運命の逆召喚 1話
『きっと、後悔しない未来が貴方を待っていますよ?』
厳しく照りつける太陽が街を行く人を容赦無く照らす、蝉の鳴き声が響く夏の月。
梅雨を過ぎた時期ではあるが、関東の夏はジメジメと纏わり付くような、嫌らしい苦しい暑さだ。
それは一介の高校生である天境 有斗にとって、活力を削ぐ大きな要因となりつつあった。
「ああ暑い暑い! こんな日は部屋の掃除でもしようかな!」
と言って、有斗がヤケクソに、自分の部屋の掃除を始めてから早くも3時間。
幾つか並んだ小型マンションのワンルームはお世辞にも風通しがいいとは言えず、窓を全開にしていても熱気が篭る。内側なら尚更だ。
少しでも涼しくしようとして無心で掃除を始めた有斗だったが、いつの間にか完全にのめり込む事態となっていた。
元々そんなに物がない部屋ではあったが、フローリングの床はピカピカ。台所もトイレも天井もベランダも、高級ホテルと見間違う位に綺麗になっていた。うっすら光沢が見えてくる位だ。
元々綺麗好きな有斗だったが、ここまでするのは年末の大掃除くらいだろう。窓枠を触って、ホコリ一つ付いていない事に優越感が芽生える。
「さーて。こんなにいい気分なんだ。少しは奮発してごちそうでも食べに行くかー!」
部屋が綺麗になった事ですっかり浮かれ気味の有斗だったが、学生服のポケットから取り出した財布の中身を見て、一気に現実に引き戻される。
チャリンチャリンと手のひらに落ちて来た硬貨は53円。現代じゃパン1つ買えないような小銭しか財布には残っていなかった。
「待て待て! このポイントカードの中にも何か使えるようなものは無いか!?」
有斗は必死に財布の中を探し回る。
一人暮らしの貧乏生活が始まってから節約術を身につけた結果、有斗は1つの教訓を得た。
すなわち、【貰えるものは有難く貰っておけ】。
それは微量なポイントと言えども、決して無駄にしていいものではない。塵も積もれば山となるのだ。
「あ……あった! ラーメン屋の一杯無料券!」
何度も行ったことのある有り触れたラーメン屋の券だったが、有斗には希望の一枚に見えた。この際、飯が食えれば何だっていい。気分のいい時に食べるラーメンは格別だ。
しかし、一瞬にしてその希望は打ち砕かれる。有斗は重大な事実に気づいてしまったのだ。それは無料券の裏に記載された時期指定の一言。
【本券は、夏の月60日までご使用可能です】
「……これ、昨日までじゃねえか!」
本日は夏の月61日。春夏秋冬を90日ずつ分けた、その夏のうちの61日目。
いよいよ暑さも本番の今日この頃、朝からずっと掃除をしていた有斗のエネルギーも限界に達していた。
食べ盛り、かつ必要エネルギーが最も多い男子高校生が朝飯を抜き、昼飯まで食えないとなれば、それはもう一種の拷問である。
最後の希望として冷蔵庫の中を確認するが、入っているのは調味料や単体では食べられないおかずの類のみ。
一縷の希望さえ潰えた有斗は、フラフラとベッドに横たわった。
今はシーツさえもひんやり感じる。有斗の思考を。すっと妄想の世界に飛んでいく感覚が襲った。
「こんな時に尋ねてくれる可愛い女の子でもいればな……」
と、その時だった。
ピンポーンとインターホンを押す音が聞こえてきたのだ。
まさか本当に? と勢いよくベッドから跳ね上がって、廊下を小走りして有斗はドアを開ける。
「よう有斗。差し入れに来てやったぜ」
ドアの前にいたのは可愛い女の子でも無ければ、憎たらしい幼馴染でも無く。
有斗の悪友。最上 孝俊が、コンビニの袋を提げて立っていた。
「美味い! 冷えた飯でも腹が減ればご馳走になるんだな」
テーブルの上に広げた出来合いの食品を片っ端から手に取り、腹の中にねじ込む有斗。
「コンビニ飯でご馳走、なんて言ってるのはこの街じゃお前くらいのもんだ。どーせ食う飯がなくて困ってるんだと思ってたら案の定だな」
孝俊は、男にしては少し長めの茶髪をヘアピンで留めてセットしている。実際かなりの美形なので、そんな格好も全然痛くない。着崩した制服ですらお洒落に見えるのだ。むしろどこかでファッションモデルでもしていそうな容姿だった。
