魔剣、終譚
洞窟の中はひやりとした冷気で満たされていた。
ジエンは一歩一歩噛み締めるように“魔剣の卵”の許へと進んでいった。
ずっと耳の奥に響いていた共鳴音も既にない。
卵は語らず、黙してただその時を待っている。
「――――」
ジエンは躊躇なく魔剣を卵へ差し込んでいく。
双牙から奪還した二振り、そして――
「ああ……世話になったな、薄明」
最も長く共にあった最後のひと振りを卵に食わせる。
とぷん、と水面に手を入れるような僅かな手応え。
この行程だけは十年変わらず、胸には微かな哀惜の念が漂う。
その念を振り切って、ジエンは根元まで薄明を差し入れた。
――そして此処に、全ての魔剣がひとつとなった。
「…………何も起こらぬな?」
洞窟の空気がしんと静まる。
しばらく見ていても様子は変わらず。
まだ何か足りなかったのかとジエンが焦り、訝しんだその時。
ぴしり、と音を立てて卵の表面に罅が入った。
まさしく卵が孵るが如く、瞬く間に罅は全体に拡がっていく。
ジエンは息を呑んでその様を見つめていた。
触れれば諸共に崩れてしまいそうな、儚き刹那。
罅は遂に根元まで達し、次の瞬間、内側から発せられた眩い光と共に殻が砕け散った。
『…………ジエン』
不意に、声が聞こえた。
女の声。誰よりも愛したただ一人の声が、聞こえた。
はっとしてジエンは眩さに閉じていた目を開ける。
光の中には、最後に会った時から変わらぬ彼女の姿があった。
もう一度会いたいとずっと願っていた姿がそこにあった。
「おぬしは、ずっとここにいたのか、クオウ」
『――ごめんなさい、ジエン』
クオウは泣いていた。こちらの声は届いていないのか、ただ子供のように泣きじゃくっていた。
ジエンには、なぜ彼女が泣いているのかわからない。
彼を壊してしまったことか、旅を強いたことか、あるいは、彼の前からいなくなってしまったことか。
思い当たることはある。だが、問いただしたところで、今さらどうしようもない。
だから、彼にできることはたったひとつしかなかった。
「泣くな、クオウ」
泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめる。
二度と離さぬように、きつく抱きしめる。
随分と遠回りしてしまった。
なにを望んでいたかも忘れてしまうほどに、遠くに来てしまった。
――本当は、彼女が傍にいてくれるだけでよかった。
それだけが、ジエンのたったひとつの望みだった。
「もういいんだ、クオウ。おぬしが泣くようなことは、もうないのだ」
『ジエン……でも、オレは――』
「……まったく」
ジエンはわざとらしくコホンと咳払いした。
緊張で上ずる心を抑え、真っ直ぐにクオウを見つめる。
旅をしてわかったことがある。多くの人に出会って知ったことがある。
「なあ、クオウ。僕は自分が思ってた以上に不器用らしい」
束の間、ジエンは己が若かりし頃に戻ったように感じた。
元服する前の、まだ何も知らず、世界が自分と彼女だけでできていた頃。
気持ちまでも若くなって、だから、大人になる前に言いそびれたことを今、ここで――
「――愛してる、クオウ」
ずっと言いたかったことを、遂にジエンは告白できた。
次の瞬間、ぴたりと泣きやんだクオウがはっとした表情で見つめてきた。
それがきっと、ふたりに足りなかったたったひとつの言葉。
『ジエン、オレも――』
クオウが微笑む。初めて会った時から変わらない太陽のような眩い笑み。
魔剣に囚われていた彼女が、最後の最期に取り戻したひと欠片。
『――あなたを愛しています』
そうして、長きに渡る彼の旅は終わりを告げた。
◇
束の間、意識を失っていたらしい。
目覚めたジエンは周囲を見回し、そこが意識を失う前と同じ洞窟であることを認識した。
次いで、己の手の中に視線を移す。
そこには、ひと振りの刀があった。
「……嗚呼、そうだったな。あれから十年も経っていたのだったな」
