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美しいベージュの石質。その滑らかな質感のまま組み上げられた、見上げるほどに巨大な屋敷がそこにはあった。白色の窓枠に囲まれた無数の硝子窓一つ一つに、石壁と同じ材質で精密に組み上げられた雨よけが覆い被さり、そこにも多彩な装飾が備えられている。カミソリの刃一枚も通らないほどに精緻に組み上げられた石材は、果てしなく広がる青天井と相成って一つの芸術作品とも言える景観を作り出していた。
その麓に目を向けてみれば、一目では見渡すことのできないほどに広がる庭園。寸分も違いの無い生け垣から、抜け目の一切無い手入れが頻繁に成されていることが見て取れる。その深緑の壁はくねるように庭中に張り巡らされ、息をも呑むような幾何学的な紋様を作り出していた。
そんな広々とした敷地を持つ屋敷をどしどしと闊歩するのは、これまた豪奢な貴金属の糸の刺繍が編み込まれた衣服を全身に纏う恰幅の良い男性。彼こそがこの邸宅の主人である。
彼の側には二人のメイドが侍っていた。どちらも穏やかに、そして和やかに微笑み、彼の後ろに付きそっている。
そんな絢爛華麗たる邸宅で、一人だけ浮いているようにも思える人物がいた。
それは燃えるような赤髪を持つ、鋭い目つきの少女だった。骨張った痩せぎすな肢体と身体は、垢と埃にまみれている。一枚の布きれに穴を開けただけにも見える簡素な服も、元の色が想像できないほどに変色し、先々がほつれていた。そして、透明感のある大理石で造られた長い廊下の床を、這いつくばるように屈んで一心不乱に布きれでこすっている。
この煌びやかな屋敷の雰囲気にそぐわない彼女は、この邸宅の主人が所有する「奴隷」であった。
吸い込まれるようなワインレッドの虚ろな瞳を薄く開ける彼女は、物心つく前に競売に掛けられ、今の主人に買い取られた。その時点で、彼女に選択肢など与えられていない。彼女にとって、身分も人権も手に入れること無く一生を終えるのは決定事項だったのだ。
この屋敷の主人は、自分の財力と資産の象徴であるこの屋敷を徘徊して自尊心を満たすことが趣味であった。そして、彼にとってその趣味にはもう一つの楽しみを含んでいるのだった。
彼は、みすぼらしい衣服の彼女がいる廊下にさしかかると、今まで存在を主張するように歩いていたのをやめ、急に忍び足になる。そして、廊下の中央で床を磨く彼女に向かって歩いていった。
「おい、赤髪。この地の領主たる私に立ち塞がるとはずいぶんな身分になったものだなぁ」
彼は片頬を上げ、嗜虐的に嗤いながら言葉に皮肉を込める。
その声で初めて彼の存在に気づいた彼女は、びくりと肩を震わせた。
「も、申し訳ありません――」
そう言い終わるより先に、彼は彼女の顔を思い切り蹴り上げた。ざらざらとした固い革靴が顔面の皮膚を擦り、頬骨を深く抉る。そして声を発そうと動かされた彼女の舌に自身の歯が突き刺さり、グチャリ、と不快な音と共に赤黒い液体が滲み出した。
「ああ汚らわしい汚らわしい! 何度も言っているだろう! お前の声など万が一にも聞いてしまったら、私の大事な耳が腐り落ちてしまではないか!」
彼はパンパンと革靴を叩いて埃と薄く付いた血液を落としながらわざとらしく声を荒らげる。
その間も俯いたまま何も話さなくなった彼女を見やり、彼は一瞬不機嫌な顔になるが、すぐはたと何かを思いついたようにニヒルな冷笑を浮かべた。
「おやおや、どこか怪我をしてしまっているのかな?」
あまりにも白々しいその声音。
「うんうん、そうか、それならばしょうがない。誠に不本意だが、怪我をするような役に立たない物を私の屋敷に置いておくわけにもいかないなぁ。メイドよ、これの手足を縛り付けて庭にでも投げ捨てておけ」
彼は彼女を足で示して傲慢に言い放つ。
「し、しかし……」
彼の右斜め後ろに付いていたメイドが俯きがちにか細い声で呟くように言った。
