癒しのちから
少年が自分の力に気付いたのは八歳の頃でした。
『いたいのいたいの飛んでいけ!』。
すりむいた膝を抱えて泣きじゃくっている友達に、そう言いながら手をかざした時のことです。
「あれ、痛くない……」
少年が手をかざしてから十数秒。いつの間にか膝からは血が止まっていました。
それだけではありません。固まった血を払い落とすと、すり傷は綺麗に塞がっていたのです。
「え、あれ?」
これには当の本人が一番びっくりしました。
「な、なんでだろ?」
「なんだっていいじゃん! お前すげーな! ありがとなっ」
友達はきらきらした目で少年のことを見つめると、「はいタッチ」とちゃっかり鬼の役を少年に押しつけてあっという間に逃げていきます。
「……?」
少年は首を傾げながらも鬼ごっこを続けるために走り出しました。残された休み時間は短いのです。
決定的な出来事はそれから一週間後の図工の時間に起こりました。
隣の席の女の子が彫刻刀を滑らせて指を切ってしまったのです。
最初は呆然と指先を見つめていた女の子は、みるみる血が滲んでくるのを目の当たりにして顔をくしゃくしゃに歪めます。少年は慌てて先生を呼ぼうとし、一瞬ためらってから自分の右手を女の子の指にかざしました。
「いたい、いたいよぅ……」
ところが女の子の指から流れる血は勢いを増すばかりで何の変化もありません。やっぱり自分には何の力もないのかもしれない。そう思い手を引っ込めようとしたところで、前にかざしたのは左手であったことを思い出しました。
「い、いたいのいたいの、飛んでいけ」
少年が左手に気持ちを集中して数秒。すぐにその変化は起こりました。流れ出る血の勢いが止まったかと思うと、無残にえぐられた傷跡がまるでビデオの逆回しのように塞がっていきます。少年はいつの間にか泣き止んでいた女の子と一緒になって呆然とその光景を眺めていました。
友達からそのまた友達へと、少年の噂はまたたく間に広がっていきました。それから一年後、今や少年は生徒の間で“魔術師”という通り名で呼ばれています。
「ねえねえ、魔術師さん。マスクの箱はこっちだよ」
放課後の保健室の中、ベッドの上にちょこんと腰掛けた少女はそばにある棚を指さします。当然のように保健委員になった少年ですが、自分は利用したことがないので保健室のどこに何があるのか分かりません。当然、マスクの保管場所なんて知るはずもありませんでした。
「そっか。ありがとう」
「どういたしまして」
少女はベッドからはみ出た足を揺らしながらにっこりと笑いました。栗色の髪は肩にかかるくらい、右耳の上に付けている髪飾りは満開のひまわりです。夏だというのに真っ白い肌をした彼女は、でもこの白だらけの部屋には自然と溶け込んで見えました。
「きみも保健委員なの?」
「ううん、違うよ。わたしはただ休んでただけ」
「……どこか、悪いの?」
ベッドの脇にきっちり揃えられている少女の上履きは踵が青く塗られています。少年と学年が同じことを示す色ですが、少女の顔を教室で見たことはありませんでした。
「うん。生まれつき、心臓がね」
――だから授業にもあまり出られなくて、保健室登校続けてるの。
それが当然だと言わんばかりに少女は微笑みます。
「……そっか」
その笑顔は口にした言葉とは裏腹にとても綺麗で可愛らしいものでした。けれど、それが少年には我慢ならなかったのです。
「どうしたの魔術師さん。怖い顔して」
「別に。大体どうして僕のあだ名知ってるんだよ」
「先輩がね、教えてくれたの。今度入ってくる保健委員の男の子は魔法使いだって」
近くで見る少女の顔は雪のように真っ白でした。まるで生まれてこのかた、お日様の光を浴びたことがないかのように。
「なら見せてあげるよ、僕の魔法」
え……? そう声を上げる少女を無視して、少年は彼女の胸に左手を当てます。
「……恥ずかしいよ」
雪の中に咲いた桜のようにピンク色に染まった頬を見て、少年は鼓動が早くなるのを感じます。それでも少女の胸の上に置いた手は離しませんでした。
数十分はそうしていたでしょうか。もしかしたら三十分以上かもしれません。突然少女が声をあげました。
「あれ……苦しくない」
少年の手に自分の手を重ねて、不思議そうに目をしばたきます。ここ数年消えることのなかった体の内側の重みが、いつの間にか軽くなっていることに気付いたのです。
「どう?」
「うん、すごく楽になった……って、魔術師さんどうしたの!?」
少女から手を離した少年の額には、びっしりと玉の汗が浮かんでいました。
「別に、なんでもない。ちょっと力使いすぎたのかも」
この一年でそれなりの数の生徒を治療してきましたが、目が回るほど力を使ったのはこれが初めてでした。