刹那、ジエンの頬をひと筋の雫が流れた。
あの日、流せなかった涙をようやく流すことができた。
わかっていたことだ。全てはまぼろしだったのだ。
彼女はいない。喪われたものが戻ってくることはない。
そんな現実が、彼の心を痛切に打ち据える。
それでも、ジエンは立ちあがった。
クオウはもういない。それでも、彼女の分まで生きなければならない。
狂うことすら許されない。
この手に、託されたものがあるから。
「これがおぬしの出した答えか、クオウ」
洞窟に差し込む光に、そっと魔剣を触れさせる。
すらりとした弧を描く蒼銀の刀身。
“真打ち”の魔剣はともすれば平凡にも見えた。
その剣には絶海のような破壊力も、落葉のような長さもない。
その剣が有する機能はただひとつ。
それこそがクオウの出した答え、最高の剣に値する理由――
――【剣体一致】
剣士に求められるがままに舞い、剣士が望むように斬る。
ただそれだけを追い求めた一刀。
それは呆れるほどに単純で、どこまでも基本的な、剣の極致。
ジエンが思うままに生きられるように、と。
ただそれだけを願ったクオウの、祈りの結晶。
「――いってくる」
ジエンは彼女の墓前に力強く告げて、洞窟を後にする。
桜の幻影はもうみえない。彼女の死を受け入れたジエンがみることはもうない。
魔剣を巡る旅は終わった。
ジエンの中にはもう何も残っていない。
だから――
――だから、あとはただ決着をつけるだけであった。
◇
「――待たせたな」
最前と変わらぬ様子で待っていた男にジエンは声をかけた。
男は刀傷の走る眉を僅かに跳ねさせて、しかし、何も追及せず、ただ笑んだ。
「いい面だ。やっとアンタと戦えるな、“魔剣使い”のジエン」
「おぬしも全力を出せ、ショウキ……いや、“神刀”のクガラ」
「なに?」
「――二刀流なのであろう」
にやり、とジエンは笑みを浮かべた。
初めて会った日、初めて手合わせしたときのことをジエンは覚えている。
圧し切りに持ち込んだジエンに対し、クガラの左手が揺れたことを。
あれは剣を探す無意識の動きであった。
「……見切られたのは初めてだな」
「なぜ隠していた?」
「見せる時はアンタと決着をつける時だと決めていたからだ」
クガラもまたにっかりと獰猛な笑みを浮かべて、腰から二刀を抜いた。
「感謝する、ジエン。――やっと“答え”に届きそうだ」
そうして、ふたりは笑みのまま剣を構える。
互いの間合いは一間半。
互いを捉えた視線は僅かな動作も見逃さないと、強く強く研ぎ澄まされる。
この立ち合いに斬り合いは存在しない。
言葉を交わすまでもなく、ふたりは同じ結論に至っている。
人智を超えた反応速度を持つクガラにとって、斬る時は相手の急所を捉えた時だ。
魔剣に適応し、人外の剣速を振るうジエンも同様。その刃は如何な障害をも斬り拓く絶技にして絶剣。防御も回避も意味をなさない。
互いはまさしく一撃必殺。
故に、この一戦に二の太刀はない。全ては初太刀で決まる。
「――――」
御山に風が吹く。冬の太陽は早くも中天を過ぎ、足早に沈んでいく。
クガラの初太刀は既に決まっていた。
この瞬間の為に隠しておいた切り札。
――流派カグツチ・二刀兵法奥義“陰陽両翅剣”
彼が命を預けるに足る絶技。カグツチに於ける一子相伝。
その術理はごく単純。
正面から全力で走りかかり、左右から翼を打つが如く二刀を打ち込む。
ただそれだけである。
しかし、“ただそれだけ”にカグツチの全ての術理が込められている。
すなわち、“陰”――卓越した歩法と身体制御からなる、戦場支配の虚の術理。
すなわち、“陽”――槍の長さ、拳の早さ、剣の鋭さを二刀に込める実の術理。
相対した以上、陰なる歩法から逃れる術はない。
生半可な迎撃は絶歩の踏み込みに射すくめられて機能しえない。
左右から振るわれる二刀はひとつの得物では防げない。
よしんば盾や二刀を持っていようとも、陽なる剣はそれらをまとめて叩き斬る。
