魔剣秘譚
――過去を想起する。
運命の日、ジエンは数年ぶりにデイシン流道場の内稽古に参加していた。
内稽古は一般稽古と異なり、道場でも指導に回っている者たちが当主に教えを請う時間だ。
それはジエンも例外ではない。
高弟たちの視線は痛かったが、それも甘んじて受けた。
彼なりのケジメであった。
六つの頃から数えて二十年。デイシン流はたしかにジエンを導いてきたのだから。
「道場に寄り付かなかったおぬしが、どういう風の吹き回しだ?」
稽古が終わった後、デイシン流当主はジエンだけを道場に残してそう尋ねた。
どこか残念がるような声音だった。あるいは、当主も察していたのかもしれない。
「今日をもって、この道場に来るのを最後にしたく思います」
板間に額ずき、ジエンはそう切り出した。
「……おぬしほどの天才が剣を捨てるのか?」
「剣を捨てるか、道を外れるかはわかりません。どちらにしても、もうここに来ることはないでしょう」
剣を捨て、クオウと家庭を築いて平凡に生きて死ぬか。
あるいは、ふたりで夢の続きを見に行くか。
それをジエンだけで決めることはできない。クオウの出す答え次第なのだ。
そして、そう遠くないうちに答えが出る。
だからこそ、ジエンも今日、道場にやってきたのだ。
当主は「そうか」と呟くと、長く間を置いて、深々と溜め息を吐いた。
還暦を過ぎてなお壮健である当主が、その瞬間はひどく老いて見えた。
「すまない、ジエン。儂ではおぬしを導くことができなかった」
「当主様……」
「儂はおぬしの才に見合う師ではなかった」
悔恨を滲ませる当主の声に、ジエンは何も応えることができなかった。
今となっては顔も思い出せないその老人に、ジエンはいくつもの恩があった。
才を持て余していたというなら、ジエン自身ですらそうだった。
クオウと出会うまでは、自分の形すら判然としなかった不気味な子供だったのだ。
「当主様には感謝の念に堪えません。印可を許していただいたこと、各地の道場を紹介していただいたこと。
それがしが今日まで剣の道に生きてこられたのは当主様のお陰でございます」
ジエンは晴れ晴れとした気持ちで感謝を告げた。
道場にいい思い出があるわけではない。
居場所はなかったし、幼少の頃は他の弟子に嫌がらせを受けたこともある。
だが、だからといって感謝の気持ちが嘘になるわけでもない。
形は歪でも、当主と自分は師弟だ。お互いに不器用なだけだったのだ。
今ならそう思うことができた。
「……破門にする訳ではない。たまには茶でも飲みに来るといい」
最後まで不器用だった師弟は、けれども、最後にはそうして歩み寄ることができたのだった。
◇
田園を抜けて、気持ちの良い風が吹いているのを感じる。
道場を後にしたジエンはぐっと伸びをした。
ずっと心の隅に残っていた澱を払うことができたのが、なんとも快かった。
「……いかんな。クオウを随分待たせてしまった」
はたと空を見上げれば、太陽は既に西の山の稜線にかかっている。
最近、ジエンはクオウの鍛冶場に併設された小屋で寝起きしていた。
キイチの言葉が気がかりで、彼女から目を離すことを危惧したからだ。
ただ、そのことを除けば、二人で過ごす日々は幸福そのものであった。
彼女の隣で床に就く度に鉄の自制心を要したが、その労苦すら愛おしく思えた。
クオウ曰く、魔剣の鍛造は終盤に差し掛かっているという。
全てが報われる時はすぐそこまで近付いているのだ。
「アモンに言付けを頼んでおいたとはいえ、臍を曲げてなければよいが――」
そうして、御山へと足早に進んでいたジエンは、ふと違和感に襲われた。
その正体はすぐに判明した。すれ違う人がいつもより随分と多いのだ。
この道の先には御山しかない。常なら夕刻にすれ違うことすら稀だ。
加えて、彼らの表情は一様に切羽詰まっている。
矢も盾もたまらずジエンは駆け出した。
