魔剣・黒鷹:前編
遠くで冬鶯が鳴いている。
ぼんやりと洞窟の天井を見上げたままジエンは木霊するその声を聞いていた。
御山が焼かれ、クオウを喪ったあの日から十年が経った。
気付けばジエンは三十も半ばを過ぎていた。
歳などとんと数えてはいなかったが、あるとき遠くの藩に出るのが億劫になっている自分をみつけて、それで悟ってしまったのだ。
坂を転がるように速まっていく老いに加え、度重なる魔剣の行使で肉体の限界も近づいている。
旅を始めた頃のような無茶は控えねばならない。
だが、幸いにして魔剣の奪還には支障をきたすことはなかった。
“魔剣の卵”を守っていれば、むこうから持ち主が寄って来るようになったからだ。
もっと早くに気付くべきだった。そう自嘲する気分もある。
魔剣は互いを惹きつけ合う。共鳴音はその先触れである。
であれば、最も重い魔剣の塊であるこの卵に他の魔剣が引き寄せられるのは自明の理だったのだ。
ジエンは既に山を訪れた幾人もの剣客を返り討ちにし、魔剣を奪還していた。
経過は順調と言えるだろう。
この頃になるとジエンにも残る魔剣の数がおおよそ見当がつくようになった。
いかにクオウが天才鍛冶だとて、無限の数を打ったわけではない。
彼女が鍛造した数、自分が取り戻した数、それらを勘案すれば――
「――残るは五振り、といったところか」
ひとりごち、無精ひげの伸びてきた顎をさする。
うち“薄明”ともうひと振りはジエンの腰に差してあるのだから、実質は三振りというべきか。
どうにも奇妙な心持ちだった。
全ての魔剣を奪い返す旅、クオウの遺したモノを辿る旅。
だが、元より達成感など求めてはいなかった。死んだ子の歳を数えるようなものだ。そこに未来はない。
後には何も残らない。復讐とはそんなもので、そんなことは百も承知で旅に出たのだ。
なのに。
なのに、である。
「おぬしも随分大きくなったな……」
隣に鎮座する鋼色の玉を見遣り、ジエンは思わず感嘆の息を漏らしていた。
今や、魔剣の卵はジエンの身長に伍する大きさまで膨らんでいた。
それだけではない。表面には葉脈のような枝分かれした筋が浮きたち、触れれば微かな熱すら感じるようになっているのだ。
元より尋常な代物でないことは明らかであったが、それにしてもこれは不可思議に過ぎる。
ジエンをして一時は己の正気を疑ったほどだ。
そして、その様に達成感を覚えた自分に愕然とした。
それは、それだけはあってはならないことだ。
クオウは既に喪われている。もう彼女が微笑むことはなく、ジエンが欲したただひとつが手に入ることはない。
だからこそ、ジエンも全てを捨てられた。
この旅を完遂するためならば命すら惜しくないと、神仏に祈るまでもなく己にそう決意させることができたのだ。
その決意こそが魔剣を完成させる最後の一片だと、御山が燃えたあの夜に知ったのだ。
魔剣を振るうならば命を惜しんではならない。
しかし、魔剣を集めるならば否応なく卵の成長を見守ることになる。その完成を見届けたいという欲に囚われてしまう。
この時、ジエンの剣は迷いの中にあった。
◇
「素振りをしよう」
冬の日差しが差し込む昼の頃、果実やら川魚やらで腹を満たしたジエンはふとそう思い立った。
思い立ったが吉日、洞窟を出て、ざあざあと小川がせせらぐ岸辺に立つ。
早速、ジエンは諸肌を脱いで剣を正眼に構えた。
エイ、と声を出し、一心に剣を振る。
風を切る刃音に重みが混じる。
心を研ぎ澄ませてもう一度。
己の中の改心の出来を思い起こし、もう一度。
これまで相対してきた数多の剣客を思い返し、彼らとの死合を想起し、もう一度。
剣を振り続けていると、心にこびりついた澱が剥がれていくのを感じた。
