ホラー小説「のっぺらぼう」
「しかしまあ、人間の本質ってのはなかなか変わらないもんだよ」
すじ肉をほお張りながら、雅夫はしみじみと言った。
旧友の雅夫とたまたま電車で鉢合わせ、私たちは屋台のおでん屋で一杯引っ掛けている。こうして飲むのはずいぶん久しぶりだった。
思えば雅夫も私も、ずいぶん歳を食った。
怪奇映画好きが高じてその世界に入った雅夫は、白いものが髪に混じり始めている。今でも特殊メイクの仕事を続けているのだろう。
業界の人間だけあって、雅夫の話は退屈しない。いや、業界に入る前から話題豊富な奴だった。
前に飲んだ時は、たしか映画の話をした。
私がエイリアンシリーズが好きだと言うと、雅夫はにやりと笑って言ったのだ。
「お前、知ってるか。エイリアン2の女王はゴミ袋で出来てるんだぜ」
「まさか」
「本当さ。頭とか手とかは装置と繋いで作って、後は黒いゴミ袋を被せてる。その中に男が二人入って操作するんだ。あれこそ特撮の極意だよ」
そして、CGもいいが特殊メイクや被り物など、地道なアナログ作業こそ大切なんだ、と半ば悔しそうに言った。特殊メイクは不滅だとも言った。
しかし今日は、そう言う楽しい話は出来そうにない。
「晴道も惜しいことしたよ。本当に」
雅夫が持ってきたのは、共通の友人である晴道の死だった。学生時代は一番馬鹿をやって騒いでいたのに、実家を継いで坊さんになった変な男だった。
「死因はなんだったんだ? ――大将、卵と大根」
私は訊くついでに注文する。屋台の親父は後ろを向いたまま、へいと答えた。
「死んだとしかおれも聞いてないんだ。……だがな、お前だから言うが」
雅夫は声を落とした。
「実は晴道が死ぬ三日前に、おれは会ってるんだ。偶然会って一緒に飲んだ。もちろん元気だったよ。いや、元気だったが――焦燥していた。傍目にわかるくらいな」
「ほう」
雅夫の語り口は映画のナレーションのように効果たっぷりだ。聞いているとすぐに引き込まれる。
「あいつ、寺を改築しただろ。知ってるか?」
それは私も知っていた。実家に帰省した際、前を通ったらピカピカの白壁が現れて度肝を抜かれたことを記憶している。やたら古かった前の寺は、新しいもの好きの晴道の好みには合わなかったようだ。
雅夫は続ける。
「その改築の際、どうやら一幅の絵巻が紛失したらしい。価値のあるものだったから、厳重に管理していたにもかかわらずだ。まるで消えたか自分で歩いて行ったみたいに無くなった。その絵巻、何が描かれていたと思う」
「なんだい」
「のっぺらぼう、さ。妖怪の」
子供でも知っている有名な妖怪だ。小泉八雲の「むじな」は私も読んだことがある。たしか、うつむいて泣いている女性に声をかけたら目も鼻も口もないのっぺらぼうで、無我夢中で走って屋台に逃げ込むと、「それはこんな顔じゃなかったですか」と振り向いた主人ものっぺらぼう――そんな話だったはずだ。
「妖怪の絵巻を無くしたから晴道が死んだ、と?」
冗談のつもりで私は言った。だが雅夫はうなずく。
「お、鋭いじゃないか。まあここまで聞いたんだ、さっきは死因を知らないと言ったが――自殺なんだよ。あいつは首を吊った」
「まさか」
にわかに信じられない。晴道の神経は海底ケーブルよりも太いはずだ。
「その絵巻な……ただの絵巻じゃないらしい。あいつはおれに、信じなくてもいいからと前置きして語ってくれたよ。あの寺は昔、呪いの品や封印の呪物を預かって、保管していたそうだ。その中でも一等危険だったのが、その絵巻だ」
「それで?」
「寺の何か、どこかにその絵巻を封じている封印があったんだろう。改築でそれは壊れた。開放された絵巻は消えてしまった――」
「だから晴道は責任を感じて自殺したのか? この現代に妖怪?」
雅夫の語りがあまりにうまいので、私は一瞬信じかけたが、有り得る話ではない。ただ、雅夫が無意味に私をからかったりするはずもない。
「あほらしい話だよな。だが晴道は自殺した。間違いなくそれを苦にしてだ。あの現実主義者の晴道がだぞ」
なるほど、雅夫は憤慨しているのだ。荒唐無稽な迷信を真に受けて死んだ晴道に。
私はうなずいた。