そんな孝俊はベッドに座って、手のひらで何か四角い物体を転がしている。ルービックキューブのようにも見えるがその色合いは一色だけだ。チェーンも付いていて、とても知育玩具には見えない。
「ふぁんふぁよ? ふぉれ?」
「飲み込んでから喋れ」
ゴクン、と口の中のご飯を飲み込んだ有斗は、再度孝俊に尋ねる。
「何だよ、それ?」
「俺がここにきた本来の理由さ。実はつい先日、こいつを拾ったんだが……用途がわからなくてな。お前に調べてもらおうと思って来たんだ」
そう言って孝俊は、有斗にその物体を投げ渡す。
手のひらサイズの四角い立方体型をしたそれは硬くて冷たい。何かの金属で出来ているようだが、有斗には何で出来ているかまではわからなかった。
「何だこれ? ただのアクセサリー……ではなさそうだしな。どーせこれから補習だし、じいさんのとこ行って聞いてみるよ」
「ああ、よろしく頼む。俺はこれから用があるから、じゃあな」
そう言って部屋を出て行く孝俊。
「……あ、代金のこと聞くの忘れてた」
孝俊が差し入れに来るのはそう珍しい事ではないのだが、何があっても毎回しっかり領収書を渡して去って行く。それなのに今回はそのまま去ってしまった。
「よっぽど急いでたんだろうな。じゃあ、俺も出発しますか」
鞄を持って、テーブルの上を片付けた有斗は、例の立方体を持って学校へと向かった。
魔術都市の開発計画が具体的に実行に移されるようになって、もう10年が経つ。
今では人口100万人を超える大都市へと化けた魔術都市イティグリンは、国内で唯一、魔術研究と公認魔術師の育成に力を入れている機関だった。
小学生から大学生まで、一般教養と魔術的知識を中心にしたカリキュラムが組まれている魔術都市の学校は、最新技術の希望とまで呼ばれている。発案当初は怪しむ人間も多かったものだが、今となっては入学希望者が後を絶えない状況だ。
それもこれも、全ては魔術細胞の発見が鍵になっている。
15年前に発見された魔術細胞は、多種多様な変換の出来るエネルギーを生み出す細胞だった。
エネルギーを別のエネルギーに変換する事自体はそう珍しくは無い事だが、この魔術細胞は、その互換性が非常に高かったのである。
熱、運動、電気……様々なものに変わるその細胞が人間に備わっている事を知った国家は、魔術都市の開発計画に着手し始めたのだ。
それが魔術都市開発計画。国の最終手段かつ、最大のプロジェクトだった。
「……だから、つまりここの式はこういう訳し方をするんですね」
教壇で眼鏡をかけた若手の男性教師が、チョークで白い英単語を描いている。
有斗の席は左端の一番前。……といっても、補習の人数はたった5人。教室はガラガラで空席だらけなので、必然的に全員先頭の席に座る事になる。
早く終了の鐘が鳴らないかな、と時計を見る有斗だったが、こういう時に限って時間はゆっくり進んでいる気がしてやまない。学生のサガ、というやつだった。
残り十分をどうやって過ごそうかと軽く悩むが、いいアイデアなどそう都合よく浮かびはしないものだ。
結局出来るのはペン回しや消しゴムを使った遊びくらい。やっている事は小学生と何も変わらない。
と、そんな時だった。教室のドアがガラッと空いて1人の女性教師が入ってくる。
職業と不相応とも言える童顔に身長140センチ程の体躯。ダークブルーのスーツに身を包んだその教師は、キョロキョロと教室を見渡すと、やがて有斗に視線を寄せる。
有斗はその顔に見覚えがあった。……というか、こんな特徴的な見た目をしていては、忘れろという方が困難だろう。
「あー失礼。天境 有斗、お前の補習はここで終わりだ。至急帰りの準備を整えて私に着いて来るように」
他の生徒からはどよめきと不満の声が上がるが、唯一、有斗だけは苦虫を潰したような顔で女性教師を見ていた。……有斗にはわかっていたのだ。自分がまたロクでもない事に巻き込まれる。ハチャメチャな体験をする事になると。
しかし有斗は一生徒。教師の呼び出しを無視することも出来ない。大人しく帰りの準備をして、着いて行く他に選択肢がなかった。