怒ったとき、迷ったとき、あるいは病んだときもジエンは剣を振ることにしていた。
元よりそれしか知らぬ身だ。
太平の世で三男坊が家を継ぐ可能性は低く、また、ジエン自身の才もあって物心ついた頃より剣の道にのめりこむことを許されていたのだ。
ゆえに、剣を振る。ただ、剣を振る。
時に人を、あるいは兜を仮想し、それを斬るようにエイと振る。
百を過ぎた頃には剣を忘れ、千を数えた頃には己を忘れ、万に至った時にはジエンは山とひとつになっていた。
そして、己の内に這入りこんだ存在を感知した。
剣は止めず、耳だけがその存在を追う。
足音からして男、間を捉えさせぬ足運びは間違いなく剣客。
そして、ジエンの振るう剣に共鳴して震えるものがひと振り。
すなわち、魔剣とその持ち主だ。
(麓にはさらに三人。こちらは這入ってくる様子はなし)
お目付役がいるとなれば流れの剣客ではあるまい。
であれば――
「――剣狼衆か」
振り向きと同時に面打ち。剣風で招かれざる客の前髪がぶわりと揺れる。
ぴたりと寸止めした剣の先、三十前後と思しき優男がじっとジエンを見据えていた。
濡れたような黒髪の、匂い立つような美男だ。上下合わせの紅色の羽織袴もよく似合っている。
だがなによりも、その顔の片側に手酷く残った火傷痕に、ジエンは見覚えがあった。
「お久しうございます、ジエン師叔」
「……アモンか。見違えたな」
「師叔は変わられませんね」
「無精なだけだ。今となってはおぬしに手入れのひとつでも学んでおけばと後悔しておるよ。なにせ、ひとりでは満足にひげも剃れぬ」
「師叔のお顔の手入れはクオウ姐がされていましたからね」
そう言ってアモンは淡く苦笑した。椿の優雅さを思わせる笑みが火傷に覆われた表情を和らげる。
薄れていた記憶が戻ってくる。
アトリ・アモン。ジエンが印可許しを得た頃に入門した武家の子だ。
かつては女童と見まがう紅顔で、幼い頃は阿坊などと呼ばれて道場の内外で可愛がられていた。
ジエンにとっても道場では最も親交篤かった相手だ。
印可許しとなれば指導側に立たねばならないが、大の大人が十歳に満たぬ子供に学ぶのは風が悪く、自然な流れで幼年組の世話を押し付けられていたのだ。
「ほんとうに大きくなったな」
知己に会うのも何年振りという様だ。
ジエンは感慨深くそう告げるが、一方のアモンは苦しそうに顔を歪めるばかりだ。
「なぜ私が剣狼衆に与しているのか、訊かれぬのですか」
表情を消し、アモンは決定的な言葉を発した。
ざあ、と薫を孕んだ山颪がふたりの間を吹き抜ける。
ジエンの双眸が微かに細まったのに、果たしてアモンは気付いたのか、言葉を続ける。
「師叔にとっては彼らはクオウ姐の仇でございます。私も幼い頃は姐様には世話になりました。ならば、私を詰るのが道理でありましょう」
「……それがしの理由をおぬしに押し付けはせぬ。なにとぞ、理由があるのだろう」
ジエンは押し殺した息にそう言の葉を載せる。
だが、その剣先はアモンを指したまま一向に揺らぐことはなかった。
言葉よりも雄弁に、その剣は憎悪を露わにしていた。
「――師叔、道場に帰りましょう」
そして、アモンは己が不実をなした理由を告げた。
「あの日、私が、あなたに魔剣を渡してしまったのが間違いだったのです。
あなたの剣は満天下に誇るべきものだ。今ならまだ間に合います。当主様も説得いたします。どうか」
「ならぬ。クオウを奪われたままにはしておけん」
「過去に囚われてはなりません。あなたにはまだ未来がある!!」
血を吐くようなアモンの言葉に、しかしジエンはかぶりを振って否定した。
その目には久しく喪われていた怒りの炎が灯っていた。
「未来が正義だと誰が決めた。過去を想うのは間違いだと誰が決めた!!
