第6話 レース、終幕
GO表示点灯、四三分後。
太平洋上、左右に赤く伸びるライン。ナビコンからの強制介入で視覚化された日付変更線だった。
一瞬で飛び越え、またたく間に後ろの果てへ消し飛んだ。この先にはもう何もない。ゴールがあるだけだ。
そしてこの時点で、義孝とアーニャの距離にはほとんど差がなくなっていた。
すでに行程の九割を走り抜け、彼らの疲労も限界に達しつつあった。かつて、訓練されていない素人が多くの事故を起こした極超音速レース。長時間の闘いに、神経はすり減り、意識は朦朧としてくる。
そんななか、アーニャは最後の弾道修正をした。方位は東京湾岸、ドーム直上、あと二千キロ。予定よりは早いが、スパートをかけるつもりだった。
一瞬後には修正空域を抜けた。仰角修正は完璧だ。あとはこのまま走り抜ければいい。シケインに達するまでは、もう何もする必要はない。
だが、アーニャは義孝のパラメータを確認せずにはいられなかった。
後方から追いすがる義孝を、どうしても振り切ることができないのだ。ナビコンへアクセスするたび、瞬間的にスピードがにぶるのがはっきりとわかる。そのたびに距離が縮まってしまうともわかっている。だが、アーニャはどうしても焦りと衝動に勝てなかった。
アーニャの電自我を前方に捉え、もはやパラメータで確認する必要もない義孝は、ひたすら彼女目指して追い上げてくる。獲物を射程におさめた、老練な鷹のように。
(こんなことが、あってたまるもんか!)
アーニャはふたたび、コンマ数秒、ナビコンへ意識をとばし、追い上げてくる義孝の位置情報を確認した。後方、一二〇六六メートル。彼女とほぼ等速度で走りつづけている。
アーニャの思念が絶叫した。すでに三万キロ以上も突っ走っているのだ。それなのに、たったの一二キロしか差をつけられていない! この程度の距離なら、ほんの弾みでさえたやすく逆転されてしまう。
だが、そんな馬鹿な。二〇分前、あの男は二五〇キロも後方にいたではないか!
(うそや、こんな……! なんで追い上げられてまうん!? なんでこんなに距離が縮まってまうん!? うちは、うちは……!)
アーニャは、初めて、対戦相手に畏怖をおぼえた。
彼女はこれまで、勝って当然の闘いしか経験してこなかった。限界まで加速してもなお後ろに張りつかれる恐怖を、アーニャはこれまで味わったことがなかった。本気をだした彼女に追いつくことは、誰にもできないはずなのだ。
(うちは、天才や……うちは、天才や! うちは二一連勝の天才、番匠アーニャなんや! このうちが、負けるはずがない!)
心が恐慌をおさえようと身悶える。恐慌は敵だ。それは闘争心を萎えさせ、たやすく集中力を奪いとる。アーニャは懸命に自己沈静をこころみた。集中さえ乱さなければ、絶対に勝てる。たしかに相手は強敵だが、自分は天才なのだ。圧倒的速さを誇ってきた自分が、こんなところで負けるわけがないではないか!
(前だけを見るんや、前だけを……絶対に逃げきる……!)
後ろの空間をばっさりと切り捨てるイメージ。アーニャは心を奮い起こすと、全霊をこめてラストスパートをかけた。
他方、義孝もすでに限界近かった。高空から、ナビコンへのアクセスを弾道修正に絞ってひたすらスピードに意識を注いできたが、その反動がそろそろ出始めていた。
感覚の奥底からわきあがる痛撃に、義孝はうめいた。一万キロ以上におよぶ過度の一点集中に神経が悲鳴をあげている。危機を訴える肉体感覚が、意識の表層へ周期的によみがえってくる。“キャノンボール”システムとの同調がずれはじめたのかもしれない。いまはまだ微かなものだが、同調が完全に崩れてしまったら意識が一気に肉体へ戻ってしまう。それは“キャノンボール”ではリタイアとみなされる。
(まだだ……あとたったの千九百キロ! 帰るまで保ってくれ……!)