「――お前もこうなりたいのか?」
ニヤリと気味の悪い笑みを浮かべる、主人。
「しょ、承知いたしました!」
そのメイドは彼の一言ですぐさま背筋を伸ばすと、命令に従う。一切抵抗しない彼女を二人のメイドは慣れた手つきで縛り上げ、長い廊下を歩かせて素早く連れていってしまった。
「よしよし、従順ないい子たちだ。……さて、そろそろ仕事に戻るかな」
彼は満足げに頷くと、鼻歌交じりに自分の仕事部屋へと歩みを進めていった。
*****
冬冷えのする冷たい雨が玄関前の石畳に当たって跳ね返り、薄い水たまりを作り出す。いつもならば辺りを照らす月明かりも、今は分厚い雲によって隠されて、この中で周りが見えるのは夜目が利く猫くらいのものだろう。
そんな屋敷の玄関前に、暗闇に溶け込むように倒れ込む小さな影があった。
仰向けになっている彼女は、全身に冷え切った雨粒を浴びて、身体の汚れが流れていく心地よい感覚に身を委ねている。
手足を縛られて投げ捨てられた彼女は、結局あの後夜になっても家に入れてはもらえていなかったのだ。それでも、前回は朝までこのままだったから、今回もそのくらいには入れてもらえたらいいな、と彼女は淡い期待を持っていた。
慣れているとはいえ、彼女の身体は十代中盤の少女である。冷たい雨に打たれ続けるのは、碌な食べ物を与えられていない彼女にとって想像を絶するほどの苦痛。しかも長い間同じ箇所を縛られているせいで、彼女の手と足は生きた人間の身体とは思えない色に変化している。それでも、彼女にとってこの程度は日常茶飯事。母や父のように指を切り落とされたり皮膚を削がれたりされていないだけ自分は幸運だと、そんな風に本気で思ってさえいるのだった。
……ひどい凍瘡と栄養失調で意識を失いそうなのか、はたまた体力の限界に達したのか、彼女の意識が混濁し始めたとき、ふと、彼女は屋敷が騒がしくなっていることに気がついた。すっと耳を澄ませてみれば、寒々とした雨音の中に、乱雑に駆ける足音と、折り重なった甲高い女性の悲鳴。
しかし、彼女は動揺も、興味も、何も感じることは無かった。無関心とも言えるほどに、全く。
しかし、こんな異常な喧噪の中では彼女も熟睡できないと思ったのか、身体をくねらせ、仰向きから横を向いたその瞬間――
バタン、と耳を突かれたような大きな音と共に、木製で両開きの玄関扉が開け放たれた。
そこに現れたのは、闇夜に負けないほどに鮮やかな朱に染まった主人だった。地面に這いつくばり、匍匐をしながらカタツムリのように血の跡を残して開け放たれた扉からぬらぬらと這い出てくる。
いつもの横柄と傲慢ではなく、恐怖と畏怖が張り付いたその顔面は涎にまみれ、滑稽ですらあった。
そんな主人を、彼女は無表情で見つめていた。虚ろで、空虚で、虚しい瞳で。哀れみも、同情も、蔑みも、全ての感情を排除した、そんな瞳で。
一生懸命に腕を動かして這う彼は、顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。
「たっ、助けてくれ! お前に命令だ! い、今すぐ私を助けるんだ!」
しかし彼女は、両手両足を縛られており、身動きがとれない。皮肉にも、自身の行動のせいで唯一の救いが無に帰したのである。
「――そんなに喚かないでくださいよ。耳障りです、貴方の声は。貴方が虐げているそこの『彼女』よりも、ずっと」
そのとき、喚く彼の後ろから大きな影が沸くように現れた。
ひょろりとした高身長の青年は、整った顔に薄く微笑みを貼り付けている。全身が朱殷に染まり、右手には血にまみれた分厚い肉切り包丁。そして、左手にはふくらはぎから見事に切り取られた生々しい右足。白い骨が覗く弛緩した筋肉の断面からは、赤々とした液体がぽたり、またぽたりと滴り落ちている。
「――――ッッ!」