――それを決めるのはおぬしではない。違うか、アモン!!」
その声には触れる全てを焼き尽す憎悪の炎が籠っていた。
「師叔……」
思わず、アモンは一歩を進み出そうとして、ジエンの構える剣を認めて踏みとどまった。
アモンはジエンの剣をよく知る者のひとり。備えなく踏み込めば死ぬと理解しているのだ。
アモン以上に知っていた女も既にこの世にはいない。
共に稽古し、その骨子を、術理を深く理解しているのはこの青年の他にいない。
そしてまた、アモンは理解している。国中を巡ったのはジエンだけではない。
だから、わかる。
目の前の剣客は、おそらくは天下無双に限りなく近づいているひとりなのだ、と。
ゆえにこそ、言わねばならなかった。
「師叔――」
「言うな、アモン。それを口にすれば、たとえおぬしであっても斬るぞ」
「いいえ、言います。師叔、どうか正気に戻ってください――」
――きっとクオウ姐もそれを望んでおります。
そのひと言で、ジエンの脳髄はかっと燃え盛った。
束の間、十年を共にした同門の情すら焔の中に消える。
「それをおぬしが言うか、剣狼衆!!」
咆哮が喉を衝く――より尚早く、ジエンは真っ向から斬りつけていた。
応じて、アモンも腰の一刀を抜き放ち、迫る剣身の腹を打って致死の一刀を払う。
ギン、と鋼のぶつかりあう音が響き、真昼の宙に火花の星が散る。
「アモン、おぬし……」
果たして、驚いたのはジエンであった。
重い。アモンの剣は優男風のなりからは考えられないほど重い。
想像を絶するような、それこそ命を限界まで擦り減らすような鍛錬の痕をジエンは確かに感じた。
激情のままに刀を振るっては負ける。
冷徹な戦闘論理が脳裡を冷やす。ジエンの体は三歩退いて間合いを取っていた。
「お許しください、師叔。あなたに勝つにはこうするしかなかったのです。
あなたが老い、私の体が追いつくまで十年を待たねばならなかった……」
ひゅん、と空を切る音を僅かに残し、アモンが整然と正眼に構える。
“黒鷲”、それがアモンの構える魔剣だ。
神の悪戯か、あるいは意図したものか、ジエンの手に持つ一刀とは兄弟剣にあたる。姿形までそっくりであった。
「十年、長うございました。ひたすら体を苛め抜き、剣を磨き、それでも足りぬとクオウ姐の仇にも与した。
――魔剣がなければ、魔剣でなければ、あなたに勝てないと悟った!!」
「アモン……」
「憎んでください、師叔。私はあなたの妄執を断つ。それがあなたに剣を教わった者の手向けです」
紅色の羽織りが風を巻いて視界を赤く染める。
椿を思わせたその色合いが、今は血の色に見える。
ジエンは己が過去の幻想にすがっていたことを自覚した。
どうして気付かなかったのか。そこにいたのは優男などではなかった。ただひとりの修羅だった。
何故そうまでして、という問いが喉まででかかった。
だが、訊くことはできなかった。
血を吐くようなアモンの告白を聞いた今、如何な理由があろうと剣を止めることはできないからだ。
アモンは全てを捨てて挑んで来ている。
であるなら、それを全身全霊で受けとめるのが、昔馴染みにジエンができる唯一のことであろう。
だから、心は決まった。ジエンは気息を整え、真っ直ぐにアモンに向き直る。
一瞬、対面に立つ火疵の修羅が小さな子供に見えた。
道場の汗のにおい、子供の無邪気な笑み、甲高い声、遊びのように振るわれる木剣。
そんな美しい思い出を、幻視した。
「剣狼衆は四脚が一、デイシン流アトリ・アモン」
「ジエン。姓は捨てた。いざ――」
その全てを振り捨てて、ジエンは魔剣を正眼に構え、
「――参る!!」
真っ向から激突した。