教室を出た有斗はドアを閉めた事を確認して、足を動かしながら女性教師に問いかける。
「で? 今回は何ですか。小梅先生」
「名前で呼ぶのはやめろと言っているだろう」
朱巻 小梅は首から提げたネームプレートを手に持つと、それを有斗の目の前に持って来て強調してくる。
ぱっちりした目で上目遣いに見上げられるのを見ると、有斗は親戚の女の子でも相手にしているかのような既視感を感じた。
髪型も大きいポニーテールで化粧の雰囲気も薄い。かつメリハリの薄い体型なので、目上の人間として見るのは割と難易度の高い事だった。
(どう見ても年下にしか見えない。苗字で呼ぶのは何か変な感じだし)
「何か失礼な事を考えているな。……まあいい、今回も一緒だ。私と一緒に課外活動をこなして貰うぞ」
「またパトロールですか。完全に体の良い使いパシリですよね?」
「何を言う、これも立派な公務員の仕事だ。それに、君の立場で仕事を選べるとでも思っているのか?」
有斗が朱巻に逆らえない理由は、実はもう一つあった。
もはや有斗の成績は、補習で賄えるようなレベルを遥かに超えて悪いのだ。それこそ、クラスで【赤点マスター】なんて呼ばれる位には。
座学の絶望的な成績を補うために、有斗は朱巻に【特別補習】を受けさせてもらっている。
実際の公務員、公認魔術師として活動している朱巻の手伝いをする事で、特別に実技点と座学点を底上げしているのだ。それがなければ、有斗はとうの昔に留年しているだろう。
「まあ、そりゃそうですけど」
「分かればいいんだ。時間は明日の午後……どうせ明日も補習だろう? 終わった頃に教室に迎えにくる」
「へーい。わかりましたよ」
猫背になりながら投げやりな返事を返す有斗だったが、それも仕方無い事だ。補習の連絡で浮かれた気分になる人間の方が物珍しい……というかいないだろう。
そう言って朱巻は上の階。2階の職員室に戻って行く。
特別補習で点数が貰えるとはいえ、それでも翌日にある通常の補習に出なければ有斗の成績は危うい。
朱巻に仕事の約束を取り付けられた有斗は、憂鬱な気分で学校を出ていった。
「じいさーん! 何かわかったかーい!」
有斗は学校から帰る途中に、ある古道具屋へと顔を出していた。
駅から少し遠い公園の近くに存在するその古道具屋は、表向きには駄菓子屋を経営している。近所の小学生には割と繁盛しているようだが、流石に夏休みの午前中に客はあまりいない。
昔懐かしい木製の引き戸に、石で出来た床。時代を感じる出で立ちは店主の趣味だ。午後になればもう少し小学生もやって来るだろう。
しかし有斗は駄菓子を買いに来たわけではない。この店の店主であるお爺さんは、実は知る人ぞ知る、魔術道具の鑑定士なのだ。
どうやらそういう家系に生まれて、魔術開発が行われる前から鑑定士をしていたようだが……今は国に雇われて公認鑑定士をしている。ついでに駄菓子屋も経営している。
行きに孝俊から預かった謎の立方体を預けていた有斗は、それの回収を目的にしてこの店へとやって来た。
「ああ……まあ上がれ。ついでに何か買っていけ」
有斗は透明な冷蔵庫からジュースを取り出すと、爺さんに小銭を渡して奥の茶の間に上がる。
雰囲気のある畳に、時代遅れのちゃぶ台。この魔術都市では珍しい昭和風の暮らしをしている1人だった。
「こいつはな、この世界のもんじゃねえ。深くは分かんねえが……あんまし関わっても良いことはねえぞ」
座布団の上であぐらをかいている爺さんは、神妙な顔をして立方体を差し出して来る。
「なんだよ、それ」
「触らぬ神に祟りなしって事だ。余計な事に首を突っ込んでも、後悔するのはお前さんだぞ?」
「……て言われてもな。何にも分からなかったのか?」
「そういう訳じゃねえが……。まずこいつは、魔術細胞に関連する何かだ。つまりエネルギーを生み出すことが出来る。だが、それはこいつを起動出来てからの話だ。さっき色々試してみたが、何にも反応する様子は無い。このままじゃ宝の持ち腐れだし、何より…………」
「間違いなく狙われるぞ。こいつの正しい使い方を知ってる奴らにな」
お爺さんの言葉はいつにも増して真剣だった。