痛みをおさえつけ、残る気力のすべてを前方の空間へたたきこむ。このままじりじりと接近し、アーニャにプレッシャーをかけるのだ。敗北を知らない若手プレイヤーなら、かならず経験不足の馬脚をあらわす。相手の自滅をさそって、なんとしても逆転してやる。
だが、猛スピードで追えばおうほど、東京までの距離は無情な勢いでせばまっていく。千八百キロ……千七百キロ……千六百キロ……
それにつれて、奇妙なことが起こりはじめた。
(なんだ?……アーニャめ、どうしてずれていく……!?)
かすみかける意識のなか、義孝はいぶかしんだ。アーニャの弾道がどんどん左へずれていくのだ。東京の方位はこれで正しいはずなのに、アーニャはそのコースからみるまに外れていく。
(まさか、この期に及んで方位角の計算ミスか!?……くそっ、俺とあいつのどっちがっ……!)
焦点の薄れる意識で、義孝は最後の苦痛にあえいだ。視界の果てに見えるのは星の群れ。手を取りあってなめらかに天を渡っていく。日本を出たときに見えた星座が、姿を現しはじめている。
そのとき、星座の足元でなにかが閃いた。
(東京か!? いや――)
あれは街の灯ではない。ではなんだ?
ふたたび光が閃く。
義孝は、驚愕した。
流れる星と海の間隙に、かすかに見えた紫電の輝き。同時に電自我を震わせた電波状態の異常。その正体を、彼は悟ったのだ。
前方に存在するのは、雷雲だった。
雷雲――雷――高圧電気の狂乱する破壊と死の塊!
(そんな!? 事前の気象データにはなかった!!)
義孝は、一瞬レースを忘れた。商用ネットで仕入れたデータには、こんな予測はなかったはずなのに!
だが、驚いたのは義孝だけではなかった。
(事前予報より範囲が広い!)
アーニャは舌打ちした。全身から冷や汗が吹き出る感覚を味わう。このゲリラ豪雨の発生予報は出走前に確認したが、こんなに大きくなるなんて。強敵に気を取られすぎ、気象情報を更新しなかった自分に歯咬みする。
電磁気で構成されたキャノンボーラーの電自我にとって、雷電の渦はまさに地獄だ。直撃を受ければ、電自我ごときは一瞬で四散する。それが彼らの肉体の神経系にどれほどのフィードバックダメージを与えるか――たとえ死を免れても、一生廃人になってしまうだろう。
ふたりは、同時に回避行動をとった。
(だいじょうぶ、微修正でいける!)
アーニャは、視界の左に雲の切れ間を見つけた気がした。急制動をかけ、やや左へと弾道を変える。ここまで来てやりたくない修正だったが、この障害物は熱すぎる。いまは全速で避けるのだ。雲間をすりぬけ、しかるのちに東京へと弾道を再変更すればいい。それ以外に助かる道も勝利する手段もない。
義孝も、アーニャと同じく弾道を変えた。
正面上――まっすぐ、荒れ狂う電気の渦のなかへ。
(なにっ!?)
気づいたアーニャは、義孝の正気を疑った。
(阿呆、死ぬ気か! 弾道を変えるんや、早く!)
アーニャの叫びも聞こえぬまま、義孝は雷雲へ突入した。
凄まじい量の電気エネルギーを、電磁気と化した義孝は肌で感じた。激烈な乱気流に巻きこまれ、ねじれ曲がる航空機のように電自我がスパークする。
俺は雲を突破するのだ、と彼は叫んだ。電気の速度を超えてやる。砕ける稲妻のあいだを駆け抜け、雷電の攻撃をかいくぐって天空へと躍りでるのだ。
(勝つか、死ぬか、だ――!)
刹那の思念が、空間を貫いて翔ぶ。
瞬間、彼の意識に光が炸裂した! 視野が蒸発し、情報がホワイトアウトする。激震とともにすべての感覚系が破壊され、同時に不思議な平穏が彼をつつみこんだ。優しいぬくもりが、彼とともにあった。淡い光が。意識を粉微塵にする稲妻とはちがう、おだやかな優しいあたたかい光が。
義孝は、自分の肉体が砕け散るのを感じとっていた――