病祓・前編
それは魔剣が生まれるいくらか前のこと。
命が育ち、死んでいく夏の季節のことであった。
空渡りよく晴れたある日、ロクゾウ藩の端の浜辺をひとりの男が歩いていた。
人気のまばらな浜辺にはひどく場違いな男であった。
年のころは三十半ば。決して怪しい見た目というわけではない。
きちんと髪を結い上げ髭を剃り、裃を纏い、大小を差したその姿は殿中にいてもおかしくないほど整っている。
だが、整っているがゆえに異質であった。旅の身空にはとてもではないが見えない。そんな男だった。
男はふと足を止めた。十数歩先の砂浜に奇異なものを見つけたからだ。
流れ着いた流木に紛れて、全裸の少年が倒れ伏していた。
おそらくは十代後半。か細いが、まだ息をしていることは気配でわかる。
だが、青ざめた体は早急に暖めねばそのまま黄泉路へ落ちるであろう。
「……これもオモダル神の導き。功徳のひとつも積んでおくか」
男は少年を助ける面倒と、おのれの信仰心を天秤にかけ、辛うじて勝った泥の神への信仰心に従った。
それは男の成した最後の功徳であり、後の波乱の端緒であった。
◇
「助けてイタダキ、アリガトウ、ゴザイます」
手当は間に合った。焚火を拵え、介抱してしばらく、少年は目を覚ました。
聞きなれない発音。拙い言葉。薄い色の髪に彫り深く整った容貌と合わせれば、このあたりの人間でないことは明らかであった。
丁寧な言葉とは裏腹に、ギラギラと輝く瞳が印象的だった。
「西方帝国の者か」
「ハイ。泳いでキました」
「なんと」
男はそれを冗句だと思った。西方冗句だ。なにせ、かの国とは船で七日はかかる距離がある。
しかし、少年の痩せて肋の浮いた体はよく鍛えられている。剣士の体だ。
見る間に血色を取り戻し、赤みを散らす紅顔を見れば、呼吸法にも秀でていることがわかる。
自分なら、七対三で溺れ死ぬ。溺死が七だ。
泳法には覚えがあるとはいえ、船で七日の距離は海上で食事や睡眠を摂る必要のある距離だからだ。
だが、この少年と同じ年の頃ならどうだっただろう。若さに任せて達成できたやもしれない。
そう思えば、男はこの若さと幸運を持つ少年を奉行所に突き出す気にはならなかった。
密入国は死罪にあたるからだ。それがこの国の者でなくとも。
「私は“ショウキ”という。そちに名はあるか?」
「ワタシ、“クガラ”と言イます」
そう言って、少年――クガラは笑みを浮かべた。
獰猛な獣の、しかし人懐っこい笑みであった。
なにはともあれ、少年が全裸なのは問題だった。
日差しの照る今時分、漁師たちは褌一丁で海辺にいることも珍しくないが、身なりの整ったショウキがうら若いクガラを裸のまま連れまわすのはあまりにも目立ちすぎる。
「そういう趣味嗜好だと思われるのも心外であるしな」
「ワタシ、気にシませんよ?」
西方帝国は進んでいた。
ショウキは内心慄きながら、手近な海女に銭を渡して適当な古着を見繕って貰った。
クガラの顔立ちを見れば密入国者であることは明らかであるが、少年が海女を物陰に連れ込んでしばらくするとそれも解決した。
西方帝国はとても進んでいた。
今日からは刀を抱いて寝よう。ショウキはこっそり心に決めた。
「丈は問題ないようだな」
「チョロ……デハなく、親切ナ人タチでしたネ」
「いい性格しておるな、おぬし」
だんだん素が見えてきたクガラを半目で睨みながら、ショウキはため息を吐いた。
海女に手伝ってもらったのか、クガラは頬を薄く泥で汚し、頭巾を被っていた。それだけで外見の奇異さはひどく薄れている。
土地の者に溶け込むにはその土地の物を使うのが一番。潜入術、変装術の要諦だ。
(もしや、こやつは西方帝国の間者ではあるまいか?)