ひたすらに単純な術理。しかし、それ故に強固な術理である。
そして、クガラは既にジエンの技量を見切っている。
魔剣でなければ、ジエンの剣はクガラに追いつけない。
魔剣の最高速度は、その一点において、確実に陰陽両翅剣を超える。
だが、肉体の限界を超える魔剣の行使は、それ故に不可分な“溜め”を必要とする。
それは今のジエンに於いては、あってないが如き阿頼耶の隙だ。
これまで彼に対してきた誰も衝くことのできなかった極僅かな隙だ。
しかし、クガラにはできる。先手を取れる。
思考がそう結論し、肉体が自信をもって肯定する。
それができてしまうが故の“神刀”――人を超えた神域の刀、その二つ名の由来なのだ。
故に、ジエンに勝機があるとすればただひとつ。
最後の魔剣、真打ちに定められた業。
それを手にしたジエンが、これまでの己を超えられるか否か。
勝敗はひとえに、その一点によって決する。
(……ああ、そうか)
刹那、クガラは悟った。ここが最高潮。ここで己は燃え尽きるのだ、と。
もしも天下無双があるならば、この一戦に勝利した瞬間こそが己のそれだ、と。
なれば、相対するジエンはどうか。
見るともなく見れば、彼は穏やかな顔つきのまま真打ちの魔剣を構えていた。
構えは左足を前に、切っ先を右腰から水平に流した特異なもの。
デイシン流の“霞”の構えだと、アモンに聞いた覚えがあった。
構えからして、刺突はない。
払いか斬り下ろし、やや可能性が下がって斬り上げ。そういう構えだ。
どちらかといえば防御的な意図が感じられる。初手の取り合いにはやや不適。
しかし、クガラはそこに疑問を挟まない。
“何故”はない。ジエンがそうしたのならば、そこには論理と必然が存在する。
疑うことはない。最高の敵手であるからこそ、そこには絶対の信頼が存在する。
「――――」
「――――」
剣士ふたり、言葉はもういらない。
ただ、仮想の中で互いの初手を読んで、超えて、覆して。
そうして、現実の間合いが徐々に縮まっていく。
互いの刃圏まであと僅か。
そして――
「――シャァッ!!」
――そして、クガラが先手を取った。
神速の踏み込み、ジエンの心の臓が膨らむ一瞬の拍動を捉えた雲耀の機。
羽ばたくは陰陽両翅剣。無敗の二刀が今、魔剣使いを捉える。
「――――」
迫る二刀を前にジエンに驚きはなかった。ただ称賛だけがあった。
この刹那のクガラはまさしく神域。
拍動という不可避の隙を衝かれれば、如何にジエンであろうと先手を取られる。
見事。見事としか言うことがない。
――――だが、だが、だが。
それで終わらぬが故の“魔剣”。
条理を覆し、必敗の運命を踏破してこその“魔剣”。
状況が確定し、ジエンの思考はただ一点に引き絞られる。
――答えを出す時が来た。
クオウが剣の極致に辿り着いたように。
ジエンも剣の極致に辿り着かねばならない。
真打ちの魔剣。その術理は【剣体一致】。
すなわち、最高のひと振りをどう振るうのか、全ては担い手に託されているのだ。
極限まで研ぎ澄まされた意識が現実を遅延させる。
一瞬を切り分け、永遠にも等しい阿頼耶の狭間で、ジエンは思考する。
何故、刀に反りがあるのか。
――速く、深く、鋭く、強く、すなわち『斬る』ためである。
斬る、とはなにか。
――切っ先からの三寸に歪みのない『威力』を乗せることである。
威力、とはなにか。
――全身各部位で練り上げた力と速度を束ねて『伝達』することである。
伝達、とはなにか。
――――それは『回転』である。
記憶が走馬灯の如く、全ての魔剣を思い出す。
“絶海”の踏み込み
“薄明”の腰の捻り
“落葉”の背の伝導
“飛燕”の肩の動き
“黒鷹”の手の返し
そして、“震雷”に続けて放ったあの手応え。“当代筆頭”を打ち破ったあの瞬間の動き。
――全ての魔剣の術理の底にそれがあった。
――それこそが全ての、たったひとつの答え。
「――お、おおおおおおおッ!!」
迫るクガラをものともせず、ジエンの右足が敢然と一歩を踏みこむ。