「……わかったよ。これは返す事にする」
これ以上何を言っても肯定的な情報は得られない。
それを感じ取った有斗は、立方体を鞄にしまって駄菓子屋を後にした。
「これ、どうすっかな……他に当てはねえしな」
駄菓子屋から出た有斗は、近くの公園の木陰で立方体を眺めていた。
陽に当てたり、色々な角度から眺めたりするが、何も変わった様子は無い。……爺さんが警戒するような危険性はおろか、変化自体すら感じない。
いい加減諦めて孝俊に返すか。と思い始めていた有斗だったが、やめろと言われると余計に気になるのが男子というものだ。
何かないかとそれを眺めている、そんな時だった。
「…………あ!? この前の不良!?」
有斗を指差して叫んだのは、公園の入り口でこちらを見ている少女。
ふんわりとした赤毛にちんちくりんな体型。制服の上に羽織った特徴的な真っ赤なパーカーは忘れもしない【紅魔陽炎】。
八神 纏衣。その人だった。
「ふーん、で? 何が目的なの?」
有斗の隣に座ってソフトクリームアイスを食べている纏衣。
この時期、そこそこ人通りの多い公園にはアイスの販売車が来ている。ちょうど今、有斗達の目の前でアイスが売られているのだ。……もちろん、有斗に買い食いするような金は無いが。
実際に纏衣に奢らされそうになった有斗は、腹いせとばかりに財布を投げつけてやった。
中身を見た纏衣の、いけないものを見てしまったかのような視線を有斗は一生忘れる事は無いだろう。
そんなこんなで纏衣は隣に座り、有斗は弄ってた立方体について纏衣に説明した。説明……したはずなのだが。
「お前俺の話聞いてた!? ……こいつが何なのか知りたいんだよ。俺の周りにそういう知識ある奴はいねえからな」
有斗の頭に一瞬、小梅の事が思い浮かんだが、じいさんと同じ反応をするだろうという事は明らかだった。大人とはそういうものなのだ。
「見せてみなさいよそれ。仮にも私はエリートよ、エリート」
有斗は鞄から立方体を取り出すと、偉そうに踏ん反り返っている纏衣の目の前に差し出す。
「どれどれ……? って、これ! アンタ! これどこで見つけたの!?」
有斗の手にあったそれを見るやいなや、目の色を変えて纏衣は迫って来る。手に持ったソフトクリームが、有斗の制服に着きそうになっていた。
「どこって、友達に貰ったんだよ。俺と一緒に逃げてたあいつ」
「そんな……いや、確かにアンタよりは頭がいいだろうけど、まさか……」
纏衣は有斗の話を聞かずに立方体を見つめ、握って離さない。どうやら纏衣はこれが何だか知っているようだが、小声過ぎて有斗には聞き取ることができなかった。
「おい、何1人でブツブツ言ってんだ。これが何なのかわかるのかよ」
と、今度は有斗が纏衣に詰め寄ったその時だった。
ザザ! と背後の茂みから音がして、数人の目出し帽を被った男たちが出て来る。
明らかな不審者。しかも武器……自動小銃のようなものまで所持していた。
男たちは無言で銃を構えて有斗たちに近づいて来る。……無意識にホールドアップ、降参の意思を示す有斗だったが、纏衣はそんなことつゆ知らず。キッと男たちを睨みつけていた。
有斗は、この男たちが纏衣を狙っているんだと思っていた。この前みたいに何かやらかしたこいつが、ちょっと過激な組織の琴線に触れてしまったのだと。
有斗はそう思いたかったが、今銃口の先にいるのは、何度確認しても有斗の方だった。
「伏せて!!」
纏衣の叫び声が響き渡る。
それが自分に向けられたものだと感じるのに一秒もいらない。すぐさま力を抜いて地面に這いつくばる。
一瞬遅れていれば蜂の巣だっただろう。伏せた有斗の上を無数の弾丸が通過していく。何重もの銃声が平和な公園に響き渡って、悲鳴と共に市民が一斉に公園から逃げ出していった。
伏せた有斗は、自分が無傷なのを確認して纏衣を見上げる。
視界に入った纏衣の姿は、初めて遭遇した時と全く同じ。
空気を歪ませる陽炎を周りに漂わせ、一瞬にして熱エネルギーの集中を始めた纏衣は、実弾に臆することなく、大量の弾丸を溶かして炎の壁で受け止めている。
【紅魔陽炎】の降臨。紅炎を纏う紅の魔術師がそこには立っていた。