日は日下くんを家に招いている。
うちで鍋でもしない? と誘ったら、彼はいつもの調子でおうと答えたが、明らかに喜んでいた。チョコレートを渡す前に言っておけばよかった。
「チョコよりも栄養のあるものを食べさせてあげたくて、夕食をね」
「なるほど、栄養を摂取したあとで繁殖行動を……」
「な、何てこと言うのよ、この下等動物!」
私は思わず拳を振り上げた。頭はいいくせにこいつ、語彙力に問題がありすぎだ。
エリアスは、ミミズクと同じ動きでびくっと身を竦ませる。その後すぐにそっぽを向いた。自分の反応が悔しかったみたいだ。
「下等はどっちだ。年中のべつ幕なしに発情してる動物に言われたくない」
吸血鬼って生き物は、数十年に一度の繁殖期以外にはそういう行為はしないんだそうだ。特定のパートナーも持たないとか。だから平和なんだとエリアスは嘯いていたが、私に言わせれば実につまんない人生である。
エリアスは白い髪に指を入れて頭を掻いた。
「そんなもん覗かないから安心しろ。でも絹、今さらだぞ。去年……一昨年か? あの何とかって男と、おまえしょっちゅう……」
「うわあ、言うな!」
私は耳を押さえた。
今まで考えないようにしてきたが、学生時代に岳大と付き合っていた頃の気持ちの動きを、彼には全部知られているのだ。部屋に盗聴器を見つけた気分。恥ずかしくていたたまれなくて、私はきっと真っ赤になっていたはずだ。
ライトグリーンの瞳を嵌め込んだ両眼が、呆れたように細まった。
「まあとにかく、行かないし、読まない。約束する。そのかわり、それ寄越せ」
手を出されて、私は困惑する。
「ブラウニー、一つ余ってるだろ?」
よく知ってるな――私はバッグの中を覗き込んだ。
実は今日、ヤマムロ・テクノロジーの守さんが商談にやって来る予定だったので、あの小父様のぶんも用意していたのだ。でも都合で来週に延期になってしまい、仕方なく持ち帰るつもりだったのだけど。
「あんたチョコ苦手だって言ってたじゃない」
「俺もそれが食いたいんだ。置いて行け」
ラッピングされた最後の手作り菓子を差し出すと、彼はひょいと摘んで鼻に近づけた。何だか嬉しそう……くんくんと匂いを嗅ぐ姿がおやつを貰った大型犬に見えてきて、私は笑いを噛み殺した。
みんなと同じものが食べたかったのかな。意外とデリケートな吸血鬼だ。
とりあえず、面倒な男の動きは封じた。日下くんとは駅で待ち合わせている。一緒に鍋の材料を買って帰ろう。