嫌な予感がした。
心ばかりが逸って足がもつれる。
それでも、走って、走って、走って――
――そうして、燃え盛る御山を、見た。
「馬鹿な……」
麓近くまで駆けたジエンは息を切らしたまま呆然と声をあげた。
轟々と燃える御山に照らされて、周囲は真昼のように明るく、人々の姿もよくみえる。
喧騒の中、言葉もなく御山を見上げる人、対処に走りまわる人、等々。
その中に見知った顔をジエンはみつけた。
「アモン!!」
ジエンは駆け寄り、思わず顔を顰めた。
医者に介抱されているアモンは、道場の皆に阿坊と可愛がられていた紅顔を半ばまで火傷で損じていた。
自分が言付けを頼んだために巻き込まれたのかと思うと、ジエンの胸中は罪悪感で満ち満ちた。
「師叔……?」
「アモン!! すまぬ、それがしのせいで」
「師叔――」
煙を吸ったのか、アモンの意識は朦朧としている。
ふらふらと伸ばされた手をジエンは咄嗟に掴む。ここにいると答える代りに握り返す。
そうして、アモンはジエンに気付くと、じわりとその目に涙を滲ませた。
「――申し訳ありません、師叔」
瞬間、握った筈の手がするりと抜け落ちた。
その一言はなにか、致命的な予感を孕んでいた。
「……誰ぞ、生き残った者はおらぬのか?」
どこからかそんな声が聞こえてきた。
数瞬して、それが自分が発したものだとジエンは気付いた。
そして、理解してしまった。
この場にいるのは皆近隣の者ばかり。誰一人として御山に住む者はいなかった。
「誰も、おらぬのか?」
迂遠な問いだと、脳裡で冷めきった思考が自嘲する。
問わねばならないのはそんなことではない。
他の誰が焔に巻かれようと知ったことではない。
たったひとり。たったひとりだけ生きていれば、それでいいのだ。
「――クオウは、どうなった?」
そうして遂に、ジエンは決定的な問いを発した。
瞬間、アモンがくしゃりと顔を歪め、震える手で傍に置いていた大小の二振りを差し出した。
見紛う筈もない。一目でそれがクオウの鍛った魔剣なのだとジエンにはわかった。
遺品なのだと、言われずともわかった。
「これだけ、なのか?」
「あとは……あとは、奪われました。この火事は……火付けによるものです」
「――――」
瞬間、ジエンはアモンの手から二振りの魔剣をひったくると、いまだ燃え続ける御山へと駆けだした。
背にかかる制止の声をまとめて無視する。
追いすがる手も、全力で走るジエンには触れることすらできない。
炎の中に飛び込む。
熱は感じない。それを上回る恐怖がジエンの肉体を一心に駆動させている。
煙が視界を閉ざす。記憶に任せて強引に山道を登り、山頂へと向かう道を脇に逸れる。
その先にはジエンの全てがある。
クオウと出会った場所、共にガラクタを集めた洞窟、そして、彼女の鍛冶場――。
その全てが、炎に焼かれていた。
「そん、な……」
特に念入りに焼かれたのだろう。
クオウの鍛冶場も、小屋も既に跡形もなく焼け落ちていた。
数多の魔剣の姿もない。ひとつとして見当たらない。
――奪われた。そう告げたアモンの言葉が頭蓋の中で反響する。
「……そうだ!! クオウ!!」
はっとしてジエンは周囲を見回した。
鍛冶場の焼け跡にクオウの死体はなかった。
煙に咽ながら、一縷の望みを賭けて彼女を探す。
確信がある。クオウは魔剣を置いて逃げることはない。
ジエンがどれだけ願おうと、そうすることはないと確信できてしまう。
逆に言えば、アモンが魔剣を持ち帰ったということは既に――
「ッ!! クオウ!! 聞こえたら返事をしてくれ!! 頼む、クオウ……」
心が焦る。落ち着け、と念じながら思考する。
アモンは何も言わなかった。
義理堅い彼のことだ。クオウの一部でも見つけたならば、万難を排して持ち帰っただろう。
ならば、彼女はまだどこかにいる。アモンが探していない場所にある。