主人はその姿を認めると、恐怖と絶望で全身を打ち上げられた海鼠のようにこわばらせて、動かなくなってしまう。その彼の右足を見れば、あるはずの部分が綺麗に切り取られ、そこからはドクドクと脈動する血液が湧くように溢れ出ていた。
そしてその青年は動きを止めた主人の元に悠々と歩み寄り馬乗りになると、顎に手を掛けてその口に無理矢理猿轡をかませ始める。
「貴方はこれからやらなければいけないことがあるんですよ。だから、殺さずに拘束させていただきます。ちょうど、貴方が彼女にしたように」
彼の目顔は相変わらずに気味の悪い笑みを浮かべていた。
主人はみるみるうちに縄とベルトで雁字搦めにされていった。足の断面を縄で縛り付け、失血で死なないようにする。その間も彼はただ目を見開くだけで抵抗しようとはしなかった。完全に精神が恐怖と絶望に呑まれ、抵抗するほどの気力など彼には残っていなかったからである。
縛られたまま倒れ込む彼女はその間も、ただその様子を傍観していた。主人が拘束されてゆく様子に憤るわけでも、今まで自身を虐げてきた張本人が報いを受ける様子に愉悦に浸るわけでもなく、ただただ拘束されていくのを眺めていたのだ。
拘束する作業を終えて息をついた青年は、無表情で彼を見つめる彼女に気づいて興味深そうに目を細めると、ニヤリと口角を上げた。
「おや、貴女は他の有象無象のメイドとは違って喚いたり叫んだりはしないのですね」
青年は徐に立ち上がると黙りこくる彼女に歩み寄り、自分の顎に手を当てて呟くように言った。
「実に良い目をしていますね、貴女。世界を俯瞰して感情を殺した、美しく透き通った瞳」
瞳孔をのぞき込まれた彼女は、無表情のまますぐに答える。
「……この目の、何処が透き通っているというのですか? 世界を軽蔑して感情を押し込めた、汚れて濁った瞳」
そんな彼女の返答に、青年は一瞬面食らった表情を浮かべて、すぐに笑い出した。
「はははっ、面白いですね。こんな状況で皮肉を返せるなんて、僕は貴女の事が気に入りましたよ」
そしてそのまま彼女を縛る縄をするすると解き始めた。
「基本的に僕は対象以外には一切干渉しない事にしているのですが、特別に貴女だけは助けてあげましょうか。こんなところで貴女を燻らせておくのは実にもったいない」
そして縄が外された彼女は、せき止められていた血液が手足の末端に浸透していくのを感じてからゆっくりと立ち上がった。
「貴女には『自由』を与えましょう。誰の命令も受けず、誰の指図も決して受けることなく、誰の下にもつかない、人間なら誰しもが持つべき権利を。さあ、貴女の望みを言ってください。僕にできることならば、何でもしましょう」
大仰に手を広げ、気取った様子で言う。それを聞いた彼女は、返り血を浴びた彼の顔を見つめて言った。
「じゃあ、私を貴方の僕にしてください。貴方が何者なのか、何故主人を拘束したのか私には分かりません。しかし、今の私は主人の他には貴方しか知りません。だから、私は貴方の僕になりたいと、そう望みます」
それを聞いた青年は、常に貼り付けていた微笑みの仮面を取り払って凄みのある声音で言う。
「先ほど僕は言いましたよね? 貴女には誰の下にもつかずに命令されない自由を与えると」
彼女は怖じる事無く彼を見上げて話し始めた。
「誰にも指図されないことが自由なのだとしたら、貴方の与える自由は本当の自由ではないでしょう?」
彼女は不敵な笑みを浮かべる。彼女が生まれて初めて浮かべたその表情は、凄惨で、猟奇的で、狂気に満ちあふれていた。
「だって、貴方の与える自由は、『誰の下にもつくな』と貴方自身が命令しているではないですか。それは、貴方が言う自由の定義から外れているでしょう? もし本当の自由を私に与えてくださるのであれば、私自身が望む事を認めていただけませんか?」
彼はそれを神妙な面持ちで聞いていた。そして、暫く黙った後、急に声を上げて笑い出した。
「ハハハッハハッ、何を言うかと思えば、僕にダメ出しとは。僕は貴女を見くびっていたようだね。貴女は実に傲慢だ。普通、そこは僕に感謝感激する場面だろう?」