合わせて腰が捻られ、足から伝わる力を増幅。
背が張り詰め、腰から伝わる力をさらに増しつつ横の回転に変換。
肩が回り、背から伝わる力を余さず伝達。
そして、柄を握る手は極大に増した力を切っ先に注ぎ込む。
(――ここだ)
今こそ、かつての違和感を実感に変える。
限界を超えて生まれる力、その流れに“適応”する――。
――その刹那、クガラはみた。
ジエンの全身が、くるりと回る。
踏み込んだ右足から、腰、背、肩、手、切っ先までが完璧な流れを描く。
剣を振るのでもなく、振られるのでもなく。
いっそ軽やかなほどに、無駄なく力みなく、全身を旋回させる。
体と剣をひとつに。
その身、その全てを魔剣と化して、己の全てを切っ先に乗せる。
桜が舞うようだ、とクガラは想った。
全てのしがらみから解き放たれた一刀は、それ故に美しい。
次の瞬間、クガラの振るう二刀がジエンの肩に触れる。
だが、それよりほんの僅かに早く、首筋にジエンの切っ先が触れていた。
神域の反応速度を以ってしてもなお、捉えることはできなかった。
先手を取らせた上で先に斬る、相討ちの半歩先をいく術理。
切り結ぶ刃の下に一歩を踏み込む、剣の最果て。
それこそはジエンという剣客の辿り着いた極致。
誰も防げず、避けられず、見切れず、模倣できず。
誰よりも早く、なによりも速く。
ただ、彼のみに許された絶技。
ただ、彼のみに託された絶剣。
――――【魔剣・玖桜】
真なる魔剣が、此処に成った。
◇
ふと気が付くと、ジエンは何もない真白い空間にいた。
目の前にはクガラがひとり。
その憑き物が落ちたような表情を見て、悟る。
これは神が与えてくれた刹那のまぼろしなのだ、と。
「……負けた、か。そうか、オレは負けたのか」
クガラは己を斬った相手を前に、屈託なく笑っていた。
「これが敗北、これが答えか!!
――ならば良し!! 誇ってくれ、ジエン。オマエの勝ちだ!!」
「――!!」
純粋な称賛に、しかしジエンはまなこを開かれたような心地がした。
次いで、確かな実感が心に宿る。
これが――これこそが勝利なのだ、と。
その味は快く、しかし踏み締めた屍の分だけ苦い。
それは、いつだって誰かの為に剣を振るっていたジエンが知らなかったこと。
彼が夢の果てを掴むために足りなかった、最後の一片であった。
(そうか。これが――)
空っぽになった器に暖かな光が満ちる。
数多の剣士が何故、こぞって勝とうとするのか。
彼らが何故、天下無双という称号を目指すのか。
ジエンはようやく、その開始位置に辿り着いたのだ。
“――それで、いつか、オマエを“てんかむそー”のけんしにしてやる!!”
幼い日のあの約束は、決して呪いなどではなかった。
呪いにしない為に、最期にクオウは魔剣を託しはしても、夢を託しはなかったのだ。
本当は託したかった筈だ。己が命を捨てて鍛えた剣の行く末を見たかったはずなのだ。
それでも、彼女が最後に告げた言葉はそうではなかった。
その全てを、未来になにを描くかを、ジエンに委ねたのだ。
「――ありがとう、ショウキ。おぬしがいなければ此処には来れなかった」
ジエンは微笑んだ。
夢の一歩先をいく男への敬意と、別れの寂寞を込めて、微笑んだ。
クガラは少しだけ照れくさそうな顔をして、ジエンの肩を叩いた。
「そいつは、お互い様だ。……また、つれてきて、くれるか……?」
「いつでも」
「そうか……ああ、そいつは、夢みてえだな……」
そうして、奇跡の時間は解けていく。
後にはひとり、ジエンだけが現実に残される。
だが――夢は終わらない。
否、たった今、始まったばかりであった。
「ゆこうか――」
呟いたのは誰の名か。
ジエンはひとり、御山を後にする。
手には魔剣がひと振り。肩には好敵手の残した熱。
それらを背負って、しかし、囚われず、己の道を行く。
果ては見えず、しかし、いつかは辿りつけると信じて、歩き続けるのであった。