考えられるのは――
「――洞窟か!!」
他に選択肢はない。
ジエンは上着を脱いで行く手を阻む炎に覆い被せた。
火勢を減じた一瞬で炎を跳び越える。
猛る炎はすぐに上着に燃え移って退路を塞ぐが、構うことはなかった。
クオウにもう一度会えるなら、その瞬間に死んでも悔いはない。
洞窟の中は奇跡的に無事だった。煙が入ってくる様子もない。
空気が薄く、長くいれば危険ではあろうが、まだ望みはある。
洞窟は、さして深いものではない。
ふらつく足でもすぐに最奥に辿り着くことができた。
そして――
「なんだ、これは……?」
――ジエンは巨大な金属塊をみつけた。
大きさはジエンの胸元ほどか。
磨き上げたような滑らかな表面をもつそれは、ほぼ完全な玉の形をなしている。
少なくとも、この場にはまるでふさわしくないものだ。
だが、何よりもジエンの目を惹きつけたのは、その金属塊の前に転がっているものだった。
緋色の作務衣に、金槌と鏨。
彼女の服と、彼女が肌身離さず持っていた鍛冶道具。
それが、全てを物語っていた。
「――う、あ、ああああああ」
ジエンはその場に崩折れた。
からん、と乾いた音を立てて魔剣が手から滑り落ちる。
外で燃える炎も今は遠い。
どうせならこの身を焼いてくれればいいのに、相変わらず洞窟に迫る様子はない。
不思議と涙は流れなかった。
あるいは、そんな余分なものはもう残っていないのかもしれない。
クオウは全てだったのだ。
彼女がいないのならば、涙を流す意味もない。生きる意味もまた――
そのとき、かたん、と小さな音がジエンを現実に引き戻した。
音は足元から聞こえていた。
ぼんやりと見下ろせば、地面に転がった魔剣が小刻みに震えていた。
――まるで、目の前の金属塊に引き寄せられるように。
のろのろと魔剣を拾い、試しに切っ先を金属塊に触れさせてみる。
すると、魔剣はとぷんと音を立てて金属塊に呑み込まれてしまった。
不思議と何の抵抗もなく、根元まで。
「これは、一体……?」
恐る恐るジエンが触れても、金属塊の表面は鋼の手触りを返すのみ。
だが、触れた場所からジエンに伝わってくるものがあった。
次の魔剣を寄越せ、と。
瞬間、空っぽになったジエンの心に一滴のしずくが落ちた。
終わった人生に意味を与える劇薬の一滴が全身に広がっていく。
「……奪い返せと。おぬしはそう言っているのだな」
そうだ。何を呆けているのだ。
クオウの魔剣は奪われたのだ。彼女が、自分の為だけに鍛った魔剣が。
ならば、それを奪還するのが自分の役目だ。
己以外、誰ひとりとして魔剣を振るうことは許しはしない。
ジエンは金属塊――“魔剣の卵”に背を向けて洞窟を後にする。
途端に炎の舌がジエンを嬲る。
ちりちりと肌を焼く火が煩わしく体を這いまわる。
「……邪魔だ」
ジエンは手に持つ魔剣が伝えるままにその刃を振るう。
斬、と振り抜いた一閃が迫る焔を吹き散らす。
みしりと背中から腕にかけての肉と骨が悲鳴を上げ、その痛みを対価に切っ先が風を追い越して、疾る。
刹那、それでいい、と。
まるで祝福するかのように、全ての歯車が噛み合う音がした。
「ああ、そうか。これが――」
全身の痛みと共に、柄を握る手にかつてない手応えが駆け巡る。
己を取り巻く全ての要素が合致する。
天性の適応力、クオウの鍛った剣、自分だけの技――――
――――すなわち、“魔剣”。
「わかっているとも、クオウ。案ずるな、必ず」
全て、全て、全て。
彼女が生涯を賭けた全てを、必ず奪い返す。
クオウの死が魔剣を生み出したのだ。
鋼の色が、刃の冷たさが、彼の懺悔なのだ。
太陽が沈み、夜が来る。
炎に照らされた暗黒の空に明星が輝く、彼女が奉じた神の星が。
その夜、御山を焼く炎は一晩中燃え続けた。
◇
「師叔、よかった無事で……?」