「残念ながら、私はそこの領主様の背中を見て育ちましたから」
彼女も青年に負けないほどの憑いたような笑みを浮かべる。
「あははははっ、ますます貴女のことが気に入りました。……そうですね、分かりました。貴女を私の『弟子』として認めましょう。しかし、僕の仕事はちょっと普通じゃなくてね。貴女には一つ試験でもしてもらいましょうか。なに、簡単なことですよ――」
彼は口角が裂けるほどにんまりと笑って後を続けた。
「――人を、殺してみましょうか」
彼女は嗤った。
「臨む、ところです」
彼はうんうんと満足げに頷く。
「ちょうど良いことに、そこに生きている人間もいますし。もっとも、両手を縛られ、片足が切り落とされてしまっていますが」
青年は血だまりに倒れる人物に目を向ける。
「……初仕事は拘束された私の主人を殺すことですか」
「不都合かな?」
わざとらしく首を傾げて彼女に尋ねる。
「いえ、逆に好都合です。抵抗されることがありませんから」
彼女は青年から、乾き始めてどろりとした血痕が付いた包丁を受け取った。
そして自身の元主人の元に歩いていった。顔に浮かべるのは、先ほどまでの凄惨な笑みではなく、奴隷だった頃と同じ虚ろな瞳の無表情。
「――――!」
その間彼女の元主人は、声にならない叫び声を懸命に上げていた。そして、
――さくり。
歩みを止めないまま、彼女は彼の胸元に自身が握る包丁を突き刺した。皮膚を貫いた刃先は、心臓を突き破り、内臓を切り裂いて彼の肉体に差し込まれていく。そして彼の気管と食道を切り口から溢れた血液が口に向かって逆流し、口を猿轡で塞がれて行き場を失ったその液体が鼻や耳や目から吹き出して、彼女の目の前に紅い華が咲いた。
彼女はその間一切主人へ視線を向けることはなかった。彼女は彼のことを自由を手にするためだけの糧としか思っていないのだから。
むせ返るような鉄の香りを身に纏って、彼女は青年の元へ歩みを進めてゆく。
「……おめでとう、合格だよ」
彼はパチパチと乾いた拍手をしながら言った。
「お見事だったね。……実を言うと、この試験をしたのは初めてではないんだよ」
「と、いうと?」
彼は一息をついてから話し始めた。
「今までも『弟子にしてくれ』とかそんなことを君みたいに言ってきた人がいるって事だよ。まあ、合格したのは君が初めてだけれどね」
「どうしてその人たちは不合格になったのですか?」
青年の弟子になった彼女は初めて師匠に質問をする。
「それは、彼らの主人を殺すときに恨みごとを言ったり、いたぶって残忍な殺し方をしたりしたからだよ。僕の仕事は感情で人を殺すわけではないからね。恨み辛みで人を殺すような人は弟子にするわけにはいかないんだ。その分君は素晴らしかったよ。きっと主人に思うところはあるだろうに、感情を一切表に出さずに命を刈り取って見せた」
「ただ感情が無いだけですよ、私は」
彼女は無表情のまま吐き捨てた。
「無感情の奴はそんな目をしないさ」
彼は空を見上げて呟いた。
「私、いまどんな目をしているのですか」
「そうだね、すごく綺麗な目をしているよ」
それを聞いて、彼女は少し考えてから言った。
「……私には、分かりません。綺麗とは何なのか。美しいとは何なのか」
「はは、今はそれでいいさ、これから学んでいけば。……さて、そろそろ行こうか。このべたつく血糊を早く落としたいしね」
「行くって、どこへですか?」
彼女は首を傾げる。
「そりゃあ、僕の『家』さ。よし、歩きながら、僕の仕事の話をしようか。まだ話していなかったね」
そう言って、彼は足早に歩き出した。
それを追うようにして、血にまみれた華奢な少女も歩き出した。そして雨水と混ざった血だまりを残して、二つの影は街の闇夜に消えていく。
彼女の選択がこの世にどんな影響を与えるのかはまだ誰も知らない。しかしとある青年ととある少女、この邂逅が世界のターニングポイントであることは言うまでも無い――