「それくらいリアリティのある何かがあったんだな」
「いやむしろ。おれは事実じゃないかと思うんだ」
「何を馬鹿な――」
「卵と大根、遅くなりました」
私の前にぬっと手が伸びて、皿が置かれた。
見上げると屋台の親父は後ろを向いたまま手だけをこちらにやっている。私は眉根をひそめた。
「おい大将。客に出すときくらいこっち向きなよ」
「へえ。そりゃ失礼しました」
と、振り向いた顔は、真っ白つるつるののっぺらぼう――。
私は唖然とした。隣の雅夫はぎゃははと笑う。
「いいね、おっちゃん。プロのおれから見てもうまいメイクだよ。いや、この短時間にどうやって――」
雅夫は手を伸ばして卵のような顔に触れる。
次の瞬間、はじかれたようにその手は引っ込んだ。
「……本物だ……」
「なんだって?」
「本物だ、逃げろ!」
「おい待て」
真っ青になった雅夫は屋台を飛び出していった。私はあわてて財布から五千円を出すと、釣りはいいと言ってのっぺらぼうの親父に渡し、後を追った。
「どうしたんだ! 待てってば!」
雅夫はすでに、しばし行ったところにある交番へ駆け込んだところだった。私はひきずりだそうと思って飛び込む。
「あ、あ、あそこだ! 顔が、顔が、顔が――」
息切れもはなはだしく内容が支離滅裂なことを雅夫は叫んでいる。巡査はそんな雅夫には目もくれず、後ろを向いたまま書き物をしている。私は雅夫を押さえ、詫びた。
「すいません、友人は酔ってるんです」
「いえいえ、それは災難でした。ところであなたたちの見たのは――」
巡査は振り向いた。
「こんな顔じゃなかったですか?」
その顔面は真っ白つるつるののっぺらぼう――。
「ひええええ」
「うわあああっ」
さすがにこれは私も驚いた。
二人して交番を飛び出し、走り出す。
「た、助けてくれえ!」
雅夫は完全なパニックだ。大声を出しながら、歩いてきた男を捕まえた。
「なんですか? 一体」
帽子を目深に被った男は迷惑そうだ。雅夫はすがりついたまま口から泡を飛ばす。
「顔が、のっぺらぼう、そこの交番!」
日本語にもなっていない。だが男は何度もうなずいた。
「なるほど。ひょっとしてそれは、こんな顔でしたか?」
帽子を取ったら、その下は真っ白つるつるののっぺらぼう――。
もう私たちは声をあげなかった。
何も言わずに走った。
途中ですれ違う老若男女、その全てがのっぺらぼうだった。塀の上でこっちを見ている猫も、ゴミを漁る野良犬も、全部顔がない。
走りながら私は何を考えていたかと言うと、何も考えていなかった。ただ前を走る雅夫について行っただけだ。
夕食はいらないと妻に電話するのを忘れたな、とどうでもいいことばかり脳裏に浮かんでいた。
走りに走って、繁華街のはずれへたどり着き、ようやく誰も居なくなった。
雅夫は電柱に手をついて、息を荒げている。私も似たような状況だった。
「な、なあ雅夫。何が起きたか、整理しようぜ」
「……そうだな。街の人間がみんな、のっぺらぼうになってる。でものっぺらぼうって、どんな顔だった?」
「何言ってんだ? のっぺらぼうはのっぺらぼうな顔だ。こう、目も鼻も口も無くて」
「それはひょっとして」
雅夫は電柱から手を離し、こちらを振り向いた。
「こんな顔じゃあ――」
雅夫の顔も、真っ白つるつるののっぺらぼう――。
「ぎゃあああああ」
私は絶叫した。生まれてこのかた出したことのない音量だった。
もう夢中で走った。
実際は息切れ寸前の中年の全力疾走だ。小学生の方がよっぽど速いだろうが、私は必死だった。
どんどん回りはさびしくなっていく。だが人なんかいないほうがいい。
電灯一つが照らす公園へ駆け込み、私は公衆便所の壁へ倒れこむようにしてもたれかかった。
「何が、何が起きたんだ」
怖いを通り越して、なんだか哀しかった。人間の感情はわけがわからない。
泣きそうになりながら、とにかく顔を洗って落ち着こうと、洗面へ向かった。
冷たい水で顔を洗うと、手の平に当たる感覚が違うことに気がついた。
顔を上げて、私は鏡に映る自分の顔を見る。
なるほど、となぜか納得した。
なぜなら私の顔も、真っ白つるつるののっぺらぼう――。
――おわり