明くる日、下山したジエンをアモンは泣き腫らした表情で出迎え――ようとして、びくりと硬直した。
顔面を蒼白にする彼に対し、ジエンは殊更に柔らかな口調で問うた。
「アモン、下手人の顔を見たか?」
「け、煙が酷くたしかなところは。ただ、彼らはクオウ姐の鍛冶場のみを狙っていたように、おもわれ……」
それ以上言葉を続けられず、アモンはがくがくと震えながらその場で平伏した。
なぜかはわからない。だが、背筋を這う恐怖がそうすべきだと強いたのだ。
「申し訳ありません、師叔!! 私が、私がもっと強ければ……」
「よい。そう自分を責めるな、アモン」
自然とジエンは慰めの言葉を口にしていた。
アモンを責められる筈がない。
彼と違い、自分はその場に居合わせることすらできなかったのだ。
責められるべきは、クオウの危機に馳せ参じることもできなかった自分だ。
そうでなければならない。
この身は、クオウの為だけに生きていたのだから。
「アモン、すまぬがクズリュウの家に言付けを頼む。
――ジエンはやることができた、と。それだけで構わぬから」
「師叔?」
冷めきったその声に不穏な色を感じて、アモンが顔を上げる。
だが、その時には既にジエンは歩き出していた。
形見の脇差だけを頼りに、黒く焼け焦げた御山に背を向けて、ひとり。
――それが、長い旅の始まりだった。
◇
「――なぜ魔剣なのか。それがしにも分からん。それを知るたったひとりはもういないのだ」
遠のいていた雨音が戻って来る。
長い長い沈黙の後に、結局、ジエンはそう答えた。
「そうかい。……じゃあ、魔剣を集め終わったらどうするんだ?」
枝先で焚き火を弄りながら、ショウキは感想の代わりにそんな問いを発した。
その口調に、忌避や同情の色はない。
だからか、水たまりに溶け込む雨のようにジエンの心も素直にその問いを受け入れていた。
しかし――
「そんなものはない。ないのだよ、ショウキ」
何度己に問うとも、それが変わらぬジエンの答えであった。
将来を考えていない訳ではない。むしろ、幾度となく自問した。
全ての魔剣を奪還し、あの鋼の卵に還し、その後にどうするか。
家に戻る。仏門に入る。あるいは、かつての“夢”の残滓を追いかける。
道がないわけではない。
なんとなれば、どこぞ武家に剣腕を売り込んで栄達を目指すことも不可能ではない。
魔剣がなくとも、その程度はできる技量がジエンには具わっている。
だが、そうする必要性を感じられなかった。
道はある。けれども、生きる目的がない。
詰まるところ、ジエンの人生にはもう、魔剣以外の意味がないのだ。
ただその一点によって完結し、完成している。
ジエンという剣士はそうでなければならない。
でなければ、魔剣を行使することはできない。
魔剣とはそういう孤独なモノなのだと、誰に教えられずともジエンは悟っていた。
だが――
「そいつは結構。なら、アンタが捨てたその余生、オレが貰っていいな」
もしも、残る未来に意味があるとすれば、この男との決着だ。
「……おぬしは時々、子供のようなことを言うな」
「悪いか?」
「いや、構わんさ。尤も、おぬしの手に委ねれば半刻と経たず終わりそうだがな」
「そいつは切り結んで決めることさ」
「ふん、違いない」
廃寺の中、ふたりは獰猛な、しかし確かな親愛の情を笑みとして交わし合った。
――剣を交わすは“相手”であって“敵”ではない。
脳裡にふと、かつてデイシン流当主に賜った言葉がよぎった。
顔も思い出せないのに教えは覚えているあたり、薄情な弟子だろう。
(いつでもそうあれれば、剣とはどれだけ自由なものになるのだろうな)
そう嘆くには、自分はあまりに多くを斬り捨てて来てしまっているが。
せめて、この男を相手にする時くらいはそうありたいとジエンは願った。
いつしか雨は止んでいた。
外では雲が払われ、彼方まで青く澄んだ空が広がっていた。