一抹の不安がよぎるが、ショウキはかぶりを振ってその思考を追い出した。
元より死罪の密入国者。奉ずる神に助けると誓った以上、その素性がなんであれ誓いを破るつもりはない。
「あとは、刀だな。剣士ならば刀がいる」
「そう簡単に手に入るモノではナイと思いますガ?」
「アテがある」
この短時間で大部分の発音を修正したクガラの学習能力に、内心で警戒を引き上げながら、ショウキは腰に差した鍔を指で弾いた。
チン、と鈴の音のような軽やかな音が鳴った。
その晩、近くの村に宿を借りたふたりは寝込みを襲われた。
「はよ侍ば囲んで叩け!!」
『チッ、アテってこういうことかよ!!』
「クガラ、国言葉がでているぞ」
「おっと」
振り下ろされる鍬を転がって避けしな、クガラは後方転回の要領で襲撃者の顎を蹴り上げた。
少年は人並外れた怪力だ。その特性は背筋や脚力にも及んでいる。
結果、蹴り上げられた襲撃者は焼いた竹のように垂直に吹き飛び、小屋の屋根に頭から突っ込んだ。
「中々やるな」
「無手での戦い方も師匠に教わってイます」
「そうか。では、後ろは任せる」
『了解!!』
見る間に二人目を殴り倒すクガラを横目に、ショウキもまた刀を抜いた。
瞬きの踏み込みと同時、前方から迫る集団に対し、袈裟懸けに斬りかかる。
夜闇に銀刃が煌めき、血をまき散らしながら死体を引きずり倒していく。
――デイシン流、捲り乱太刀
袈裟に斬り込んだ切っ先を死体に引っかけ、左右に振りとばすことで正面の道を拓く乱戦技。
一歩を進むごとに一人を斬り倒す様はさながら鬼神の如し。
旅人を集団で襲って財貨を得ていた村人たちも、これには顔を青ざめさせた。
その恐怖を演出し乱戦を制することこそが、この技の骨子であることに、彼らは気づけない。
視界の端でクガラが腰を抜かした男の股間を踏み潰す。
「ヒイイイッ!?」
残る最後の一人が背を向けて逃げ去ろうとする。
「――カッ!!」
――デイシン流、疾虎
踏み込む足が腰の送りでぬるりと延びる。
逃げる背中を、溜めを維持した特殊な歩法で追いかけ、横一文字に斬りつける。
背中に走る熱と痛みに反射的に振り向いた男の額をさらに斬り伏せる。
追い駆け抜きと呼ばれる技法の一種だ。瞬間的に相手の速度を上回る独特の走法は傍から見れば獣の如し。
「終わったか、クガラ」
「そちらこそ、ショウキ」
互いに返り血に濡れた男と少年は、短い言葉で互いの無事を確かめた。
そうして、今宵の襲撃者は全滅した。
◇
「うむ。やはり刀は残しておったか。無暗に売れば足がつくからな」
村の中にひとつだけあった土蔵を漁ると、奥まった一画に拵えも様々な刀が雑に投げ込まれていた。
旅人が差すものゆえ折り紙付きこそないが、見る者が見れば憤死する光景であろう。
「保存はあまりよくないが、どうだ?」
「じゃあこれを」
クガラは刀身を検めることもせず、手頃な長さを二振り、それに合わせた鞘を見繕って腰に差した。
得物にはさして拘りはなかった。ただ目釘がきちんと嵌まっているマシなのを選んだだけだった。
振れるならば斬れる。それがクガラという剣士であった。
「ショウキはずっとこんなことをしているのですか? 随分と慣れていましたが」
「そうだな」
血と死体に彩られた夜道を歩きながら、ショウキは静かに頷いた。
もうずっとこんなことを続けている。いつから続けているのかも思い出せなくなっている。
「どうしてこんなことを?」
「見てわからぬか?」
昇りかけの、狂ったように明るい月に照らされて、ショウキは優しく微笑んだ。
「――仇討ちの旅よ」