「ほらっ、ここ! ここに横になって!」
少女はさっきまで自分が座っていた場所に少年を横たえると、勝手知ったるという感じで冷蔵庫から氷枕を取ってきて渡してくれました。
「ん、ありがと……」
目を開けると気持ち悪いので暗闇のまま手探りで頭の下に敷きます。いつの間にか少女の手が少年の胸に添えられていました。まるで、自分が貰ったものを彼に返そうとするかのように。
「ごめんね、ごめんなさい……」
何を謝っているんだろう。僕は自分のしたいようにしただけなのに。睡魔に溺れていく意識の中で、少年は賢明に否定の言葉を口にしようとしますが声にはなりませんでした。
最後にかぶせられたタオルケットからは微かに甘酸っぱい女の子の香りがしました。
少女の病は完全に治ったわけではありませんでした。
それでも保健室で顔を合わせるたびに力を送り続けた結果、徐々に顔色が良くなりつつあるように少年には感じられました。
昼休みに保健室を訪れた時、体調が優れないからとよくベッドで給食を食べている少女を見かけました。保健の先生と一緒になってスプーンを口に運ぶ彼女は、とても幸せそうに見えました。
少女と会うたびに親しくなっていった少年は、彼女からいろんなことを聞きました。プールでみんなと一緒に泳ぐのが夢だということ。もうすぐ弟が生まれること。
――わたしね、初めて友達が出来たんだ。
そう言って自分の顔を嬉しそうに見つめる少女のことを、少年はいつの間にか好きになっていました。
自分の力でも治せない胸の痛みを知ったのはこの時が初めてです。
学校という閉鎖的な環境で広まった嘘のような本当の噂は、しかし学校から一歩外に出た途端に“ただの噂話”に成り下がります。ですから少年の力が学校関係者以外に知られることはありませんでした。
もっというなら、本気で少年の魔法を信じていたのは実際に彼の治療を受けた一握りの生徒に限られました。そしてその中にはあの少女も含まれていたのです。
「ありがとう、本当にありがとうっ!」
「も、もういいって! 僕は自分に出来ることをしただけなんだし」
治療を始めて数週間。今の少女は一人で外を走り回ることだって出来ます。
「だって、またお日様の下で走れる日が来るなんて思わなかったんだもん! 魔術師さんは本物の魔法使いだったんだね!」
涙で濡れた顔に満面の笑みを浮かべた彼女は、今までで一番綺麗に見えました。
「そ、そうだよ! だからさ、これからも僕に出来ることがあったら何でも言って」
これからは保健室に行っても少女に会えなくなる。それが悲しかったのです。隣のクラスにいる女の子に会いに行く、という行為は少年にとってとても勇気のいることでした。ですから、
――なら、さっそくお願いがあるの。
そう言われた時、少年はすぐに身を乗り出しました。
「あのね、自由研究で育ててたひまわりが最近元気なくなっちゃって。お水あげても治せないの。魔術師さん、何とか出来ないかな?」
「まかせろって!」
少女が自分を頼ってくれることがとても嬉しかったのです。さっそく校庭に出て問題の鉢植えを見つけます。周りのひまわりが太陽に顔を向けているのに対して、少女のそれは地面を見るようにうなだれていました。
「どう? 治せそう?」
少年の目に、少女のひまわりはすでに寿命が尽きかけているように写りました。それでも自分を頼ってくれた少女を失望させたくはありません。
「たぶん、大丈夫だと思う」
そう言いながら少年はひまわりの根っこの辺りに向かって左手をかざします。数分間そうしていましたが、目に見える変化はありませんでした。
これまでも治療の効果が現れたのが翌日以降だった例があります。あるいは既に死んでいる生物に対しては少年の力は効きませんでした。
「明日、また見に来よう」
「うん、そうだねっ!」
ところが翌日。少女のひまわりは見るも無惨な姿で枯れ果てていたのです。
黄色かった花びらは腐り落ち、葉はしおれてパリパリに乾いています。それはまるで、少年の力がひまわりの死を加速させたかのように。
「どうして……」
少年は呆然とつぶやきます。少女は無言でひまわりだったものに近寄ると、その枯れた花弁をつまみ上げました。頭を垂れているひまわりからは歪に重なりあった無数の種が覗いています。昨日はなかったはずの種、その一つが芽を出していることに気付いた時、少年は初めて自分の力が恐ろしくなりました。
きっと嫌われた。少女の顔をまともに見られなくて俯いた少年は、存外に明るい彼女の声に驚きます。
「そっか。まあ仕方ないよね! こういうこともあるよ」
そう言ったきり、種から発芽した芽を見て何事かを考えているようでした。
次回で完結。
投稿予定日は明日中です。
急転直下の結末。お楽しみください。




